名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

 

主の洗礼



そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」


水の成聖

 水は形のないものです。入れ物でささえてやらなければ、流れ去ってしまいます。
このかたちないものが、海や川や池の深い淵に淀んでいるのを見ると、私達は何か引き込まれそうな、不安にとらわれます。この水の底に何が隠れているんだろう?いきなり私達の心のおぞましい深みに手を入 れてきて、私達をどうにも抵抗できない不思議な力で金縛りにしてしまうような、そんな存在が身を潜めているのではないだろうか?
 実際、古今東西、水は無秩序と混乱の、人間の罪とおぞましくゆがんだ欲望の象徴であり、旧約聖書では海にはレバイヤサンという怪物が棲むといわれ、私達の身近な民間伝承の中にも、池の主の大蛇だとか龍神さまだとかで、それが表されています。

 この「水」に、ハリストスは前駆授洗イオアンによって洗礼を受けられ、身を沈められました。本日御祝いしている、主の洗礼祭とはこの出来事を記憶いたします。
 前駆イオアンが民衆に授けていた洗礼は、悔い改めのしるし、罪の洗い清めのしるしとしての洗礼でした。その洗礼を、罪など少しもない、逆に私達を清めるお方であった神・ハリストスがお受けになるとは一体どうしたことでしょう。

 はじめに申しましたとおり、長い間、水は無秩序と混乱、人を罪に引き込む魔の力の象徴でありました。しかし、ハリストスという聖なるお方が、この水に入ることによって、「水は聖にされた」のです。水は、無秩序ではなくほんとうの自由、魔の力ではなくほんとうの生命を生み出す力を持ち、私達を罪から清める力を持つものとなりました。

 水は全ての生命が、植物が、動物が、人間が共に分かち持つものです。世界は水に満ちあふれています。天も地も、今ここで息をしているこの空気もみな水で満ちています。ハリストスがヨルダン川に入ることによって、この一切を貫く水がすべて聖なるものに変えられ、この生命と世界のすみずみまでが、本来の瑞々しさと輝き回復したのです。
 私達クリスチャンは、この主によって聖なるものに回復された水に、信仰を持って沈むことによって、すなわち洗礼によって、自らも聖なるものへと変えられた者たちであります。私達の救いはまさに、主がこのヨルダンの水に入られたときから開始されたといってもよいのです。

 主の洗礼祭には大聖水式が行われます。そこで、水に沈められる十字架は、かつてヨルダン川で、そして今もあらゆる場所で水を清め、私達の生命を清め新たにし続けるハリストスをかたどります。
 聖水式で成聖された水を、私達は浴び、飲み、またいろいろなものを祝福するのに用います。それを通じて、私達は、この「聖水」と書かれた瓶に入っている水ばかりでなく、世界中の一切の水が、世界中の一切の生命が、ハリストスのみわざにより新たにされたこと、聖なるものにされたことを体験するのです。

 また、水に沈められる十字架は、私達の罪の赦しのために私達にかわって十字架上で死なれたイイスス・ハリストスをもかたどります。ハリストスご自身が、御受難を前に、「自分にはまだ受けなければならない洗礼がある」とおっしゃいました。十字架での死は、ヨルダン川の洗礼によって開始された主の救いのわざを成し遂げる成就の洗礼でもあるのです。
 聖水式では、水に沈む十字架をしっかりと見つめます、心に焼き付けます。主の私達のために一切をなげうたれたご生涯に心を開きます。


三位一体の神の啓示

 よくこういう質問を受けます。「キリスト教は唯一の神を信じているんですよね?」。答えはもちろん「その通り」です。古事記や、ギリシャ神話にでてくるような、互いに喧嘩や恋や戦争をしたりする神々を、私たちはほんとうの神とは考えません。キリスト教も天使たちの存在を教えますが、これは神ではありません。あくまで、唯一の神がご自身と人間に奉仕させるためにお造りになったもの「被造物」です。また私たちは、生神女マリヤ様を讃え、聖人たちを尊敬しますが、神々として礼拝しているのではなく、神さまの恵みの中で私たちがめざすべき真の人間のイメージを実現した人たちとして、仰ぎ見ているのです。従って、世界をお造りになり、一切をつかさどっておられる神は唯一です。

