名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

女性の神品(聖職者)叙聖について

…聖公会の友人への手紙
                   アレキサンドル・シュメーマン神父

親愛なる友よ
 あなたから、女性の司祭叙聖について正教会はどのように考えるか書いて欲しいとお願いされた時、そんなに難しいことではないと思いました。正教会は「女性司祭」に反対であることを表明し、教義やカノン(教会規程)また精神性の面からその理由を説明するのは簡単なことですから。
 しかし、やがて私は、そのような答えは無益であるばかりか有害でさえあると確信するようになりました。
 無益と言うのは、「女性司祭」の提唱者たちは、すでに正教会の聖書的、聖伝的、カノン的な「公式見解」はよく知っています。また、私たちの教会論的な立場も一般によく知られています。もっともその評価は、一種の「流行」もあって、教会一致という現在の課題へのエキュメニカルな貢献として歓迎するものと、「古代的」「偏狭」「見当はずれ」として簡単に片づけてしまうものとに分かれますが…。
 有害であると言うのは、そのような答え方が、正教会の見解を、正教的精神とは無縁な神学的な文脈と見方が支配する土俵に上げてしまい、正教会の真意と立場が歪められてしまうからです。
 また、正教会はこの問題に直面したことはかつてなく、この問題を論じるのに何の基盤もありません。伝統と教会の経験の中に参照すべきものが何もない、まったく「よその」「非現実的な出来事」です。要するに私たちはこの議論に対して何の準備もできていないということです。

 そういうわけで、あなたのお求めはなかなか難題なのです。
 この問題を誤解のないように論じようとするなら、「女性」ではなく「司祭」に対しての、正教会の見方を説明しなければなりません。それは結局、至聖三者(三位一体)の神、創造、陥罪と救済について、また「教会」とその神秘について、そして人間の神化と、被造物全体のハリストスにあっての「完成」について説明しなければならないということです。それなくして、なぜ私たちにとって、女性の司祭叙聖が、正しい信仰の根こそぎの回復し得ない破壊であるか、聖書全体の拒絶であるか、そして言うまでもなく一切の(エキュメニカルな)「対話」の終焉であるかを理解していただくことは不可能でしょう。おそらく私の答えは、保守的な、伝統主義的な現状維持のための発言としか受け取っていただけないでしょう。また、今日、多くのキリスト者たちが、「偽善」「神のみ旨の無視」「世界の現実への無知」…とうんざりするほど罵倒を繰り返しているものに加担する発言の一つとしか受け取っていただけないでしょう。ひとたび教会の聖なる伝統を拒絶した者たちが、もはや伝統に基づく論証に耳を傾けることはあり得えないことは自明のことです。

 ではしかし、彼らの耳に何を語るべきでしょうか?…「驚き」です。
 私たちは、女性の神品叙聖が一つの「問題提起」として持ち出され、あれよあれよという間に教会の実践的な事案のレベルに移され、ついに教会政策の問題に帰着してしまい投票(!)の対象となるという、その展開と、私たちには理解できない性急さに対して、驚きあきれ果てています(結局、正教会のこの件に対する反応は驚き以外の何ものでもありません)。途方に暮れるこの私にできるのは、私の理解する限りで、その驚きの中身を述べて、この驚きを皆さんに伝えようと試みることぐらいでしょう。
 
 私たちの驚きの最初の次元は教会間対話の次元での驚きと呼べるでしょう。
 皆さんの「女性司祭」についての議論は、私たちがずっとぼんやり感じていて、今や疑いもなく確信できるある事実を、白日の下にさらしました。それは、西方教会が、自分たちの問題以外の領域への無関心の中で、まさに習い性となって身につけてしまったものの正体です。西方教会はむろん反論するでしょうが、いわゆる「教会一致運動」と呼ばれるものでさえ、当初からそして今でも、一貫して、西方的な諸前提に基づき、とりわけ西方的な物事の進め方に枠づけられた、純粋に西方的な現象であったということです。
 私は西方のプライドや尊大さを指摘しているのではありません。むしろ、西方キリスト教は強い罪責意識にとりつかれ、自己批判や自己断罪をまるで楽しんでいるのではないかといった状態です。彼らは自分自身を超えられないのです。すなわち、今まで何の疑問もなく「普遍的」なものと考えてきた、自分たちの経験、問題、思考様式そして優先事項を、真の普遍的、真の「カトリック(公同的な)」な体験の光のなかで、評価し直さなければならないという、実に簡単なことがわからないでいるだけなのです。確かに西方のクリスチャンたちはほとんど「熱狂的」に自らを裁き断罪します。しかしそれは、彼ら自身の用語によるもの、度し難く「西方的」な視点からのものにすぎません。彼らは、彼ら自身の凝り固まってひとりよがりな特殊西方的「文化状況」の中で、ひとたび、「女性に対してこれまで行ってきた不正を正さなければならない」という方向性が出るやいなや、あっという間に事を運んでしまいます。それについて「他の者」たちがどう考え、どれほど深刻に驚くか、気にもとめません。エキュメニカルな精神と共感と理解が生かされるべきまさにこの時に、西方教会の側にそれらが欠落 していることが、どれほど私たちを悲しませるか、少しも気づこうとしません。

