名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

み言葉に立ちどまる

降誕

神の籍身、主イイスス・ハリストスの降誕は、
 マリヤという一人の処女の
 神のご意志
 すなわち「ひとりの乙女によって神の子をこの世におくる」という
 ご意志への自由な同意によって可能となりました。
 正教はこの出来事を「生神女福音」と呼び讃え続けてきました。
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主の洗礼

そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」続きへ(主の洗礼


ゆるし

正教会では大斎開始直前の日曜を「赦罪の主日」として、夕刻に行われる晩課では、信徒・聖職者こぞって互いの前に伏拝し、手を取り、接吻し、赦し合いの儀式を行います。人々が互いにゆるしあうことなくして、復活祭の讃える人間のよみがえりはあり得ないからです。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さるであろう。(マタイ6:14)続きへ(ゆるし


十字架

いのちを施す尊き十字架の力…

 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イイススは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。…イイススは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イイススにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った「まことに、この人は神の子であった」マルコ15:33-39

キリスト教は人間の苦しみを取り除くとは約束しません 十字架叩拝の主日 説教から 続きへ(十字架


復活

ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、
 墓にあるものに命を賜えり

 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。 そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。


 「復活祭の聖像」 …その意味するもの 続きへ(復活


昇天 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イイススに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖神(聖霊)があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
 こう言い終ると、イイススは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
 イイススの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイイススは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(聖使徒行実1:6-11)

聖神降臨五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。…あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人人に語りかけた。

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変容
六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった
              (マトフェイ<マタイ>17:1-8)


変えられ得る希望 
          (名古屋教会98年変容祭説教)

 私たちは人間に対してある固定観念を持っています。残念なことに人間とは善いものだという固定観念ではなく、たいていの場合は逆です。人間の歴史に、その社会に、身近な隣人たちに、そして何より自分自身に、根深い悪を見ます。人間は、しょせん自分の利益や満足しか考えない「万人の万人に対する戦い」の状態にあり、倫理や道徳という精神的な価値も互いのエゴイズムが真正面からぶつかり合って、結果的に各人が損をしないための方便である、そういう固定観念に私たちはとらわれています。
そして、その固定観念が根拠のないまぼろしかといえば、残念なことに、むしろ現実です。旧約聖書はこの人間の悪の現実を容赦なく暴き出しています。
…しかし、それでもなお、それは固定観念にすぎないのです。
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十字架から復活へ

正教会の復活大祭へ向かう毎主日の福音書誦読箇所は、つい日々の生活の煩いの中で、また正教が誇る様々な教会文化への行き過ぎた熱中のなかで忘れがちな「ハリストスの救いの福音」の根幹を教えます。

とりわけ、十字架叩拝の主日から受難週を控えた聖枝主日へいたる福音は,大斎という「修道的期間」のもつ逆説を私たちに突きつけ、私たち一人一人を,主の十字架と復活に罪の赦しとよみがえりへの希望を見いだし、そこに自らを委ねるほかない「無力な罪人」として、受難週へと引き渡します。 続きへ