名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

「聖書のみ」その前提

本稿はClark Carlton "The Way ――What Every Protestant Should Know About the Orthodox Church"の第五章の翻訳である。著者は南部バプテスト派から正教会に転じ、ニューヨークのウラジミール神学院でJ.メイエンドルフに師事し、卒業後は本書「道、すべてのプロスタントが正教について知っておくべきこと」をはじめ、正教定理神学についてのすぐれた解説書を上梓している。



第五章 「聖書のみ」その前提

あなたの先祖が立てた古い地境を移してはならない。 箴言22:28

 「南部及び東南部バプティスト神学セミナリー」の摘要は、その冒頭で次のように断定する。
 「新旧約聖書は神の霊感によって与えられた、救いをもたらすあらゆる知識、信仰、服従についての唯一の充分で、確実な、そして権威ある規範である」。
 「聖書のみ」の教理がプロテスタント神学のまさに土台であると言明しても、そこにはいささかの誇張はない。宗教改革の霊的な子孫たちは誰であれ、――自らをプロテスタントと呼ぼうが呼ぶまいが、この原理によって形成された精神を表出している。「聖書のみ」は他のどんな教義にもまして、プロテスタンティズムが何たるかを明示している。それゆえに「聖書のみ」は教派を問わずすべてのプロテスタントと、伝統的な正統信仰を隔てている亀裂の中心に横たわっている。

「充分」とは言うが、どのように充分なのか

 しかしながら、ほとんどの宗教改革者たちの教義と同様、「聖書のみ」の概念は人それぞれにみな異なっている。すべてのプロテスタントに普遍的に受け入れられる「聖書のみ」についての理解の輪郭を述べることは不可能である。この概念は様々な色相を持って連なる一つの連続体(continuum)と考えるのが一番いい。一方の端にルターやカルヴァンらのような改革者たちがいる。彼らは救いの知識について充分な源泉として聖書をとらえる。反対の端にいるのは過激派で、聖書は教義についての充分な源泉であるだけではなく、礼拝と教会生活についての唯一の排他的な導き手であると主張する。

 前者の立場は、ジョン・マッカーサーのような現代の多くの改革派神学の信奉者たちに支持されている。彼はこう述べている。
 「『聖書のみ』という宗教改革の原理は、あらゆる精神的な事柄についての至高の権威として聖書は『充分』であることに関わる。『聖書のみ』が意味するのは、我々の救いと精神生活に必要な真理はすべて、明白なかたちにおいても含蓄においても聖書に存するということだ」*1。
 このように、この「聖書のみ」についての見解では、聖書には私たちが知りたい、あるいは知り得るすべてが含まれているわけではなく、ただ知っていなければならないことはすべてそこにある、ということである。この立場は、多かれ少なかれ「ウェストミンスター信仰告白」に表わされた立場を代表する。しかしこの立場には、駆け引きのための一定の余地が残されている。この信仰告白にはある重要な「にもかかわらず」が存在している。

 「それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める」*2

 A.A.ホッジはこの節を次のように説明している。
 「聖書は実践的な事柄の細部にまでは及ばないが、一般的な原理を提示する。その一般的原理は、聖霊の聖化する働きに導かれた、人間の自然に備わった判断力の行使、経験がもたらす光、変化する環境への適応を通じて、適用される」*3

 言い換えれば、聖書は「ハウツー書」ではないのである。
 しかしながら一方、近代のプロテスタントたちの中には聖書を、教義ばかりではなく礼拝と教会統治についての余すところなきガイドブックだと信じる人たちもいる。この見方の最も声高で一貫した主唱者はバートン・ストーン、アレクサンダー・キャンベル、そして十九世紀の復古運動である*4。キャンベルの父はこの運動のモットーとなる言葉を作り出した。「聖書が語るところを我々が語る。聖書が沈黙するところは我々も沈黙する」*5 。

 教会におけるあらゆるものは新約聖書の中で明確に語られていなければならない。だからキャンベル派の人たちは礼拝で楽器を用いることも聖歌隊が歌うことも拒否し、地方ごとの集会以上の教派的組織は持たなかった*6。

 「聖書のみ」についての二つの見解にはこのように違いがある。たしかに過激な改革者たちはしばしばルターとカルヴァンを一貫性がないといって告発する、しかし、一つの点はハッキリしている。どちらも伝統に拘束力のある権威を認めることに反対することだ。結局のところ、「聖書のみ」は聖書の肯定と言うより「伝統の拒否」なのであるしかし以下のページで述べてゆくように、伝統の拒絶は本質的に教会のいのちそのものの否定に他ならない。

