名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

昇天

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イイススに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖神(聖霊)があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
 こう言い終ると、イイススは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
 イイススの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイイススは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(聖使徒行実1:6-11)

聖神降臨五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。…あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人人に語りかけた。

クリスチャンを導くもの 聖神

 クリスチャンはハリストスのお示しになった生き方を生きる者です。頭の中だけでクリスチャン、また教会に来たときだけクリスチャンであるわけではなく、生活のあらゆる面でクリスチャンとして生きているのですから、実にさまざまな具体的な課題にぶつかります。ところが、その多くの場合、ハリストスの教えや戒めそれ自体から具体的な答えを引き出すことはできません。たとえば、本人の怠けから生活に窮している友人に、お金を貸すべきか突き放して努力を促すか、「隣人を愛せよ」という教え自体から答えは出ません。

 そんな時、「天の王、慰める者、真実の神」(聖神降臨祭のスティヒラから)である聖神が私たちを導きます。
 至聖三者のうち「父」と「子」はイメージがはっきりしているのに「聖神」だけは何だかわかりにくいと言う方がよくいます。聖神は独自の意志をお持ちになる「お方」であるにも関わらず、「あらざる所なき者、満たざる所なきもの」(同上)という独特のあり方を持っているからでしょう。しかし、だからこそ、そう、まことに「風」のように「空気」のように自由な方、変幻自在な形で、この世界のあらゆる場所、人生のあらゆる局面、私たちの思いや意志や感情のあらゆるひだの中に、入り込みしみ込んで、私たちを導く事ができるのです。

 サーロフの聖セラフィムというロシヤの聖人は「クリスチャンの生活の真の目的は聖神を獲得することである」と言いきりました。聖神の恵みに満たされ、聖神の働きを内側から獲得し、聖神ご自身と同じように限りなく自由にのびやかに、そして澄み渡ったまなざしの明るさをもって、あらゆる所に神の働きの神秘や輝きを見いだし、共に生きる人々とゆったりしたくつろぎの中で喜びと愛を生きる、そしてその上、神秘としか言いようのないまばゆい光の中で神を体験する、これがクリスチャン生活の目的だと言います。

 聖セラフィムが言うように、聖神を獲得するためには、聖神の入れ物として自分自身を清めなければなりません。腐った水がよどんでいる水瓶に清らかな水を入れるためには、腐った水を洗い去らなければなりません。これがなかなか大変なのです。熱心に祈ったり、斎をしたり、聖書を読んだり、施しや教会への奉仕という善行に励んで、自分を清めようと奮闘するのですが、気がついてみると気負い立っている「自分」がどっかりと瓶の中でふんぞり返っています。この「自分」がどかないと聖神が入れません。また、仮に手際よく瓶がきれいになると「待ってました」とばかりにサタンが自分の汚物をそこに流し込んでしまいます。「私はお祈りも斎も守り、教会への奉仕や善行に励んでいる、どうだ!」と思った瞬間、人を裁き、さげすむ高慢な偽善者・自己満足に酔う者に落ちてしまいます。

 誰でもそうなります。自分の力でやろうとするから。でも心底自分の無力を悟ったとき、私たちは心の水瓶に清らかな水・聖神を満たす為の第二の道を知ります。まず最初に瓶の中の腐った水をかき出そうと奮闘するのはやめて、もうお構いなしに瓶の口から、じゃぶじゃぶときれいな水を注ぎ込んでしまうのです。いつの間にか水は入れ替わっているでしょう。ないしは、きれいな水のこんこんとあふれでる泉に腐った水の入った瓶もろともじゃぶんと飛び込むのです。どこでそんなことをすればいいのでしょう?どこにそんな泉があるのでしょう?

 教会です。ともに祈りご聖体を分かち合う集いの中にあります。聖使徒パウェルは言っています「教会はハリストスの体であって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに他ならない(エフェス1:23)」。教会には聖神が満ちみちています。主ご自身も聖神降臨祭の福音で「誰でも渇く者は私の所(すなわち教会)へ来て飲むがいい。私を信じる者は、その腹から生ける水(聖神の恵み)が川となって流れ出るであろう(ヨハネ7:37-38)」と言いました。教会を離れず、聖神の恵みの内に身をゆだねる。そしてご聖体を受ける、繰り返し受ける、どんどん受ける、その時、「私の力」でなく、神の恵みによって、私たちに聖神が満たされます。

 聖神降臨祭とは、昇天の日のお約束通り、主の復活の五十日後ペンテコステの祭り(五旬節)に主の弟子たちの祈りの集いに聖神がそそぎ込まれ、聖神に導かれた教会がこの世界に向かって働きを始めたことを記念する祭りです。しかし私たちは単に過去の出来事だけでなく教会が「今も、いつも、世世に」人々に聖神をそそぎ、人々を真の自由、真の祈り、真の愛、そして真の喜びへと導き続けることを讃えるのでます。

参考「聖神降臨祭はなぜ聖三者祭か?」(「キリスト教をとらえ直してみたい方に」)もぜひお読み下さい。


聖神降臨祭の聖像
                一致と多様性
 
(L・ウスペンスキー著「聖像の意味」より。「小見出し」は訳者による付加。)

