名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

変容

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった
                         (マトフェイ<マタイ>17:1-8)


変えられ得る希望 
          (名古屋教会98年変容祭説教)

 私たちは人間に対してある固定観念を持っています。残念なことに人間とは善いものだという固定観念ではなく、たいていの場合は逆です。人間の歴史に、その社会に、身近な隣人たちに、そして何より自分自身に、根深い悪を見ます。人間は、しょせん自分の利益や満足しか考えない「万人の万人に対する戦い」の状態にあり、倫理や道徳という精神的な価値も互いのエゴイズムが真正面からぶつかり合って、結果的に各人が損をしないための方便である、そういう固定観念に私たちはとらわれています。
そして、その固定観念が根拠のないまぼろしかといえば、残念なことに、むしろ現実です。旧約聖書はこの人間の悪の現実を容赦なく暴き出しています。
…しかし、それでもなお、それは固定観念にすぎないのです。

 イイススもまた、弟子たちがそんな固定観念に落ち込むことを心配されました。
 そこで、ある日、主だった三人の弟子を連れて高い山に登りました。その頂上で起きた出来事が「主の変容」という本日記憶する出来事です。
 山頂に着いた時、弟子たちの前で、突然イイススの姿が変わり、その顔は太陽のように輝き、着物は白く光りました。動転する弟子たちは、雲に覆われ、その雲の中から、ハリストスが神の子であることを告げる、神の言葉が聞こえました。出来事は一瞬のことでした。主はいつもの姿に戻り、弟子たちに「恐れるな。ただ、私が復活するときまで誰にもこのことは漏らしてはいけない」と命じました。

 やがて、イイススは、弟子たちを残して、十字架にかかることになります。
 すばらしい先生、愛と希望と智恵に満ちたみことばを語り、多くの奇跡的なみわざで、苦しむ人を救い、飢えた人々を満腹させ、死者をよみがえらせたすばらしい先生、弟子たちが「あなたは生ける神の子です」と告白したお方が、この世の悪の力の前で全く無力に押しつぶされます。このとき、弟子たちが、一つの固定観念に逆戻りしてしまわないように、即ち、世界は何も変わらなかった、人間は何も変わらなかった、やはり悪の現実だけが唯一の現実だったという固定観念に逆戻りしないように、主は、やがて復活によって明らかになるご自身の輝きをかいま見せたのです。どんなことがあっても絶望してはいけない。今日見たことを心に刻みつけておくんだぞと。

 このように、ご自身の真の姿を現して弟子たちを試練に備えさせた、その主が、私たちの内に、私たちと共に、今もいてくださいます。私たちにも、弟子たちと同じ体験をさせてくださいます。残念なことに、たいていの場合、私たちも彼らと同じように、その意味を悟らず、試練の時には試練に押しつぶされて、霊的な不感症に陥ってしまいます。ゲッセマネの園で、ご受難を前に、悪がその圧倒的な力を顕す時の前に、孤独に苦しみ祈るイイススを一人おいて眠りこけてしまった弟子たちと同じように、私たちも眠りこけてしまいます。やがてそんな体験はみんな忘れてしまいます。
 でも、思い出さなければなりません。夫婦が、親子が、友人同士が、互いの愛と自由と信頼の中で光り輝いたことが、一瞬でさえも、ありませんか?その直後にかき消えてしまったとしても。
 必ずあったはずです、また必ずあるはずです。それがなかったら人間は生きてゆけません。「クリスマスキャロル」の冷酷な老人、守銭奴スクルージでさえ、お金ではなく、愛によって生きていた遥か昔の自分を夢の中で思い出したんです。
 それは、私たちが皆、神の像(かたち)、神様が、私たちに、かくあれかしと与えた神の似姿を内に宿していることの証です。私たちが皆、神の光輝で輝くべき存在であることの証です。また、やがてこの地上で実現し、たゆまずに神への道を歩み続けた者がやがて容れられる天国の、神の国の、輝きの先取りなのです。

 「人間とはこんなものにすぎない」と考えてはいけません。確かに、私たちの力では私たち自身を変えてゆくことはできません。しかし神様にはできる。神様によって変えられ得る。
 私たちは聖体礼儀でこの「神様にはできる」を体験します。…パンとぶどう酒が主の体と血に変わるでしょう。その体と血を受けて私たちも変えられるのです。私たちは、神の恵みの中にあるかぎり、また神の恵みの中でのみ、主の変容の光にふさわしいものに変えられていくことを、現実にこの主日の集いが、この聖体礼儀が光り溢れるものとされることによって、証するのです。