新しい考え方

 十六世紀の宗教改革運動は、さまざまに言うことができるにせよ、つまるところその根は、キリスト教の黄金時代に立ち帰ろうという試みであった。その標語は「聖書のみ!」、聖書に――聖書のみに――帰ることで、キリスト教からあらゆる付着物をはぎ取り、初代教会の汚れなき本来の姿に帰そうとしたのだ。

 皮肉なことに、それによって初代教会の純粋性に立ち帰ろうとしたこの原則は、初代教会があずかり知らぬものであった。「聖書のみ」という考え方は、十六世紀の発明であった。初代教会のいかなる教父たちも公会議も、聖書が教会との関わりなしに、その内に、またそれ自体として、完全に充分な信仰の規則を持っていると主張したことなどなかった。「聖書のみ」という宗教改革の原則は、宗教改革それ自体の発明品であった。エベリングはこの原則の新しさを強調して言う。

「宗教改革者の神学は、全神学史における聖書のみにもとづく神学を大まじめに求めた最初の試みである。宗教改革への追随者のみが、『聖書神学』を形成することができた」*7 

これが意味するのは、ペンテコステの日から一五一七年一〇月三一日までのおよそ一四八八年間、プロテスタントたちが「真正な神学」と称揚するこの種の神学は、まったく存在しなかった、言い換えれば、宗教改革者たちが神学的に立ち帰ろうとした初代教会は、改革者たちのものとはまったく異なった神学を持っていたということだ*8。

 「聖書のみ」という教義は、まさにその時代の産物であった。当然のこととして、それはその時代に関係するいくつかの仮定に基づいている。「聖書のみ」の教義を支える、聖書的根拠を分析する前に、それが前提とするこれらの仮定を理解することは不可避である。

自己確証される正典(カノン)

 まず第一は、「聖書のみ」は確定的に線引きされ普遍的に承認された「聖書正典」の存在を前提としていることである。「聖書は教義についての唯一の充分な源泉である」と主張するということは、何が聖書を構成し何が聖書に属さないかを正確に知っていることを前提している*9。この前提は、新約聖書の正典が明確にされるまで数世紀かかったという事実を完全に無視している。しばしば「汚れなき」キリスト教の時代と見なされる最初の三世紀間、教会は唯一の明確にされた新約聖書の正典を持っていなかった。

 聖書のみ、すなわち確定された聖書正典のみ、という仮定から必然的に生じるのは、聖書は自らの正典性を自己確証しているという前提である。ローマカトリックの擁護者たちが、聖書の正典を明確に決めたのは教会であると指摘したときの、宗教改革者たちの答えは「教会の権威は正典を『確立』したのではなく、それらが正典であることを『証言』したのである」*10と答えた。この考え方はブルース・メツガーによって強く主張されている。

 最も基本的な意味で、特定の個人も諸会議も正典を創出しなかった。かわりに、彼らはこれらの文書の持つ「正典性を自己確証する性格」を感知し承認するに至ったのである。正典文書は自らを正典として教会に強く差し出したのだ。*11

 こう主張するメツガーの自信は、新約聖書の正典が確定されていった真に困難な過程、まさにメツガー自身がこの宣言に先立つページで紹介している過程と衝突してしまう*12。ロバートM.グラントはこのプロセスのとほうもない複雑さを認識している。

このように新約聖書は伝統の産物である。それはイイススの生涯、教え、死、そして復活の記録と、この多くの側面を持った出来事への最も初期の古典的な反応を集めている。キリスト者の共同体の中でさまざまな書物が生み出され、次第に「教会」を構成する個々の教会のほとんどが受け入れるに至った。*13  

 まず第一に、新約聖書の特定の文書が正典として認められる条件は、それらが教会の内で用いられていることである。

 いつから、特定のキリスト教文書が旧約聖書と同等の権威を有するものとして一般的に受け入れられるようになったのは不明である。おそらくは、福音書それぞれができあがるつど、それは承認され(たとえばイオアン21章24節では「かれの証しは真実であることを、わたしたちは知っている」とある)人々の前で読み上げられるために用いられた。最初は、その書ができあがった土地で、やがて他の諸教会へも筆写され、普及していっただろう。パウェルの手紙の集約は、パウェル自身が生きていた早い時期から始まっていたに違いない。パウェル自身が手紙で述べている内容から、二つの教会が彼の二つの手紙を、自然の成り行きとして筆写し、交換していたことがうかがえる(コロサイ4:16)。彼の他の手紙もまた写しが集められていったことは想像に難くない。使徒行伝は疑いなくルカの先行する文書「第三福音書」とともに普及し受け入れられていった。*14