 私はしばしば正教会にも歴史的な制約を受けた性格や傾向があることを率直に指摘してきました。だから言わせて欲しい、というのではありませんが、精一杯の誠意をもって申し上げたい。すなわち、私には、「女性司祭」の議論は地方的な議論であり、西方の自己中心性と自己満足に深く刻印され限界を設けられているとさえ思えます。それは、西方文化の「流れ」(トレンド)は何もかもがキリスト教の伝統全体に再考を促しているという、ほとんど子供っぽいといっていい思い込みによるものです。
 私たちは、この苦難に満ちた世紀の最近の数十年間に、何と多くの「流れ」を見せつけられてきたことでしょう!何と多くのそれらに対応する「神学」が生まれたことでしょう!しかしながら、今回の問題には決定的な違いがあります。今までの「流れ」は、「神の死」や「世俗都市」や「生命の祝祭」等のような、二、三冊のベストセラーを出したら消え去ってしまうような知的で学問的な気まぐれにすぎませんでしたが、今回の問題には、一度起きたらもはや逆行できない回復不能な「行動」を引き起こしてしまう「脅威」がともなっています。この脅威が現実のものとなったら、今度こそはキリスト教界の最終的な分裂を引き起こすだろうと、私は確信しています。少なくとも正教会にとっては、それは一切の対話の終焉を意味します。

 女性司祭の提唱者たちは、聖書や伝統が女性を神品職から排除しているのは「歴史的な条件」によるのだと説明しています。ハリストスが十二弟子に女性を加えなかったのは、また教会が何世紀もの間女性を司祭職に任じなかったのは、そんなことは思いもよらなかった当時の「文化」のせいだというのです。私はここで、この見方についての神学的・聖書解釈的な議論も、歴史学的根拠についての議論もするつもりはありません(もっともそのような歴史学的根拠といったものは、とても微弱で不安定なものに思われます)。
 私をほんとうに驚かせるのは、女性司祭の提唱者たちが、過去の文化とそのキリスト教への影響に対する自分たちの理解に絶対の自信を持ちつつ、彼ら自身が現在発言していること自体も彼らがその下に服している「文化」に制約されていることに全く気づいていないということです。彼らは実に簡単に、この世での過渡的な現象、また始まったばかりの現象を、教会の構造のまさに根本的変革を十分に正当化するものとして受け入れてしまいます。さらに、この潮流を、「権利」「正義」「平等」などの、どう考えてもキリスト教信仰を適切に表現し教会になじむとは思えない観点から、受け入れてしまいます。これらを、他にどのように説明すべきでしょうか?

 悲しむべき真実は、今日提案され討議されている女性の神品叙聖の考え方は、あまりにも多くの混乱と還元(訳注:この場合はあらゆるものを一つの要因に帰着させてしまう単純化)の結果であるということです。この考え方が「文化」に条件づけられているとすれば、それはまさに「聖職者主義」という「文化」に組み伏せられていると言うべきでしょう。
 女性司祭の実現を目指す主張はほとんど完璧に、古くからの聖職者主義的な教会観と、それに関係する二重の還元(単純化)に支配されています。一つは教会というものを「権力構造」に帰してしまう単純化、もう一つはその権力構造を聖職者と同一視してしまう単純化です。
 「世俗社会の権力構造の中で女性が劣等なものとされてきたことが、教会での女性の劣等性、即ち聖職からの排除の理由だったのだから、今開始されつつある世俗社会での女性解放は教会での「女性解放」をも促し、もはや女性が聖職者になれない理由はない」という見方です。