「主の変容祭」の聖像
             (V・ロスキー著「聖像の意味」より。小見出し訳者付加)

    「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれ
   て現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9・1)
   〔参照…「人の子がその国と共に来るのを見るまでは~」マトフェイ16:28〕

 使徒ペトル、イアコフとイオアンが生涯を通して「わたしたちの主イイスス・ハリストスの力に満ちた来臨を知らせるのに」「ハリストスの威光を目撃した(ペトル後書1:16-18)」証人となっていることを、共観福音書の記述(マルコ9・2~9、マトフェイ17・1~9、ルカ9・27~36)は明らかにしています。

変容の光・神のエネルゲイア
 ハリストスの顔が「太陽のように輝き」服が「光のように白くなった(マトフェイ17・2)」のを見た時、そして「光輝く雲が彼らを覆った(同17・5)」時、三人のお弟子たちは何を見たのでしょうか。
 ナジアンザスの聖グリゴリイによると、この光は山上でお弟子達たちに証かされた神性でした。ダマスクの聖イオアンは、この「神性の輝き」「神子のこの世ならざる光栄」に言及し、創られざる存在は被造物のイメージでは表現しえないことから、福音記者達による太陽の光との比較は全く不十分であるとしてます。それ故この問題は神のヴィジョンであり、リヨンの聖イリネイからモスクワのフィラレトに至るまで、ハリストスの変容の主題は教会の師父や神学者の思索を止むことなく生んでいるのです。
 神の近づき難い「本質」と交流し得る神の「働き(エネルゲイア)」とに定理的区別をつける為、14世紀の公会(1341、1347、1351~52年)では恩寵の正教的定義付けに特別の関心が払われました。聖グリゴリイ・パラマ(1359年永眠)は、完全合理主義神学者の攻撃に対して主の変容の伝統的教えを守ることに於いて、キリスト教の定理と精神性に於けるこの福音的出来事の重要性に真の価値を与える方法を良く理解していました。聖グリゴリイは次のように言っています。
  
   「神はその本質によってではなく、働きによって光と呼ばれます。」

 使徒を照らす光は知覚できるものではありませんが、その一方で、ただ比喩的に「光」と呼ばれる理解し易い現実として仮に見ることも出来ます。神性の光は物質的なものでも精神的なものでもなく、被造物の秩序を越えた「三つの人格に於ける一つの本性の神聖な輝き」なのです。

   「主の変容の光は、初めも終わりもなく、たとえ眼を凝らしても見ることが出
  来ず、時間と空間に於いて無制限であり続けます。しかし、感覚の変化によって
  主の弟子達は肉体から聖神へと移ったのです。」 (講話第34)
  
 ハリストスは使徒達に「自分を無にした僕の姿(フィリップ2・6)」ではなく、藉身(受肉)に於いても、父と聖神に共通な神性を分かち難く持ち続けた至聖三者の一つの人格として「神の姿」で現れました。ハリストスの神性の現れは、同時に至聖三者の現れでもあります。

   「父は……その声で愛する子を証し、輝く雲を通して共に輝く聖神は、彼らの豊かさに属する全てと同じく、父と共に子が光を持つことを示しました。」 (講話第34)

 初めにハリストスはその神性の光栄を、使徒達がこの光景の恩寵に与り得る最大限現され、その後、彼らの力を圧倒する「輝く雲」の光明を現されました。ハリストスは見えなくなり、弟子達は恐れて倒れました。
 ハリストスの神性の光栄は「容るるに稱ひて」弟子達に現され、後に、彼らの主が十字架に掛けられるのを見た時「實に父の光」である方の受難は自発的以外の何物でもないことを弟子達は理解し得たと、師父の教えを総計する祭日のコンダク(7調)は告げています。(中略)

変容の図像表現の歴史
 聖像表現に於いて、福音的出来事の直接的表現は、6世紀ラヴェンナの聖堂のような変容の象徴的表現にかなり早くから取って代わりました。
 しかし、福音書は変容の二つの記述を提供しています。マルコとマトフェイに従うと、使徒達は神父の声を聞き輝く雲を見た後で倒れました。ルカに従うと、眠りから目覚めてハリストスの光栄を目の当たりにしています。
 後者は、例えばカッパドキアのトカーレのフレスコ(9世紀~10世紀)に見られ、使徒達は座って描かれています。この二つの所見は聖金口イオアンの註解に於いて--ある者はうとうとしている中この光景に仰天する--という具合に融合されました。コンスタンチノープルの聖使徒聖堂に於ける変容のモザイクは、この観点から描かれています。
 使徒達の姿勢はまちまちです。しかし、11世紀から聖ペトルはいつも左手で支え跪きずき、光から自分を守る為右手を挙げて(ないしはハリストスに話しかける仕種で)描かれるようになります。聖イオアン(常に中央)は、光に背を向け倒れています。聖イアコフは、光を避けるか光に背を向けて倒れています。