 正典性の確定において、その文書が公的な場での朗読に用いられていたことが重視されたことに注意しよう。初代教会における聖書の正典としての機能は、奉神礼的(リタージカル)なものであったということである。聖書が読まれ説かれたのは、ユーカリスト(聖体礼儀)の集いの場であったということだ。「哲学者」聖ユスティヌスは二世紀中頃の日曜日の奉神礼の様子をこう伝えている。

太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住人すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。(第一弁証論67)*15

 ユスティヌスは引き続き、どのようにパンとぶどう酒が持ち出され、ユーカリストが行われるかを描写している。今日私たちが新約聖書として知っている文書は、ここの地域教会で礼拝で用いるために集められたのである。個人的な聖書の学びのためではない*16。それゆえ、聖書が聖書として確認され解釈されたのは礼拝共同体としての教会の内にあってのことだった。

 しかしながらそれぞれの教会には、異なった文書が集められていた。これはユダヤから小アジア、ゴールにまで広がって存在した各共同体がまったく同じ文書を集め回覧することの困難性ばかりではなく、かなりの数の異なった文書が流布されていたことにもよる。
 多くの人々が、初代教会では新約聖書の27文書が流布していて、教会が完全な正典をひとそろい所有するためには、それら27の文書の写本を手に入れればよかったと、ナイーブにも思い込んでいる。事の実際は、最初の2世紀間、使徒的な権威を持つと主張された他の多数の文書が流布されていた。しばしば、これらの結果的には正典として見なされなかった文書がそれぞれの教会で正典として用いられていた。

 新約聖書の正典を定めようという機運の高まりは、ある範囲で、グノーシス主義のような異端者たちが、彼ら自身の考えで彼らの正典を定めようとしていたことによる。グノーシス主義者たち異端的グループは現在の新約聖書のかなりの部分、とりわけパウェルの文書を拒否した。一方で彼らは、彼ら自身が「使徒的」とみなした文書を流布させた。そのような文書の中でよく知られているのが「トマスによる福音書」である。

 異端者たちがいくつかの文書の権威を否定し、いかがわしい由来の他の文書を流布させたことが、教会をその文書が「聖書」であり、その文書がそうでないと見なされるかについて、結論を急がせたのである*17。しかしこの過程は決して迅速なものでも一通りのものでもなかった。二世紀と三世紀の三人の著者たち、リヨンの聖エイレナイオス、クリメント、アレクサンドリアのオリゲネスは明確に、四つの――ただ四つの――福音書、マトフェイ、マルコ、ルカ、イオアンの福音書があると述べている*18。そのような明白な宣言があってさえ、これらの他の「福音書」の影響は残った。グラントは、クリメント自身が「エウレイ人による福音書」をそれと特定することなく引用し続けていたことを指摘している*19。

 二世紀末の「ムラトリ正典表」は、今日の新約聖書のほとんどの文書を正典としているが、イアコフ書、エウレイ書、イオアン第三書、ペトル前書、ペトル後書は除外され、逆にイオアンの黙示録に加えて、ペトルの黙示録が正典とされている。

 長い間いくつかの文書は、その正典性を問題にされていった。エウレイ書は西方では四世紀末まで、黙示録は東方では、正典として広く受け入れられて後までも論争され続けた*20。

 今日の新約聖書正典に完全に一致する正典表は、アレクサンドリアの聖アタナシオス(367)の「復活祭(パスハ)書簡」に見いだされる*21。西方では、新約聖書正典は三九七年のカルタゴ公会議まで確定されなかった*22。
 旧約聖書の正典については、グラントがこう言っている。

 最も初期のクリスチャンたちにとって「聖書」といえば旧約聖書であった。そこから、彼ら自身の聖書の正典を作るためには、ユダヤ教の指導者たちがそれと認める旧約聖書の正典をまず受け取り、それに加えてキリスト教固有の文書を付け加えれば充分と考えたかもしれない。しかしながら、このプロセスは単純な者ではなかった。キリスト教徒ではないユダヤ人たちの間では、それらの文書は様々な違ったかたちで使用され西暦70年のエルサレム陥落のかなり後まで、きちんと制定された正典を確立しようという試みはなかったようだからである。*23

 事実、ユダヤ人たちが彼らの正典を明確化したのは、すでにキリスト教の時代に入ってかなりたったヤムニア会議以降のようである。*24

 しかしヤムニア会議以降でさえ、クリスチャンたちは七十人訳ギリシャ語旧約聖書にあはあるがユダヤ人たちが彼らが正典から排除した文書を用い続けた。どの文書が旧約聖書を構成するかに関してのクリスチャンたち共通の理解はなかったのだ。グラントによれば「この時期の旧約聖書正典は達成されたものと言うよりむしろ過程であった」*25。

