名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

 

降誕


 神の籍身、主イイスス・ハリストスの降誕は、
 マリヤという一人の処女の
 神のご意志
 すなわち「ひとりの乙女によって神の子をこの世におくる」という
 ご意志への自由な同意によって可能となりました。
 正教はこの出来事を「生神女福音」と呼び讃え続けてきました。


発端 処女懐胎

ルカ伝 1:26-38
六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるイオシフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイイススと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

 この世の人たちは、童貞女、すなわち処女マリヤがイイススを生んだというのは「神話」にすぎず、実際は違うと考えます。イイススは、イオシフと婚約中に、マリヤと通りすがりのローマ兵との間にできた私生児であり、初代教会がイイススを神格化するためにこの「神話」をでっち上げたととなえる人さえいます。
 クリスチャンは、昔からさえ繰り返されてきたこのような「説」に耳を貸す必要はありませんが、「処女懐胎」がキリスト教に救いを求める人々にとって大きな躓きの石であることは確かでしょう。科学的な考え方しか認めない現代では、クリスチャンの中でさえ躓いてしまう人がいます。つい先頃、カナダのれっきとした正統的なプロテスタントの団体の役員が、処女懐胎は単なる伝説、キリストは神でもない、復活もなかったと公の場で語り、物議を醸しました。
 しかし、反対に、処女懐胎は躓きどころではなく私たちへの大いなる希望なのだということを、今日はお話ししたいと思います。

 聖書の初めの初め、創世記の冒頭には次のように記されています。
 「はじめに、神は天と地とを創造された。地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」
 世界を無から創造された後、神は次々と被造物を造ってゆきますが、その最初には「神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるのです。やがて、神が「光りあれ」と言われたとき、光が創造され、次々と空や、海や、植物や、動物や、月や星が造られていきます。でも、最初は神の霊がおおっている状態です。神の霊と、神のことば・神のご意志と言い換えてもよいでしょうか、この二つが働いたとき、世界は豊かな、いのち溢れる、よきものへと形作られていったのです。
 マリヤ様に於いて、この神の創造が新たに繰り返されます。造られたばかりの真新しい世界と同様、男の種を受け入れたことのない乙女を神の霊がおおいます。その時、天使ガブリエルが神のことばを伝えます。
 「聖神(聖霊)があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なる者であり、神の子と称えられるでしょう」
 聖神が乙女におおいかぶさります。あり得ないことがおきます。聖なるお方、いのちそのものであるお方、善なるお方、力あるお方、神であるお方が人間のからだに宿り、やがて人間としてお生まれになります。そのお方イイスス・ハリストスはまさに「新たなる創造」そのものであるお方です。

 今日、洗礼機密で、清められた新しい水の中から、まるで天地創造の時のように、処女の腹から生まれるように、新しいクリスチャンが生まれました。そして聖なる油をつけられることによって聖神の働きを受けました。教会という聖神にあふれた集いの新しいメンバーとして、新たなる創造を生き始めるためです。クリスチャンの人生とは、洗礼によって古い自分を脱ぎ捨てハリストスを着た私たちが、聖神におおわれ、聖神に導かれ、聖神に力づけられて、自らの人生を通じて「新たなる生き方」「新たなる人」を生み出してゆく歩みです。生神女、神を生んだ女マリヤ様と同じく、聖神にはらまされて、私たちはやがて、神を「天にいます我らの父」と呼ぶものに、ほんとうにふさわしい者として、もう一度生まれるのです。
 マリヤ様の聖神による処女懐胎は、私たちにその希望と確信を与えてくれます。マリヤ様にあったことは私たちにも可能だと。処女懐胎がなければ私たちの希望が一つ消えます。

 処女懐胎という神秘に躓くひまがあったら、私たちがふだんの生活の中で何におおわれているか、何と交わっているか考えてみましょう。競争や、効率や、見せかけの楽しみ、見えるものの、数えられるものの満足をひたすら追い求める「この世」が、私たちに覆い被さっていませんか、そういうものとばかり交わって、嫉妬や、憎しみや、高慢や、果てしのない欲求不満の種を受け入れて、騒々しく虚しい見るも無惨な心と生活を生んでいませんか。  
 覆い被さってくるこの世を払いのけて、神との交わりにすすんで身を差し出さねばなりません。口に出して「神さま私を憐れんで下さい」と祈ることから、聖書のみことばに触れることから、そして何より教会に集い、共に主を讃え、神の愛と聖神の恩寵を、ご聖体をいただいて受けることから、それは始まるのです。(98年降誕祭聖体礼儀での説教、当日朝洗礼がありました)。


ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた

                  (降誕祭福音より マトフェイ2:3)       

マトフェイ(マタイ)伝 2:1-18
イイススがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 おまえはユダの君たちの中で、
 決して最も小さいものではない。
 おまえの中からひとりの君が出て、
 わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でイオシフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、イオシフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。



 ユダヤの王ヘロデは、東方から来た博士たちの「ユダヤ人の王」誕生の知らせに、強い不安を感じました。彼は自分の権威を脅かす者へは容赦ない暴君でした。救世主が生まれると預言されていたベツレヘムとその近辺の村々に兵を派遣し二歳以下の男子を皆殺しにしました。この残酷な仕業は暴君の過剰な対応とは言い切れません。王は権力者独特の鋭敏さで、このイイススという嬰児が、やがて人類の歴史を変えるただならぬお方であると直観したのです。

 同様に、人は、はじめてイイスス・ハリストスを知ったとき、心の最も感じやすい場所に何かが触ったと感じるものです。そして、その「感じ」には、イイススという人物が、やがて自分を根こそぎ変えてしまうのではないかという不安が伴います。嬰児を皆殺しにしたヘロデ王と同様、人は毎日の仕事や多忙さへの没頭、楽しみへの耽溺など「この世の思い」を総動員して、このイイススのイメージを打ち消します。
 「普通の人」に戻れて一安心というわけです。
 実はイイススとその両親はヘロデ王の虐殺を間一髪で逃れエジプトに避難していたのです。密かに一家はユダヤの地に戻り、イイススは片田舎の村ナザレで成長し、やがて宣教を開始されました…。

 同様に、打ち消したと安心していたイイススのイメージは突然舞い戻ってきます。
 ご自身には少しも罪は無いのに、嘲りといたぶりを静かに忍び、黙って十字架に張り付けられた方。耐え難い苦痛の中でさえ、ご自分を苦しめ殺そうとする者たちのために祈った方。この方の純粋な愛に、自分のみすぼらしい魂を一切委ねて、泣いてみたいと、熱い思いで願う時が訪れるのです。
この時まで、人の心は、ほんとうには、やすらぎません。

 どんな人の心にも「小さな町、ベツレヘム」があります。ご自身の独り子がやがてそこに宿られるよう、天の父があらかじめ備えられているのです。
 多くの人々の「心のベツレヘム」に主が降誕されますようお祈りいたします。


それはまた、イイススのいのちが、この身に現れるためである
                                                (コリンフ後書4:10)

 最愛の者の苦しみは、胸を掻きむしります。心臓が締め付けられ、腸が引きちぎられるようです。ここに神が人としてお生まれになった神秘を解く鍵があります。

 ハリストスの救いはしばしば「罪の赦しの福音」と呼ばれます。その通りです。しかしそれだけなら、神が人となる必要はなかったかもしれません。天の高みから罪の赦しを人類に宣告すればよかったのです。
 最愛の子が苦しんでいれば、私たちは何をおいてもそこへ駆けつけます。できれば、その苦しみを代わってやりたい、代われないまでも、ともに苦しんでやりたいと思うでしょう。神もそうでした。神は人の肉体をおとりになり、人の苦しみを、外側から憐れむのではなく、その心臓で、その腸で「分かち合って」下さいました。
 十字架のご受難は、その分かち合いの極致でした。恐れるもののないはずの神である主が、受難を目前に恐怖におののきつつ(マルコ14:33)、汗を血の滴りのように地面に落としながら(ルカ22:44)「もしできることなら、この時を過ぎ去らせて下さるように(マルコ14:35)」と祈りました。十字架上で息を引き取られる直前、ついに「わが神、わが神、どうしてわたしを御見捨てになったのですか」と、何と神ご自身が「神にさえ見捨てられる」という人間にとって究極的な苦しみを、分かち合って下さいました。(マトフェイ27:46)

 私たちの苦しみを、その極限で、私たちの内側から分かち合われたハリストス、そのおかげで、今度は私たちが自らの苦しみを「ハリストスの苦しみ」として分かち合えます。これほど大きな希望はありません。主の苦しみ・「死の様(ロマ6:5)」を分かち合えるなら、私たちは主の「復活の様(ロマ6:5)」も分かち合えるはずだからです。
 「わたしたちは…いつもイイススの死をこの身に負うている。それはまた、イイススのいのちが、この身に現れるためである(コリンフ後書4:10)」とパウェルは言います。

 この降誕(籍身)の神秘を、正教会の聖師父たちは「神が人となったのは、人が神になるため」と大胆に表現しました。
 福音の核心はここにあります。