 しかし教会はこのような観点に単純に還元され得るものではありません。教会の生命の言いようのない神秘を、その本質と無縁な概念や思想でとらえようとすれば、教会は「諸要素」に断片化されてしまい、その真の力、その光栄と美とその超越的な真理は、私たちから逃げ去ってしまいます。

 これが、この手紙の結論を、いろいろな「証拠」をあげて説明し正当化するのではなく、単に私の「告白」として述べる理由です。
 私は告白します。女性が司祭に叙聖されないのは、人々がでっち上げた「女性の劣等性」とは何の関係もありません。完全に無関係です。私たちの信仰の内実をなし教会の生命を形作る唯一の本質的な現実にあっては、また完全な交わりであり、完全な知識であり、完全な愛と究極的な人間の神化である神の国の現実にあっては「男も女もありません(ガラティヤ3:28)」。その上さらに、「今、まさにここで」私たちが与っているこの現実にあって、私たちは皆、いかなる差別もなく、王であり司祭です。ハリストスが私たちに回復して下さったのはこの人間の本性と使命の本質的な司祭性です。
 教会は、まさに、この司祭性の贈与であり、この究極的な現実の受容です。教会がこのようなものであり、またいかなる限度も制限もなく、いつでもどこでも、聖神(聖霊)の賜物であれるように、神の独り子はご自身をただ一度の犠牲として差し出し、このただ一度の犠牲と唯一の司祭性を、まさに教会の基礎として、教会の「かたち」として、お据えになりました。

 この司祭性はハリストスのものであり、私たちのものではありません。私たちの内、誰も、男であれ女であれ、その司祭性に対する「権利」を持つ者はいません。これは断じて、人間のなし得る仕事ではありません。
 教会の司祭は「もう一人の」司祭ではありません。教会で献げられる犠牲は「もう一つの」犠牲ではありません。それは、永遠の唯一のハリストスの司祭性であり犠牲です。正教会の奉献の祈りに次のような句があります。「蓋し、ハリストス我が神や、爾は献ずる者と献ぜられる者、受ける者と頒たるる者なり」。かくして、制度として教会に置かれる司祭は彼自身の存在論を持ち得ません。それはただハリストスご自身を存在せしめるために、このハリストスの唯一の司祭性とただ一度の犠牲を、教会の生命の源泉・人々が聖神(聖霊)を「獲得」する源泉にするために、存在しているにすぎません。この唯一の司祭性を担い、そのイコンとなり成就者となるのが男性であるなら、その理由は、ハリストスが男性であり女性ではないからです…。


 なぜでしょう?もちろん、その問いは唯一の重要で適切な問いです。どんな「文化」も、どんな「社会学」も、どんな「歴史学」も、たとえどんな「聖書解釈」でさえその問いに答えることはできません。教会における本源的で本質的な意味での「神学」のみがその問いに答えることができます。その神学とは「真理」であるお方そのものに、心と思いを貫き、このお方を眼前に見る(vision)ことであり、造られざる「神の光」に浴することです。まさにこのきよめられ回復された体験(vision)の内でこそ、なぜ、神とその被造物との、神とその選ばれた人々との、神とその教会との関係の、言語に絶した神秘が、結婚の神秘・神秘的な婚姻の成就としてその本質を啓示しているのかを理解し始めることができるのです。言い換えれば、この体験の中でこそ、究極的な真理とご計画への瞑想を通じて、神の創造そのもの、教会そのもの、人間と世界そのものが、花嫁として、日の光をまとった女として啓示されるのはなぜか、また教会はその愛と知識の深みで、また喜びと交わりの深みで、自らを、「ヘルビムより尊くセラフィムに並びなく栄え」る一人の女(「生神女マリヤ」)と同一化するのはなぜか 、その理由が理解され始めるのです。

 損なわれ堕落したこの世で用いられる手段でこの神秘を「理解」しようとしても無駄です。そこでは、この世は損なわれ分断され、緊張と二分法により、どこまで行っても、この究極的な体験(vision)に浴し得ないことが明らかになるだけです。逆にこの体験(vision)と独自の経験こそが、この世に対する私たちの理解のための、また人間的・歴史的・文化的な見方に縛り付けられてきたこの世の一切に対する、神の真の勝利への可能性と出発点とならなければならないのです。