 「では、『父と子と聖神一体の神』って何ですか?」という質問が続きます。
キリスト教は神は唯一のお方と信じます。しかし同時に神は「聖三者」である、神は「三位一体」であると信じます。唯一の神を信じることでは共通のユダヤ教やイスラム教との違いです。神は、天の父なる神と、私たちのために人イイスス・ハリストスとしてこの世にお降りになった神の一人子と、太陽から光が出るように父なる神から出た霊である神聖神、このお三方だと言います。「神がお三方であるなら、唯一の神ではなく三つの神か」というと、いや、「お三方は一体であり神はあくまで一つ」であります。三が一であり、一が三なんです。えっ!どうして?そういうのは言葉のあやで、ほんとうは究極的には、神はお一方か、お三方かのどっちかなんでしょう?そう思いますよね。実は、古代から大勢の頭のいいクリスチャンが、一生懸命筋道の立った考えを押し進めて、究極的には、神は一つだとか、三つだとか結論めいたことを論じてすっきりさせようと試みました。でも、そのたびに正教会は論争や会議をして、そういうすっきりした「考え」を間違った信仰、異端として斥け続けてきました。

 どうしてでしょう?「筋道の立ったすっきりした教えの方が、みんなよく納得してくれて、伝道もしやすいだろうに」。そう思いませんか?実は一つのものが「三つのように見える」とか、実は三つの別々のものが「まるで一つのように見える」などという、分かりやすい考えを捨てて、人間の頭では絶対に納得できない、「一つのものが三つであり、三つのものが一つ」であると、正教会が信仰告白し続けているのはなぜでしょう。それはハリストスのお弟子たちが、そのようなものとして神さまを体験したからです。そのようなものとして神さまを知ったからです。そのようなものとして神さまについての教えを考え出したのではないからです。考え出されたものなら、別のもっと筋道の立った考えで訂正してゆけます。でも、体験したこと、知ったこと、言い換えれば神に啓示されたことは、人間の考えに合わせて言い換えたりなおしたりはできないのです。

 本日の福音は、お弟子たちの「三位一体」体験の中心にあるものです。主・イイススがヨルダン川で洗礼を受けたとき、川の流れに立つイイスス・ハリストスの上に、聖神がはとのように下り、天から「これは私の愛する子である、私の心に適う者である」という声が響きわたりました。古代の人々独特の表現方法では、このようにしか伝えようのない神秘な出来事が起きたのです。その時、居合わせた人々は、父なる神と、父と深い愛で結ばれる子と、父からあふれ、イイススとそこに居合わせるすべての人々をたとえようのない光の中に包み込む聖神とを、聖なる三者、三位一体のお方として心に刻み込んだのです。

 教会とは、聖体礼儀とは、主のお弟子たちのこの体験を、私たち自身の体験として、受け継ぎ伝える場です。私たちは、主イイスス・神の子のみ言葉とみわざを体験します。ご自身を十字架に父への供え物としてささげたハリストスと共に、私たち自身の生活を・いのちを、パンとぶどう酒として天の父なる神にささげます。教会にあふれる神聖神のお働きによって、神の子ハリストスのお体に変えられたそのささげものを、命の糧として受け取ります。その時、実は、互いに別々の身体と心を持つ私たち一人一人が、それぞれの自由とかけがえのなさをいささかも失うことなく、あたかも、それぞれの意志と実体を持った父と子と聖神のお三方が一体であるように、一つに結ばれるのであります。「父と子と聖神」一体の神の愛のありかたが、私たちに恵みとして与えられ、愛することにしくじり続けた私たちが、愛することのできる者へと育まれてゆくのであります。孤独に自分の造った世界に向かい合う神ではなく、三位一体の、ご自身の内に愛をあふれさせておられる方であればこそ、この恵みが可能となるのです。