 このように、キリスト教会の最初の三世紀間において、旧約・新約いずれにあっても一つの普遍的に受け入れられたカノンの存在を示すことはできない。それゆえに、もし聖書がほんとうに自己の正典性を確証するものであるなら、なぜ教会がその、宗教改革者たちの言う「自明な」正典に出会うまで、三百年もかかったのであろうか。さらにいえば、クリスチャンのかなり大きな部分を占めるプロテスタント諸教会が、ギリシャ語訳旧約聖書が神のインスピレーションを受けていないと結論づけるまで、十一世紀間もかかったのだろうか。*26 

聖書による聖書の解釈 

 「聖書のみ」の教義への第二の前提は、聖書自身が聖書を解釈するということだ。ルターはこう書いている。「不明確なテキストはまったくそのテキストがないのと同じくらい悪い」*27。言い換えれば、テキストの意味が不明確であるなら、霊感を受けたまったく充分なテキストを持っていても無駄であると言うことだ*28。

 聖書は、聖書自らが解釈するという考えは明らかに馬鹿げている。それは最も熱心な実証主義者たちを当惑させてしまうほどの、絶対的客観性を前提している。アインシュタインは観察者はどんな科学的観察においても、その観察結果の一部分であることを立証した。純粋な客観性というものはない。自然界の観察においてこれが真実だとするなら、ましてや聖書のテキストの解釈においてはどれほどいっそう真実であろうか。いろいろなテキストは、論理的に配列されてそこにあるのではない。しかしこれがまさに「聖書のみ」の教義が前提にしていることなのだ。すなわち、読む者にその意味を何の疑問の余地もなく承認を強いる多様な解釈がありないむき出しにされたテキスト。この主張が馬鹿げていることは、何千もの数のプロテスタントの教派が特定の章句に対してそれぞれに異なった解釈をしていることが明らかに証拠立てている。

 「聖書のみ」の教義が論理的には、テキスト自らが自らを解釈することを前提しているとしても、プロテスタントは実際には、テキストが自らその意味を解釈するとは信じていない。近所のキリスト教書店へ行って、売っている聖書注解書の数を数えてみなさい。聖書の諸書それぞれについて文字通り「何十」もの注解書がある。もし、聖書が聖書自身を解釈するなら、プロテスタントはなぜ、数千とは言わないまでも、数百の聖書解説書を書いてきたのだろうか。なぜ同じプロテスタントの伝統の中にある注解者たちが、互いに一致しない注解を書いているのだろう。*29

 ここでは、伝統という語が、非常に重要である。ルター派はルター、メランヒトン、アウグスブルグ信仰告白の伝統によって聖書を注解する。長老派はカルヴァン、ベザ、ノックス、ウェストミンスター信仰告白の伝統によって聖書を注解する。要するに、それぞれの聖書注解は何らかの伝統に基づいて書かれているということだ。問われるべき真の問題は、聖書が伝統を含んでいる(Scripture imply tradition)かどうかではなく、どの伝統が聖書を正しく解釈しているかである

 使徒行伝8章26節から39節に、聖ルカは聖使徒フィリップとエティオピアの宦官の出会いを伝えている。宦官は「受難の僕」についてのイサイヤの預言を読んでいた(52:13~53:12)。フィリップは読んでいることがわかるかと尋ねた。すると宦官は言った。「だれかが手引きしてくれなければ、どうしてわかりましょう」。フィリップは神に照らされるように祈りなさいとも、その章句が自ら解釈を教えてくれるだろうとも言わなかった。フィリップは「口を開き、この聖句から説き起こして、イイススのことを宣べ伝えた」。フィリップはエチオピアの宦官に、ハリストスの使徒として、聖書を説いたのである。もし宦官がクリスチャンではないラビに尋ねたら、まったく別の解釈を聞かされていたに違いない。

 「聖書のみ」を擁護する人たちはしばしば、古代教父たちも教義論争に当たって聖書を権威として、そこに主張の根拠を求めたではないかと、指摘する。しかし彼らが通常は口をつぐんで語らないのは異端者たちも同様に、聖書に自説の根拠を求めたということだ。その古典的な例が、その結論が至聖三者の教義を最終的に確立することになるアリウス論争であった。