図例の変容祭聖像
 13世紀には、その光景に圧倒されて険しい頂上から大慌てで転げ落ちる使徒達の表情に富んだ姿勢の強調を目指す聖像がしばしば見られるようになります。この聖像表現の型は、タボル山の光に関する論争の時代である14世紀に一般的になりました。変容の光の創造せられざる特徴を聖像表現に於いて強調することが目的でした。
 それは、ここに示す図例の聖像(ロシヤ、十五世紀)にみることが出来ます。聖ペトルと聖イオアンは膝をついて倒れており、聖イアコフは手で目を覆いつつもハリストスを見ながら仰向けに倒れています。
 変容のハリストスは、モイセイとイリヤと話しながら山の頂上に立って描かれています。その衣は白く輝いています。マンドーラ(後光)の円の中に描かれている幾何学模様(ここでは六頂点の放射形)は、神の働きの超越的根源を啓示する「輝く雲」を表現しています。使徒達を指す三本の光線は、変容の働きが至聖三者一体であることを示しています。(生神女福音祭、神現祭はじめ他の聖像でもこの象徴はしばしば見られます。)
 図例の聖像ではモイセイ(右側)が本を持っていますが、一般的には十戒の石版です。イリヤ(左側)は長い髪の長老として描かれます。聖金口イオアンは、変容の時にモイセイとイリヤが現れたことを説明する次の幾つかの理由を挙げています。
  
  ①律法と預言者を表現する。
  ②シナイ山とカルメル山での神の神秘的顕現を表現する。
  ③モイセイは「死」を表現し、火の車で天に挙げられたイリヤは「生」を表現する。

 この最後の解釈は変容祭の祈祷文で強調されており、聖像表現でも時折見いだせます。16世紀から17世紀のネレジッツァの図像では、天使がモイセイを墓から起こし、他の天使はイリヤを雲から現れさせています。変容祭の終末論的性格を強調するこの主張には納得できます。ハリストスは、来世の光栄の中に来られる生ける者と死せる者との主として現れています。
 変容は「主の光栄なる再度の来臨の先取り」であったと、聖大ワシリイは述べています。変容は、ちょうど良い時に来世の眺望を開いた契機だったのです。


自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ…
           (第15主日福音から マトフェイ22:35-46)

 ニコライ堂みたいな大聖堂のお祈りが好きという方がいました。大聖堂の片隅のお気に入りのイコンの前で、美しい聖歌の響きに包まれていると、どんなにたくさん参祷者がいても、彼らの存在は背後に退き、まるで魂が天に昇っていき、神さまと一人向かい合っているようだと言うのです。反対に、地方教会の小会堂では、他の人たちの視線をいやでも意識してしまい、とてもそんな気分になれないとも仰いました。
 これは、暗い堂内で仏像と向かい合って瞑目し、静かに手を合わせるという「敬虔」さを好む日本人には、ごく自然な感想かもしれません。人間は孤独なもの。その孤独な人間の一人一人に仏や神は、語りかけ、慰めを与え、平安をもたらしてくれる。孤独なまま…。

 しかしハリストスは、「最も大切な戒めは?」と問われて「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これが第一の戒め。第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である。これは、第一の戒めと同じこと」とお答えになりました。神を愛するなら人を愛せ、人への愛を通じてしか神を愛することはできない、と言うのです。
 しかも、ハリストス・神はお命じになっただけではなく、ご自身の愛を注ぐことによって、私たちに愛の可能性を回復してくださいました。愛は、つねに挫折し私たちを再び孤独に追いやる甲斐のない虚しい徳目ではなくなりました。人は愛し得る。ハリストスの愛のうちにいる限り。

 聖体礼儀とは、愛に挫折ばかりしてきた私たちが、ハリストスによって、互いに愛し得るものとされたこと、孤独な「私」が再び「私たち」に集められたこと、すなわち私たちの「救い」を、心と声を一つに祈り、ご聖体を分かち合い、感謝する場です。
 残念ながら、「神と一人向かい合う天上的な喜び」などというものは聖歌をBGMにした自己陶酔に過ぎません。クリスチャンの喜びは分かち合いの喜びです。クリスチャンの成長は分かち合いへの成長です。