名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

 

十字架

いのちを施す尊き十字架の力…

 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イイススは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。…イイススは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イイススにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った「まことに、この人は神の子であった」マルコ15:33-39


キリスト教は人間の苦しみを取り除くとは約束しません 十字架叩拝の主日 説教から

私たちには、たくさんの苦しみがあります。
「正直言って、特別に苦しみって何もないんです」とおっしゃる方がまれにいますが、失礼ながら、幼稚な方か、人生の真実からじょうずに目をそらしておられる方か、一番困ったことですが、自分が背負うべき苦労を他人に肩代わりさせて気づいていない方です。聖書も人間の現実を、楽園から自らを引き離し荒れ地をさまよい、女は苦しんで子を産み、それでもなお男にしがみつく者として、また男は、不毛の地で「一生苦しんで地から食物をとり顔に汗してパンを食べる」者として、そして最後には「ちりに帰る」者として描きます。私たちの苦しみの現実です。
 この現実に対し、たくさんの「神々」が人間の苦しみを取り除いてやると約束してくれます。そんな約束を実は少しも信じていないくせに、多くの人々が少しでも不安から逃れようと神々に貢ぎます。「家内安全」「病気平癒」「厄払い」から「がん封じ」や「ぽっくり寺」まで、まるで人間の苦しみの展示会です。

しかし、キリスト教は人間の苦しみを取り除くとは約束しません。
 イイススは人々の病や苦しみをいやしましたが、それは、イイススが真の神であることを示すしるしとして、また主の憐みがあふれ出たにすぎません。主の救いのわざが完成したその最後の一週間を思い出してみましょう。そこで主が人間の救いのためにしたのは、逮捕され屈辱を受け、十字架にかけられ苦しみ、そして死んだことです。神の力は一つも発揮されず、普通の人間よりもさらに無力な姿をさらしました。主の救いの中心は、奇跡的な癒しによって人類の苦しみを取り除くことではなく、まず、ご自身が十字架の苦しみを苦しみ抜くことにあったのです。

 本日の福音(マルコ8:34-9:1)で、主は人々に呼びかけます。
 「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。
 主がお命じになったのは、ご自身がなさったように、己れに課せられた苦しみを「自分の十字架」として背負い、主について行くこと…、口あたりのよいごまかしの慰めはいささかもありません。

いろんな苦しみがあります。それらの多くは、私たちの力で何とかできるでしょう、しかし、どうしても逃れられない苦しみというものもあります。その時、私たちには二通りの道しかありません。真ん中の道はありません。
 一つは、その苦しみを人や社会のせいにして、自分の苦しみに周囲の人々を巻き込んで苦しみを一層耐え難いものにする道です。この道は滅びの道です。この時、「十字架」であるべき苦しみは、自分だけでなく隣人たちもともに滅びに引きずり込む、悪魔的な呪いとなります。「自分を捨て」ないとき「自分にしがみつく」とき、私たちにはこの道しか見えません。
もう一つは、その苦しみがどんなに理不尽に見えようとも、どんなに不条理に感じられようとも、そういう自分の思いを捨て、その苦しみを神が背負えと命じる十字架として受け入れることです。私たちクリスチャンはいつも十字架を身につけています。お守りじゃない。自分は、十字架を背負って、つまりどんなに苦しくても、この与えられたいのちを生き抜く、ハリストスについていく、という生き方を選んだ事の証しです。自分を捨てる「十字架の道」です。

 しかし、このお命じは、主の自己犠牲にならい忍耐を身につけよという道徳的な教訓ではありません。福音なのです。
主は、十字架で死んで朽ち果てたのではなかったことを思い出して下さい。三日目に肉体をもって復活なさり、人々に死への勝利を証しされました。主は人間の苦しみと死を十字架上で徹底的に分かち合うことを通じ、私たち人間が主のよみがえりを分かち合えるようにして下さったのです。ハリストスとともに「自分の十字架」を背負う者はハリストスの復活にも与るのです。ハリストスは私の苦しみを取り除いてくれたのではなく、その意味を変えて下さったのです。「私の苦しみ」はもはやこの世が私たちに強いる意味のない拷問のようなものではありません。「私の苦しみ」は、「ハリストス、神、とともに苦しむ苦しみ」へと高められ意味を与えられ、ハリストスの勝利のしるしへと変えられるのです。

 皆さん、思い浮かべてみて下さい。殉教者たちはもちろんの事ですが、身近にいる、信仰をもってご自身の苦しみを十字架として背負い抜いておられる方々、また背負い抜いて栄冠を受けられた方々の輝きを、思い起こして下さい。そして、何より私たち自身が、たとえ小さな十字架にせよそこから逃げず引き受ける時、つらさの中にも一筋の光を感じていることを。主の十字架は復活への避けられない道でした。私たちの背負う十字架もやはり私たち自身のよみがえりへの唯一の道です。