 アリウスは4世紀初頭のアレクサンドリア教会の司祭であった。論争は、箴言8章22節以下に対するアリウスの解釈から始まった。ソロモンはそこで知恵について語っている。「主が昔、そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた」*30。正教もアリウス陣営もいづれもが知恵をハリストスであると解釈している*31。問題は、この節が何を意味しているかである。
 アリウスの答えは、ロゴスは最も高く、高貴で、善なるものではあるが、あくまでも被造物であるというものだった。ハリストスは造られざる神の子であるという正統信仰を守ろうとした者たちは、このアリウスの解釈に対処になければならなかった。ヒラリーの聖ポワティエは、この節は「彼らが引き起こした嵐の中で最も強力な大波、逆巻く風によって襲いかかる激浪である」*32と言った。正教はこの節はハリストスの人間性に言及しているのであって、彼の神性に関するものではないと、反論した。

 ここには、聖書をの権威を承認し、問題の箇所については、そこがハリストスについてのべていることでは同意するが、その解釈では正反対の立場を取る二つのグループがある。両派ともに彼らの解釈は疑いなく「自明である」と見なしている。聖書を解釈する者はだれでも自分の解釈は「自明である」と、決め込んでいる。しかし、他の者にはそれは自明ではない。それゆえ、どのように彼らがそれぞれに自分の解釈が正しいと結論づけたかが問題となる。

 聖書解釈についてのプロテスタントの最も一般的な原則はの一つは、意味の明快な章句の光によって不明快な章句を解釈するというものだ。しかしながらジョン・ホワイトフォード神父が指摘するようにどの章句が明快で、その章句が不明快であるかは、必ずしも明確ではない*33。私たちはハリストスを神として描写しているように見える箇所の光で、ハリストスを被造物であると描写しているように見える箇所を解釈するのだろうか。ないしは、アリウス派の人たちがしそうな、その逆で。答えは、その問題に対して私たちが持っている前提が何であるかに完全に依存する*34。

 アリウス派の解釈は、ペリカンの描写によれば「神の算術的な唯一性」を曲げることへの熱狂的とも言える拒絶に基づいている*35。言い換えれば、アリウス派の立場は、神についての哲学的概念を前提している。そこでは「二つの神的ペルソナ」と「神が人となる」ことなど、考えられない。

 一方、正教の解釈は人類の救い主は神でなければならない、なぜなら神のみが人を救い得るからという前提に基づいている。アリウス派へ対抗する正教側の旗手であった聖アタナシオスは、神が人となったのは人が神のごとくなるためだと宣言した。言い換えれば、救いはたんなる罪の赦し以上のものである。救いの核心は死の克服と神と人との結合に存る。このように箴言8:22の正教の解釈は、ア・プリオリに神のみが死を滅ぼし、人類をご自身と一致させ得るという確信に基づく。

 決定的要因は究極においては教会がそこで祈る、祈りのあり方である。ユスト・ゴンザレスはこの問題を次のように巧みにまとめている。

 二つの陣営それぞれが、聖書からのお気に入りの立証本文に加え、敵対陣営の立場は成り立ち得ないことを示す、論理的理由を持っていた。かたやアリウス派は、アレクサンドルが提示しているのはキリスト教が一神教であることを否定することになると論じた。アレクサンドリアの主教(アレクサンドル)が正しければ、神性を有する二つのものがあり、したがって二つの神があることとなる、そんなことはあり得ないだろう、というわけだ。一方、アレクサンドルはこう反論した。アリウスの立場は「みことば」の神性を否定し、したがってイイススの神性も否定することとなる。そもそもの初めから、教会はイイスス・ハリストスを礼拝してきた。もしアリウスの提唱するところが正しいなら、そのような礼拝は廃止し、それは偶像崇拝に過ぎなかったと宣言する必要があるだろう。ハリストスへの礼拝を続けることも、やめることも、両方とも受け入れられない。したがってアリウスの間違いは立証された、ということである。*36

 二つの立証テキストは真正面から衝突し、この対立に何の解決をも、もたらすことはできなかった。最終的結論は、教会の生きた現実の中からもたらされた。

 正教はアリウス派の偽善を告発する機会を逃さなかった。彼らは、正教徒たちと同じように、至聖三者の形式の頌栄(ドクソロジー)と洗礼の定式文を使い続けていたからだ*37。もし、ハリストスが神ではないなら、アリウス派は被造物を礼拝していることとなる。ペリカンはこう述べている。

 問題は教会が釈義と啓蒙教育のための文書のなかで教えていることが、またユダヤ教徒や異教徒たちへの護教的著作と信条のなかで告白していることが、教会の祈りの中で信じられていることに、どのように関連づけられるべきかである。*38

