名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

醒めた心で・・・・・・

―聖山アトスのパイシイとの対話―

―長老様、聖師父たちはこう言いました。「徳の中で最も貴いもの、それは醒めた心、健全な判断である」。どうしてですか。

――かしこく判断できる力というのは、ただの徳ではないぞ。徳の宝冠みたいなものじゃ。

わしらの心がどんな状態にあるか、どんな徳を持っているか、みんな判断できる力にかかっているのじゃ。徳が紙で出来ておったら、頭にいただくのは紙のかんむりだし、銅の徳なら銅のかんむりになるじゃろう。黄金なら、もちろん黄金のかんむりじゃ。ところがダイヤモンドのかんむりというのもあってな。それが、今言うところの「徳の中の徳」、醒めた心で健全に判断する力なのじゃよ。

――「健全に判断する力」とはどういうものですか。

――心で物を見ることが出来る力ということじゃ。「心の目」というのは、曇りのない理性。こういう理性の持ち主にこそ、神の光で照らされた心、醒めた心があるというわけじゃ。

――階梯者イオアンはこう言っています。「二つの目で肉におおわれた物を見、判断する力をもって霊的な物を見る」。

――その通りじゃ。考えてもごらん、もしわしらの目が健康ならよく見えるじゃろうし、病気になったら視力が落ちる。視力のよさは目が健康かどうかにかかっているのじゃ。わしらの(たましい)の健康状態も同じことでな。心の「視力」、つまり醒めた心に左右されるのじゃよ。

――長老様、どうやって心の目を開くことができますか。

――どうやってハリストスが盲人の目を開かれたとお思いかね?泥を塗りつけて治されたのじゃろうが。でも、わしらの心の目を開くには、自分から罪の汚れやホコリを取り除かなければならん。だって、こう言われているではないかの、『賢者の目から穢れを除きしゆえに』。・・・・・・もし、わしらがいまだに「自分」から、あの古ぼけた人間の皮から自由になれないのであれば、自己愛やエゴイズムや他人への追従に頑固にとらわれ続けているのであれば、心の目のするどい視力を得ることは決して出来ないじゃろう。

  人が自分の霊を善いほうへ、善いほうへと成長させていく時、それが実りをもたらせばもたらすほど、心の目が開いていくのじゃ。理性が研ぎ澄まされていくから、自分の欠点がよく見えるようになり、神様からの助けを感じるようになる。謙虚になり、自分の中の欠点を克服しようとするようになる。すると、神様の恩恵、神様からの知恵の光が自然ともたらされるようになり、その結果として人が醒めた心を勝ち得るのじゃ。そうなると、人はあらゆるものに神様の御旨を見るようになり、霊的に成長していく途中でつまづいたりしなくなるのじゃ。なぜって醒めた心というのは、ハンドルみたいなもので、人を安全に導くために欠かせないからじゃ。これがあれば、道を行く時に右や左へ逸れたりしないのじゃよ。

――長老様、いろいろと具体的なケースでどう行動すべきか分からないことがよくあるのですが。

――心の目がはっきり開くようにするために、お前さんは自分を「洗濯」する必要があるな。『ラフサイク(聖人と聖師父たちの行伝)』とか『リモナリイ』、師父バルソノフィイの『記憶すべき物語』をお読み。霊的な本能をやしなうために、自分に合うものを読むがいいよ。そうすれば何が黄金で何が銅か分かるようになるじゃろう。本物の金銀細工師、心の「宝石屋さん」になることが出来るぞ。