聖神の降臨
 昇天によって「ハリストスの肉体にある働きというよりむしろ地上での肉体を伴う滞在に関係する働きは終わり、聖神の働きが始まるのです(第41講話)」と神学者グリゴリイは述べています。聖神の働きは「父の約束(行実1・4)」の成就として、五旬節の日に於ける使徒達への神聖神の降臨によって始まります。祭日初日(日曜日)の至聖三者への奉事後、翌日教会はハリストスの使徒達に目に見える形で降臨した神聖神への特別な奉事を執行します。〔訳注…五旬祭は、「至聖三者祭」(日曜日)と「聖神(降臨)祭」(月曜日)、祭期一週間で構成されています。〕
 神聖神の降臨が音響と一同の動揺を伴うと聖使徒行実(2・1~13)は述べていますが、聖像はその逆――調和に満ちた秩序と厳密な構図を示しています。使徒達が身振り手振りで話している昇天とは対照的に、こちらでは使徒達の姿勢は聖職者としての冷静さを示しており、態度は厳粛さに満ちています。幾人かが話しているとはいっても互いに少し体を向けているだけで、使徒たちは着座しているのです。

内なる意味――至聖三者における調和
 使徒行実の記述とこの聖像の構図との矛盾を理解するために、次のことを心に抱くべきです。聖像は信仰者に語りかけており、この出来事の関係者・教会の信徒に示されるもの――即ち「内なる意味」を表現しているのです。それは、使徒たちを「新しい酒に酔っている」と断言したような外面的で十分に経験を積んでいない人達がこの出来事に対して抱くものを表現しているのではないのです。五旬祭(ペンテコステ)は、火による教会の洗礼です。至聖三者に関する啓示の成就は、恩寵の賜物の充満した教会の生命と設立を表明する教会形成の最後の瞬間を表現しています。至聖三者の聖像が神の存在の神秘のしるしを示しているとすると、聖神降臨の聖像は教会と世界との関係における至聖三者の神的作用を表現しています。

  「ハリストスの働きによらず(預言者や聖神降臨以前のハリストスの弟子達におけるように)聖神は先に存在しています。しかし、五旬祭の時ハリストスはそこに共生共存して確かにおいでになられるのです。」
                      (神学者グリゴリイ「第41講話」)
 
 当日の奉神礼は、ワビロンに於ける舌の乱れ(訳注、創世記11・1~9)と聖神降臨の日に於ける調和に満ちた一致とを対比させています。
 
  「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給へり、故に我等同一に至聖神を讃栄す。」
                      (聖五旬祭コンダク 第八調)
 
 地上の塔の建設中に舌の一致を失い散らされ人類はもう一度一致を回復すべきであり、教会の精神的建物の中に共に集められ愛の火で聖なる一つの体へと融合させるべきだ、と教会の師父達は言っています。

  「このように分離せずかつ独特である至聖三者の像(似姿)に従い、ハリストスを首とし天使・預言者・使徒・致命者そして信仰の中に悔い改めた全ての人達を構成員とする聖なる教会は、その存在において一つでありながら人格(位格)において多様である新しい存在として形成されているのです。」
                      (大主教アントニイ)

 至聖三者の像に於けるこの一致、神聖神の恩寵に満たされた一つの体である教会の内なる明瞭で正確な組織が、五旬祭の聖像において実に提示されているのです。皆で一定の形――半円形を形成する十二人の使徒達は、その構成員の多様性と共に教会の体の一致の美しい印象を示しています。ここに描かれる全ては厳密で荘厳な調子を示しています。そしてそれは使徒達が前景から後退するにつれてより大きくなるという「逆遠近法」で表現されていることでより強く強調されています。
 彼らのグループ分けは、見えざる教会の首即ちハリストスの場所である人が座っていない一つの空席によって完成されます。それが、五旬祭の古代図像の幾つかが神の見えざる臨在の象徴として用意された宝座によって完成されている理由です。

図像の意味
 幾人か(福音記者達)は手に本を持っており、他は教えの賜物を受けたしるしとして巻物を持っています。円弧は天国を象っており、その外側は板のへりを越えていっています。前駆イオアンの預言(マトフェイ3・11)に従い聖神と火による洗礼のしるしとして、また使徒たちの成聖のしるしとして十二本の光線もしくは火の舌が使徒達に降っています。時折、使徒達の頭上直接光背(後光、ヘイロー)上に小さな火の舌が置かれることもあります。これは、神聖神が舌の形において降ったことを現しています。(中略)

 イオイル(ヨエル)の預言(イオイル2・28~29)の成就として、神聖神はただ選ばれた十二使徒だけに降っただけでなく、「一緒に集まっている(行実2・1)」もの全て即ち全教会に神聖神は降った、と聖伝は伝えています。それにより、ここでの聖像で十二使徒には含まれない使徒パワェル(使徒の首座として使徒ペトルと共に座している)や、七十門徒に数えられる福音記者ルカ(左列上から三番目)や福音記者マルコ(右列上から三番目)が描かれています。
 古代写本に於いては使徒行実で言及される群衆が構図下部に表現されていましたが、とても早い時期に民衆や諸民族を擬人化した「コスモス(宇宙)」の銘を伴う一人の王の象徴的姿に置き換えられました。この図像についての説明は、十七世紀の文献に見ることができます。
 
  「(中略)この人は、全世界が信仰を持たずにいた暗い場所にいます。アダムの罪により年老い、歳月に屈伏しています。彼の赤い衣は悪魔の生贄の血を意味し、王冠は世界を支配する『罪』を意味しています。彼の手の白い布の上にある十二本の巻物は、教えによって全世界に光をもたらす十二使徒を意味しています。」
                           (N・ポクロフスキイ)

内なる生命の像
 (中略)教会の生命・活動は、至聖三者の定理と根本的道に於いて結びついています。「本質において一つ、位において多様」という至聖三者の調和は、それによって教会が活動し地上で神の国を建設する道なのです。カノン的組織と衆ハリスティアニンの組織(教会共同体や修道院等)両者共、至聖三者一体の生命の地上での段階に於ける反映です。このように五旬祭祈祷に捧出される聖像両者(「至聖三者」と「聖神降臨」)は、その本質に於いて教会の内なる生命の像(イメージ)なのです。