 アリウスとその聖書解釈によって提起された問題は、西暦325年のニケア全地公会議で、ハリストスについての教義に「ホモ・ウシオス」という哲学用語を持ち込むことで解決された*39。「解決された」という語で、私は問題が概念上解決されたことを意味している。論争が最終的に終熄するまでには、その後数十年が必要だった。「ホモ・ウシオス」という語の使用それ自体が、論議を呼び起こしたからである*40。

 ペリカンによれば、ニケアに参集した主教たちは聖書の用語の内に厳密に留まりたかったが、まさにアリウス論争で聖書が持ち出されたことが、正しい聖書解釈を守るために非聖書的な用語を持ち込むことを余儀なくした。

 最初、公会議は聖書に用いられているまさにその通りの用語に固執したかった。たとえば子は「神から」。しかしコリント前書8:6とコリント後書5:17(-18)のような章句が、そこでの「万物は神から」を「(神の子も含め)すべては神によって創造された」と証明するために引用されたとき、公会議に参加した主教たちは「神から」という語をもっと厳密にする必要に迫られたのだ。彼らは特に二つの定式、「独り生まれた、すなわち父の本性から」と「ホモウシオス(同一本性)」の確定において行った。*41

 キリスト教史にはこのような例があふれている。ある異端的グループは、彼らなりに削除したり拡張したりした聖書の「正典」を主張するが、多くは、アリウス派やネストリウス派のように、「正典」とするのは正統派と同じである*42。これらの異端はそれぞれに、彼らの立場を支持する聖書の章句で完璧に鎧われている。もし、聖書がほんとうに自らを解釈するとするなら、延々と続いた(時には暴力的に)キリスト教最初の千年の論争は決して起きなかっただろう*43。

 これらの異端が打ち倒されたのは、正教が反対者たちよりより多くの根拠となる聖書箇所を組織できたからではなく、それら異端が、神がまさにその独り子の体である教会に与えたいのちを否定したからである。教会がアリウス主義を受け入れられなかったのは、教会は自身が礼拝しているお方を神として知っていたからに他ならない。教会がネストリウス主義を受け入れられなかったのは、ロゴスが「人」イイススを担い、この「人」が十字架上で死んだという考えは、教会の礼拝と神との交わりをウソにしてしまうからである*44。

 古代教会のあらゆる教義論争において、争点は生の聖書テキストに訴えることによってではなく、現実に生きられている教会生活に関連づけられた聖書解釈によって、決着がつけられた。問題は「聖書はなんと言っているか」ではない、また決してなかった。そうではなく「聖書は何を意味しているか」であった。

 この問題についての正教会の立場は明快である。使徒たちの伝統が権威ある解釈基盤であり、その上で聖書は正しく理解される。旧新約聖書は第一の、そして確かに規範的な、使徒的伝統の、文書化された要素である。しかしあの欠くことのできない解釈の文脈から取り出されてしまえば、聖書は古代に存在した多くの文書群に並ぶ一組の文書群にすぎない。それは、人の想像力がなし得る多くの異なった解釈へと開かれている。宗教改革は伝統を捨てたわけではない。聖使徒たちと古代教父の伝統を16世紀の唯名論者と人文主義者の伝統に取り代えただけである。*45 

「虎の巻(answer book)」としての聖書

 「聖書のみ」の教理を補強する第三の前提は、聖書の目的はクリスチャンにとって完全に充分な案内書たることだという考えである。あらゆることはその書物に書いてある通りになされなければならないという信仰は、件(くだん)のその書物は必要な指示をすべて含んでいることを仮定している。

 礼拝に関する事柄から始めよう。「五書」はイスラエル民族の礼拝のために詳細な指示を与えている。これらモイセイの書で、神はイスラエル民族に、どのように幕屋を造るか、聖なる器物をどのように飾るか、そして犠牲をどのように献げるかについて明示的に指示している。それゆえ「トーラ」(モイセイ五書)をイスラエル民族の「指示マニュアル」と呼んでも差し支えなかろう*46。
 きわめて明らかなことだが、新約聖書にはその点、いかなる形であれトーラーと類似するものは見あたらない。つまり、礼拝についての特別な指示はない。初期のクリスチャンたちが礼拝のためいつ集まったのかについてのヒントはある。すなわち「週の初めの日」(使徒20:7)とあるが、限定的な指示ではない*47。

 さらに、新約聖書はどのようにユーカリストが執行されるべきかについても詳細を示さない。我らの主は「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)と言ったが、福音記者も聖使徒パウェルもともにどのように、またどれほどの頻度でユーカリストが行われるべきかについてはいかなる指示も書き記していない。使徒行伝に初代クリスチャンたちは週の初めの日に「パンを裂く」ために集まったとあるが、福音主義者たちの大多数はこれを「命令」とは受け取っていない。大半が、彼らが「主の晩餐」とよぶものを、一月に一回以上は行わない。通常は年に四回だ。*48