――長老様、師父イサークはこう書いています。「神は醒めた心を徳と見なす」。

――そうじゃ。わしらのやる事なす事すべてが神の御旨にかなうためには、徳が本当の意味で徳であるためには、醒めた心が必要なんじゃ。醒めた心というのは、徳の中の塩じゃよ。だから福音書の中でハリストスがこうおっしゃっているではないかの、「およその捧げ物は塩によって塩せられん」とな。たとえば、霊的に成長するための修行で、どれだけ醒めた心が必要であることか!人は自分の持てる力がどれくらいであるか、霊の状態がどの段階にあるのか等々、よくよく判断する必要があるのじゃ。棒を曲げすぎたら、つまり物事をやり過ぎたら、まるで何も出来ないのとまったく同じことじゃ。霊的生活に有害なもので、そりゃ大変なことじゃよ。師父たちが言っておられる通りじゃ。「持てる力以上のことをやろうとするのは、悪魔のそそのかしである」。たとえば大パイシイは、20日間食物をとらないで過ごすことが出来たが、こういう人が3日間(ものいみ)するのに何も極端なことはなかったはずじゃ。だが、身体が弱くて足が震えているような人で、1年間に一度、3日間の斎をするのもしんどいと思うような人が、こういう修行を絶えず自分に課すのは、もはや極端としか言いようがない。さっき言ったように、「悪魔のそそのかし」じゃ。

――長老様、修行の場で醒めた心が必要なのは分かりましたが、どうしてそれが別の場面でも要求されるのでしょう。具体的に例をあげてくださいませんか。

――じゃあ、お前さんを例にあげてみようかな。お前さんはな、心根はやさしい母のようであるが・・・・・・先を続けようかね?

――続けてください、長老様。

――・・・・・・やり方が意地悪な継母みたいなんじゃ。自分を犠牲にしようという心がお前さんには必要十分なくらいにある。善良さに満ちあふれているのに、醒めた心がないんじゃ。どんな人がお前さんと話していて、その人が何を必要としているのか、お前さんはまるで注意を払わん。相手にどう近づくべきか、考えない。人のまわりをまるでコマみたいに回っておるのじゃ。それでお前さんの心が見えず、そのふるまいばかり目につくものだから、人はがっかりしてしまうのじゃな。

――どうしたらいいんでしょう?

――何事も醒めた心で見ることが出来るようになるよう、神様が教えてくださるようお願いしてごらん。忍耐と祈りで自らを固めれば、醒めた心を手に入れることが出来るじゃろう。

――師父ピーメンはこう言いました。「兄弟が何を欲しているか知れ。そして彼を慰めよ」。何を言わんとしているのでしょう。

――それはな、まず兄弟、つまり自分の身近な人たちが何を必要としているか知り、それから善い意味で、つまりその人それぞれに合った慰めを与えてやれということじゃ。なぜって、愛は醒めた心を必要としているからじゃ。たとえば、たくさんおいしい物を食うのが好きな人がいたとする。こういう人にいつもうまい料理を食わしてやる必要はない。というのも、それこそ人を害するからじゃ。おいしい物というのは、食欲がなくて困っている人にこそ与えるべきでな。糖尿病の人に甘いものを与えるのは、愛と言えるかの?

――長老様、すべての人を同じように愛し、なおかつ醒めた心で愛するにはどうしたらいいのですか。

――そのようなことが出来る人というのは、皆を同じように愛しているが、愛をいろいろなやり方で表すことが出来るのじゃ。ある者は一定の距離をおいて愛する。というのも、距離を置いたほうがいい人間もいるのでな。別な者はもう少し近づいて愛する。相手の益になるよう、いろいろなやり方で愛するのじゃ。ある者とはまったく話さないほうがよいということもある。別の者には、一言二言声をかけてやり、また別の者とはもう少し長く話してもよかろう。・・・・・・とまあ、こんな具合にじゃ。

――愛をあらわしているつもりが、相手を害するということもあるのですか。

――ありがたみということを知っている人間にお前さんがたくさん愛を与えてやるとすると、相手は善い意味で変わっていき、どんな場合にでもお前さんに感謝するじゃろう。でも、あつかましい人間というのもいるのじゃ。そういう者に大きな愛を与えると、ますますあつかましくなっていくものでな。大きな愛というのは、感謝する心を知る人間をさらに善くし、ずうずうしい人間をさらにずうずうしくするものなんじゃ。だから、お前さんの愛が善い効果をもたらさないようだと分かったら、醒めた心をもって愛を少なめにしてごらん。でも、それだって相手を愛しているからこそじゃがな。

