名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

復活

 ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、
 墓にあるものに命を賜えり

 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。 そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。


 「復活祭の聖像」 …その意味するもの

「黄泉降り」
 教会の教えでは、黄泉降りは救贖と分かち難く結びついています。アダムの死により、救主の天性を伴う降下(訳注:天からこの地上に、さらに黄泉にまで降ること)は、アダムが降っていたのと同じ深さにまで達しなくてはならなくなりました。換言すれば、黄泉降りはハリストスの敗退の極みを表現すると同時に、その光栄の初めでもあったのです。

 この神秘的出来事について福音記者たちは誰もふれていません。しかし、使徒ペトルは聖神降臨の日の聖神に満たされた言葉(使徒行実2・14~39)や彼の第一公書において言及しています。

  「彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」
                                               (ペトル第一公書3・19)
 
 ハリストスの黄泉への勝利……アダムと旧約の義人たちの救出は、聖大土曜日奉神礼の中心主題であると共に、復活祭の全奉事を通続し、ハリストスの肉体の復活の光栄と分かち難いものです。この主題は、言わば復活の主題と織り混ぜられているのです。
 
  「ハリストスよ、爾は地獄に降り、繋がれし者を籠むる世世の鎖を破り、三日にして、イオナが鯨より出でし如く、墓より復活せり。」
     (パスハ早課イルモス第六歌頌)

 この奉神礼の祈祷文に次いで、黄泉降りの聖像は、我等の主の霊が黄泉に降るという復活の宗教的、卓越した現実性を表現すると共に、この降下の目的と結果を示しています。この出来事の意味と調和して、この聖像の所作は、地の奥深くぽっかり口を開けた暗黒の深淵として描かれる黄泉を舞台としています。聖像の中央で主の姿勢と色調によりしっかり目立っているのが、救主です。 復活祭カノンの著者であるダマスクの聖イオアンは言っています。

  「たとえハリストスが人として死なれ主の神聖なる魂が潔き体から去ったとしても、主の神性は両者…魂と体から分かち難く残っていたのです」
     (「正教信仰注解」III、c、27)
 
 それゆえ主は、黄泉の捕虜としてではなく征服者でありそこに捕らわれる人達の救助者として、奴隷としてではなく生命の主宰としてそこに現れています。普通幾種もの青の濃淡…しばしば外周に星が瞬き主から発する光線がつんざく、光栄の象徴である燦然とした後光を伴って主は描かれます。その着物は、もはや地上での活動中描写されるようなものではなく、隅々まで細い金色の光線(アシステ)を描いて光彩を施された黄金の色合いです。

 黄泉の暗黒は、そこに降った「神人」たるハリストスの光栄の光である神の輝きに満たされています。それは来るべき復活の光、復活祭の光線と曙光です。救主は、ご自身が取り壊した二枚の黄泉の戸板を足下に十字形に交差させ足蹴にしています。多くの場合、その戸板の下、暗黒の深淵の中に、投げ倒された嫌な暗黒の王子サタンの姿が見られます。場合によりその深淵には沢山の様々な細かな物--打ち砕かれた黄泉の力、今や天使がサタンを縛る引きちぎられた鎖、鍵、釘も見られます。主の左手には、使徒ペトルの言葉に則った黄泉での復活の「宣べ伝え」の象りである巻物が握られています。時折、巻物の代わりにもはや恥ずべき処刑の道具ではなく死への勝利の徴である十字架を主が握っている場合もあります。

 黄泉の軛は主の全能の力によりばらばらに引き千切られ、ハリストスはその右の手でアダムを墓から起こしています。換言すれば、主はアダムの霊を、そしてそれと共に信仰の中に主の到来を待つ全ての人の霊を解放されたのです。(アダムとエワは、祈りの為に手を合わせている場合もあります。)
 これが、預言者を筆頭に旧約の預言者たちがこの構図左右二組みに描かれる理由です。左側は、王の衣と冠を着けたダヴィド王とソロモン王、後ろに前駆イオアン…右側には、十戒の石版を手に持ったモイセイが居ます。黄泉に降った救主を見て、自分たちが預言しその到来を予告した主と彼らは直ぐに認め互いに主を差し示しています。

 黄泉降りは、主の降下の道にあってハリストスがなされた最後の段階でした。「地の深淵への降下」の事実により、主は天国への門を私たちに開いて下さったのです。古きアダムそして彼に連なる全人類を、罪、暗黒と死の化身への隷属から解放することによって、ハリストスに結ばれ新たな復生の人となった人々に新しい生命を主は創設されたのです。
 このようにアダムの精神的蘇りは、来るべき体の復活の徴として、ハリストスの復活の初実の果として黄泉降りの聖像に描かれるのです。それ故、たとえこの聖像は、聖大土曜日に記憶される出来事の意味を表現し、その日の奉神礼の為に捧出されても、続くハリストスの復活の祝いの、そしてそれゆえ将来の死者の復活の予象として、復活祭の聖像であり、又そう呼ばれるのです。
                                      (L・ウスペンスキー『聖像の意味』より。


ある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか (コリンフ前書15:12)

 復活大祭を迎え、私たち正教徒は「ハリストス復活!」「実に復活!」と呼び交わします。教会で、家庭で、あらゆる祈りが「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓にある者に命を賜えり」と、力強い復活の讃詞で開始され、結ばれます。

 しかし、祝祭に浮かれ騒ぐ者をあざ笑うかのように、「死の現実」が私たちに襲いかかります。病気で、事故で、飢えで、戦争で…、死だけがどんな様々な人生にも共通な、人間の不変の運命に見えます。人は誰でも、最期には火葬場の煙、一握りの灰や土になって消えてしまう、突きつけられたこの「事実」に、立ち続ける力さえ失ってしまいそうです。