 さらに聖書とパウェルによってコリンフ前書で与えられたユーカリストに関する指示(11章)は、コリンフ教会における「晩餐」の軽視を機に与えられたものであり、晩餐そのものをどのように行うべきかについての細かい指示ではない。使徒はたんに不適当に行われていたことを正したに過ぎない。

 聖使徒パウェルの書簡は、ほとんどの場合、特定の人々や教会に何らかの事情がある時に、必要に応じて書かれたものである。ユーカリストをはじめ他の問題についても包括的に述べられていないのは、そのように必要に応じて書かれた手紙なら当然のことである。しかしながら、それは、もし新約聖書の諸文書がクリスチャンの生活への包括的な導きの書であるとするなら、あり得ないことである。神はイスラエル民族に、社会生活と礼拝について詳細な指示を与えた。クリスチャンの教会にも同じことをなし得なかったのだろうか。もし、新約聖書がクリスチャンの「虎の巻」を意味するなら、なぜあんなに多くのことを「未回答」のままにしてあるのか。

 すでに注意しておいたが、すべてのプロテスタント教派が「聖書のみ」を同じように解釈しているのではない。改革派の伝統は聖書を包括的な「虎の巻」とは見なしていない。彼らは、クリスチャンの生活のあらゆる面で「主がどういったか」ということにそんなに関心を持たず、聖書全体の中で輪郭が浮かび上がってくる一般的原理に従って生活と礼拝を秩序づけようとする*49。ウエストミンスター信仰告白の聖書の充分さについての条項のかの有名な「それにもかかわらず」節は、特に「神の礼拝に関するある事情」に言及している*50。このように、クリスチャンの生活の幾つかの側面は、聖書から引きだされた一般的な原理に基づいて、判断を下されなければならないのだ。

 それが実際にどのように行われるのか、洗礼を材料に見てみよう。クェーカー教徒と救世軍以外のすべてのクリスチャンは洗礼を、ハリストスの次の命令の履行として行う。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖神の名によって、彼らに洗礼を施しなさい」(マトフェイ28:19)。しかし神学的に、行うことは何事であれすべて聖書のみに基づくべしとするプロテスタント諸教派が、洗礼の本質に関して(それは再生か?)、誰が洗礼を受けることができるか(幼児も可か、それとも信仰を表明できる者だけか)、どのように洗礼は施されるべきか(浸礼か、灌水礼か、滴礼か)、そして定式文(至聖三者の名によるか、イイススの名のみによるか)で、一致していない。

 バプテスト派もキャンベル派もともに信徒の洗礼を行い、完全な浸礼を主張するが、キャンベル派は洗礼を人の再生と見なすが、バプテスト派ではたんなる象徴である。いっぽう改革派は幼児洗礼を行う。灌水礼か滴礼である。プロテスタントの大多数は「父と子と聖神」の名で洗礼を施すが、ごく少数のグループ、特にペンテコスト派にはイイススの名のみによって洗礼を施す者たちもいる*51。
 ここで、聖書と初代教会での洗礼の様式の問題を調べておくのもよいだろう。宗教改革者たちの「聖書のみ」へのとらえ方に固有の問題が、ここで明らかになるからだ。A.A.ホッジは、バプテストの浸礼による洗礼の執行に対し、改革派の滴礼を猛烈な勢いで弁護する。聖書は洗礼がどのように行われるべきかについて詳細な指示を与えていない。そこで彼は滴礼式への彼の弁護を聖書にある特定の原理からの演繹に基礎づける。

 バプテスト派のほんとうの立場は、…洗礼を授けよという命令は、水に沈めよという単純で唯一の命令である。それは信者がハリストスと共に死に、埋葬され、復活することの象徴である。他のクリスチャンたちが主張する洗礼についての真理は、洗礼は水で洗えという単純で唯一の命令である。それは聖神によってなされる浄めの象徴である。洗いの様式はそれとは無関係である*52。 
 ホッジもそのバプテスト派の反対者たちも洗礼に関して一つだけの聖書的イメージを取り上げ、それを絶対化し、洗礼の本質と様式を解釈する唯一の鍵としている。誰が正しいのだろうか。もっと大切な問いは、誰が、誰が正しいと決定し、その決定がどのようになされるのかということだ。