――長老様、たとえば私が善意で何か他人にしてあげたとします。それが腹立たしい結果に終わってしまうということもあり得ますか。

――もちろん、あり得るだろうね。というのも、自己犠牲だって醒めた心を必要としているからじゃ。自分の出来る限り以上のことをしないよう、よくよく気をつけなければいかん。体だって限界というものがあるじゃろう?お前さんが自分の持てる力以上のことをして、誰かがお前さんに「朝から何もしないでいる」と言ったとする。お前さんは「何て感謝の心を知らない人なんだろう。私は朝から腰を上げずに働いているのに、『何もしないでいる』だなんて!」と思うじゃろう。そこで、せっかくの労力がむだに終わってしまうというわけじゃ。

――いっとき腹立たしい思いをして、その後「これはもしかして私が悪いのでは?善いことをしてあげようと思ったのは善意からではなかったのでは?」と疑ってしまったら、この場合も私の努力はむだになってしまいますか。

――その場合は、悪霊どもがお前さんを小突いているのじゃ。そんな時は平手打ちでお返ししておやり。すると連中は逃げていってしまうよ。

――長老様、醒めた心には何か限度のようなものはありますか。

――醒めた心には限度はないし、限界もなく、また決まった規則というのもないのじゃ。あるのは「是」か「否」か、あるいは「多い」か「少ない」かのどちらかでしかない。醒めた心を持った姉妹には、何か指図したり言ったりする必要はない。こういう人たちというのは、霊的に物事を判断出来るので、結果として正しく行動するのじゃ。神様の恩恵で教えられながら、霊的な本能をやしなっておるのじゃな。

――長老様、いつか私に「お前さんは近視眼だ」とおっしゃいましたが、あれは何を意味しておられたのですか。

――お前さんは、物を見る視野がせまいのじゃ。お前さんが気にしているのはいつも表面的な規則のことばかりで、人を見ようとしないではないかの。たとえば、奉神礼の時に、お前さんはこう言うじゃろう、『この人にはあそこに立ってもらおう。あの人にはこれを歌ってもらおう』とか何とかな。

ところが『この人』に立つ力があるかどうか、『あの人』にこれを歌えるかどうか、そういうことをまるで考えもせんのじゃな。・・・・・・そういうわけで、まず「あれをすべきだ、これをすべきだ」というのを実地にどう取り入れるか、どこに当てはめるか考える必要がある。それをやって初めて、人に「これをやってちょうだい」と求めることが出来るのじゃ。お前さんには醒めた心がないので、それだから何もかも杓子定規にやろうとするのじゃ。

 そもそも、教会の規範を人々の益にかなうよう正しく行うには、その当事者が霊的に成熟し、なおかつ霊的に判断できる能力を持っていなければならん。そうでないと、ただ規範を文字として扱っているだけだということになってしまう。それは人を殺してしまうのじゃ。「教会法典集にはそう書いてある」と言っても、それを文字通りに取り入れる前に、そのつど事態を分析して取りかかる必要がある。わしが現場で見てきたことというのは、一つの事例の背後に何千もの別の事例があり得るということじゃ。教会が課す懲罰だって、課す相手の状態や、おこなった事や、どれだけ悔いているのか、その他もろもろを考慮に入れなければならんのじゃ。ここでは処方箋がたった一つというわけではない。何にでも当てはめられる万能の規則というものは存在しないんじゃ。

 どんな場合でも重要なのは、醒めた心、神様の光で照らされた智慧じゃ。だから、神様が人々に智慧を授けてくださるよう、わしはいつも祈っているのじゃ。そうじゃな、こんな風にいつも言っておる。「わがハリストスよ、私たちは自分たちの住むべき家を失ってしまいました。そしてそこにたどり着くべき道が分かりません。私たちの家、私たちの父がいます所をお示しください。どうか私たちを教え導いてくださいますよう」。

(終わり)