名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

  

ゆるし

正教会では大斎開始直前の日曜を「赦罪の主日」として、夕刻に行われる晩課では、信徒・聖職者こぞって互いの前に伏拝し、手を取り、接吻し、赦し合いの儀式を行います。人々が互いにゆるしあうことなくして、復活祭の讃える人間のよみがえりはあり得ないからです。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さるであろう。(マタイ6:14)


もし心から兄弟をゆるさないならば

人間の弱さによる、どんな過失も罪も、私たちが悔い改めるなら、神はイイスス・ハリストスを通してお赦しになります。天の神父が、その独り子を私たちのもとにお遣わしになったのは、「裁くためではなく、救うため(ヨハネ3:17)」だからです。
 しかし神が赦さない一つの罪があります。

 イイススのたとえ話(マタイ18:23-35)。
 王から一万タラントという莫大な金を借りている家来が、返済の延期を願い出たところ、王は哀れに思って、その負債を、なんと帳消しにしてくれました。しかし、彼はわずか百デナリを貸している仲間に返済を迫り、「もう少し待ってくれ」という願いにも耳を貸さず、牢屋に入れてしまいました。これを聞いた王は、「悪いやつめ。おまえが願ったからこそ、おまえの負債をゆるしてやったんだ。わたしが憐れんだように、おまえもあの仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」と怒り、彼を牢屋に入れてしまいました。…このたとえ話をイイススは次のような言葉で結んでいます。
 「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

 赦さないこと、愛さないことを、神はお赦しになりません。「どうしても赦せないんです、お赦し下さい。どうしても……」という祈りは、たとえそれがどんなに切実な魂の叫びであっても、聞き入れられないのです。隣人を赦さない、愛さない時、私たちの内にとぐろを巻き、私たちから一切の光を奪い取る、憤怒や憎しみの焦熱はまさに地獄です。この地獄にいる限り、たとえ神は赦したくても、私たちの側がその赦しを受け取れません。私たちはこの地獄から抜け出したい。しかし、赦すこと・愛することは至難です。熱い怒りの嵐は去っても、冷たい無視の中に憎しみは生き続けます。生き生きした生命の躍動は失われます。

 十字架上で黙って首を垂れるイイススだけが、私たちに希望を与えてくれます。「わたしが赦したように赦せ。愛せ。それだけがあなたたちの復活への道だ」と。


ゆるしの訓練 1998 赦罪の主日 説教より
 
 「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」
 先ほどのこの福音をふまえ、私たちは本日、晩課の最後に、互いにひざまづき、手を取り、赦し合います。復活祭とそこに溢れる喜び、まさに神さまが私たちにもたらす喜びへ、私たちは独りぼっちで旅立つのではありません。私たちは教会として、神さまがお集めになった集いとして、手を携えてそこに向かうのです。旅立つ私たちの間に憎しみやわだかまりがあってはこの旅は無事に目的地へ着けません。そこで、大斎の最初の祈りに、実際にかたちにあらわして、体を動かしてこの赦し合いの儀式を行うのです。

 しかし、赦し合う心さえあれば、そんな格好だけの儀式をしなくたっていい。赦し合えないのに、格好だけ繕うのは意味がない、むしろ偽善だ…こういう思いが、私たちの心のどこかに潜んでいます。そうかもしれません。
 しかし、教会は、心が大切である・格好だけでは無意味である、そして赦し合いの儀式に臨む私たちの間に、もしかしたら、いやたぶん、赦し合えない・愛し合えないということもあり得るとよく知っていてなお、この赦罪の儀式を行い続けてきました。ちゃんちゃらおかしいと笑わない!
なぜでしょうか?

 長野オリンピックが先日無事終わりました。フィギヤスケートやジャンプ競技に感動された方も多いのではないでしょうか。しかし、あの素晴らしいプレイは一朝一夕で身に付いたのではありません。文字通り血のにじむような訓練の賜物です。選手たちは、心に描いた美しいプレイのイメージを、現実のものにするために、何度も何度も体を動かして練習します。心にある完全なプレイのイメージと、身体で表現する現実のプレイの一致が目標なのです。
 しかし最初はだれでも思うようにいきません。心と身体がバラバラです。

 わたしたちもそうです。長い間、わだかまりを持ち続けて、赦さないでいることの愚かさ・悲しさを・つらさを心ではしっかり知っているのに、そして赦さなければならないと思っているのに、面と向かうと手をさしのべることができない。「長い間あなたを苦しめてきました、赦して下さい」が言えない。和解をもたらす柔らかな赦しの笑顔が作れない。かえって顔を見ているうちにむらむらと怒りを新たにしてしまうという有様です。
 心と身体が、内と外がバラバラです。キリスト教ではこれを死と呼びます。肉体の死が身体から魂が離れて行くことであるように、私たちの心と身体が引き裂かれ、一致を保っていないとき、人は死の内にいます。聖使徒パウェルはこの死を自分自身のこととして次のように語っています。
 「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。…欲している善はしないで、欲していない悪を行っている。…わたしは何というみじめな人間なんだろう」…そして、パウェルは問いかけます「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。

 「我が神に感謝します。イイスス・ハリストス我らの主によってです」
 これがパウェルの答えです。そして、私たちクリスチャンの答えです
 神が人となったのは、肉体をお取りになったのは人間をこの死から救うためです。心と肉体の健康な一致を回復するためです。神・ハリストスが自ら人となって取り戻して下さった心と肉体の一致を、「ハリストスのからだ」としての教会にあって、ご聖体という「ハリストスのからだ」を通じて、私たちが自分自身のものとして回復するため、再び生きるため、よみがえるため神は肉体を取られたのです。
 この私たちにもたらされた心と身体の一致は自動的に私たちのものになるわけではありません。スポーツ選手と同じように、ハリストスという完全な愛のイメージ(イコン)を心に持ったたゆみない訓練によって現実のものにするのです。本日の赦罪の儀式も私たちの心と身体を一つにした訓練です。主の十字架のイコン、完全な赦しのイメージの前で、そのイメージを内面に持って身体は互いに伏拝し赦しを願い合います。赦し合います。心から赦せるようになるまで待つのではなく、まず身体で、行動で赦し合い、赦そうという意志を鍛えるのです。
 私たちのために身体になって下さった、ご聖体・私たちの食べ物、飲み物にまでなって下さった神の愛に、私たちは身体を通して応えなければなりません。信仰を個人の心の問題に閉じこめてはなりません。人と人との間で愛の現実に実を結んで行くのです。教会にあふれる聖神(聖霊)の恵みが私たちにそれを可能にしてくれます。