 しかし、ひるんではなりません。ハリストスの復活と、その約束する全ての死者の復活を、まさに「見ないで信じる(イオアン20:29)」私たちを、滅びつつある悪魔が最後の力を振り絞って、「目に見える」死の事実で、追いつめ、打ちのめそうとしているのです。
 「明日、地球最期の日が来るとしたら、君は何をする?」
 学生時代、座興でこんなバカ話しを悪友たちとしたことがあります。美味い物を腹一杯食べるんだとか、…あとは、言うのもはばかられる浅ましいことばかりでした。「死んだら何も残らないんだ」、「一つの限りある人生を越えて、永遠に存在する意味や価値などどこにも無いんだ」、そう思って生きる人生は、この「地球最期の一日」の浅ましさを、何十年にも引き延ばして生きるようなものではないでしょうか?

 私たちは、ハリストスの復活への信仰によって、この浅ましさから救い出されたのではなかったでしょうか? 人生にもう一度「YES」と言えるようになったのではなかったでしょうか? 「涙をぬぐいとって(黙示21:4)」何度でも呼び交わしましょう。
 ハリストス復活!実に復活! 

 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(イオアン16:33)」 


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
                  (携香女の主日 説教 より)

 十字架上で息絶えたイイススをアリマフェヤのイオシフはピラトに願い出て引き取りました。その日の日暮れから安息日が始まるので、主の遺体は大急ぎで墓に埋葬されました。墓と言っても当時の墓は、岩に掘られた大きな横穴であり、布で巻かれた遺体を中に安置して、重たい円形の岩を入り口に転がし蓋をします。
 安息日が終わった、三日目、すなわち日曜日の早朝、イイススの女弟子たちは遺体に葬りの香料を塗るために墓に急ぎました。ところが墓につくと、既に岩は傍らに転がされ、墓は開いていました。女たちがのぞいてみると、そこには主の遺体はなく、かわりに真っ白い着物を着た若者の姿で天使が座っていました。天使は女たちに、ハリストスはよみがえって、もう墓にはいないと、告げました。
 私たちの信仰の要であるハリストスの復活という事件の発端は、この、携香女たちの空の墓の発見と、天使による主の復活の知らせでした。

 ところでルカ伝によると天使は主の復活を知らせる際、次のように問いかけました。
 「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
 復活祭の聖歌にも、また毎主日の前晩祷の聖歌にも、「なんぞ生けるものを死者のうちにたずぬるや」と、この天使の言葉は織り込まれ、とても印象的です。死人の中、すなわち墓場をいくら探しても、復活してよみがえったお方イイススはいないという意味です。しかし、この言葉にはそれ以上に深い意味が込められているようです。

 新聞や雑誌、テレビの広告やワイドショーを見て下さい。そこには、どうやったら、世間で成功できるか、どうやったら美しく魅力的に装えるか、どうやったらお金もうけができるか、どうやったら異性に好かれるようになれるか、どうやったら健康になれるか、どうやったらよい学校に進学できるか、どうやって職場や学校でライバルをけ落とせるか、まあキリがありませんので止めますが、要するに、どうやったら、「うまくやれる」か、「面白おかしく生きられるか」、この世の幸福を掴めるか、それを教える、またそそのかす、もっともらしい、でもいかがわしい情報に溢れています。
 人生に対する深い確信が何もないまま、このような情報のがらくたの中に鼻をつっこんでいる姿は、まさに「死人の中に探す」すなわち、死んだようにしか生きていない人々の中に、自分自身死んだようになって迷い込み、何の生命の実感もないあやふやな生き方を、ああでもないこうでもないと、これは飽きたあれが面白そうと、果てしなくさまよう、この世の生き方を象徴しています。

 それに対して、ハリストスのよみがえり・復活という出来事は、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」という天使の言葉を通じて、「この世の人々の生き方の中には人のほんとうの生き方はない、主はそのご受難と復活によって私たちによみがえりを与えて下さった、そのよみがえりの生き方を、ハリストスの中に求めなさい、死人の中に、墓の中に、すなわちこの世の差し出すものの中に探していてはいけない」と、呼びかけているのです。

では、ハリストスの中に探すとはどう言うことでしょうか。
ハリストスの中に探すとは、まさに「ハリストスの体」である教会の中に探すことに他なりません。もっと正確にはこの聖体礼儀という集いの中に探すということ、いやむしろそこで体験するということです。聖体礼儀とは何なのか、簡単に振り返ってみましょう。
 まず聖体礼儀で読まれる福音書は、十字架と復活によって「この世に勝った」ハリストスを伝えます。使徒の書簡は、クリスチャンの生き方を教えます。力強い祈りの歌は、私たちを創造し生命を与え善きもので満たされた神を讃えます。私たちの日々の働き、クリスチャンとしての生活の実りを、パンとぶどう酒として祭壇に捧げ、感謝を表します。神聖神(聖霊)の働きにより、私たちの献げものは、私たちのためにご自身を十字架へ捧げられたハリストスのお体へと変えられます。主のお体と血に変えられた私たちの献げものは、最後に私たちに与え返されます。領聖です。神との交わりの味わいが回復します。そして、何よりこの回復を、そこに集い神に生かされる、信徒の交わりのなかで互いの愛の味わいとして受け取るのです。もう、ひとりぼっちではありません。新しい生活が始まります。

 死んだ者の内にはもはや「生命」は見つかりません。ハリストス復活!