 初代教会の「ディダケー」*53として知られる文書は、初代教会がどのように洗礼を執行していたのかを理解するための重要な情報を提供してくれる。ディダケーは第一世紀ないし第二世紀のごく初期に書かれた。この文書が重要なのは、まさも新約聖書とはまったく異なる種類の文書だからである。つまり「指示書(マニユアル)」なのだ。ディダケーは「洗礼の神学」は伝えないが、初代教会で洗礼がどのように行われたのかについての正確な描写を与えてくれる。最初の六章は倫理的な啓蒙によってなる。受洗に備える人たちの教育に用いられた。残りの諸章は教会生活を取り扱う。洗礼について、ディダケーは特別の指示を与えている。

 洗礼については、次のように洗礼を授けなさい。上に述べたことをすべてあらかじめ述べた上で、流れる水によって、父と子と聖霊の名をもって洗礼を授けなさい。流れる水*54がない場合には、他の水で洗礼を授けなさい。冷たい水でできない場合には、温かいみずでなさい。どちらの水もない場合は、頭に水を三度、父と子と聖神の名によりて聖霊の名をもって注ぎなさい。洗礼の前には、授洗者、受洗者、また他に誰か可能な人たちがいるならば、(その人たちも共々)断食をなさい。受洗者には(洗礼に)先立つ一日か二日断食するように命じなさい。*55

 洗礼が浸水式でできない場合に限って、灌水式が採用されていることに注意して欲しい。滴礼式については何の言及もない。

 他の著者たちも正確に同じ描写を伝えている。彼らは洗礼は浸礼によることのみならず、洗いとしての洗礼のイメージと共に死と復活としての洗礼のイメージも共に取り上げている。テルトリアンは二世紀の終わりごろに、洗いとして洗礼を述べているが、三度の浸没も強調している*56。四世紀の中頃には、エルサレムの聖キリルが明確に三度の浸没をハリストスの三日間の埋葬に結びつけている*57。

 一四世紀のニコラス・カバシラスはこう言います。「誰だって三度の浸没と、自ら挙がることが救い主の三日間の死とその復活、すなわち神の救いの経綸の到達点を表していることを知っている」。その後には「このように洗礼の洗いは罪深い習慣と行いをきよめ、ハリストスのいのちを施す健康に与る者へと私たちを変える」*58。

 教会の伝統――ペンテコステの日から今日まで切れ目なく伝えられてきた教会のいのち――は、「洗礼を施せ」というハリストスの命令をどのように理解してきたかを示す。洗礼は、三度の浸没と至聖三者の名によって行われる再生のわざである。そしてハリストスと共にする埋葬と復活である(コロサイ2:12)と共に再生の洗いである(ティト3:5)。

 誰でも伝統を参照することなく容易に教義や実践を聖書が差し出す原理から引きだすことができるという考え方は、言ってみれば「白紙委任」に過ぎない。委任された者は、自分が望む「聖書的原理」を勝手に言挙げして、その欲する結論を自在に引きだすことができる。「滴礼による洗礼」、「イイススの名のみによる洗礼」*59、「経綸主義」、「ラプチャ」*60、そして「無原罪の懐胎」*61も、みな然りである。

思想としてのキリスト教

 ここまで検討してきた「聖書のみ」という教義を基礎づけている前提は、歴史の事実と認識論とは無関係である。しかし「聖書のみ」は事実上神学的な思想をも前提している。すなわち、それはまさにキリスト教そのものの本質についての前提をなしている。聖書はクリスチャンの信仰と実践に必要なあらゆるものを「含んでいる」と主張することは、聖書は必要なあらゆるものを「含み得る」ことを前提することにほかならない。言い換えれば、「聖書のみ」は、キリスト教は本質的に「思想」、もっと正確に言えば「イデオロギイ」であることを前提としていることになる。

 このように理解するならば、聖書は思想ないし教えを含んでいる、ホッジの言葉を用いれば完全な「教義の体系」である*62。このように、聖書は聖書そのものが解釈するのだから、だれでも聖書を取り上げて、クリスチャンであるために信じ実行することが必要なあらゆるものをそこから拾い集めることができる。キリスト教は、それゆえに、信じられるべきひと揃いの教義、従うべきひと揃いの規則となる。

 しかし正教にとって、キリスト教は本質的に生きられるべき「生活」であり、ひと揃いの教義や道徳的指針ではない。しかし、その生活はただの「生活」ではない。キリスト教は「ハリストスにあるいのち(生活)」である。これを倫理的な「キリストのまねび」であると理解されてはならない。そうではない、ハリストスの体、すなわち教会にあってのハリストスとの有機的な一致なのである。すでに何度も述べてきたことだが、聖書を理解するための解釈の鍵を与え、そして古代教会における大教義論争の決着をもたらしたものは、「教会のいのち」だった。引き続く諸章で、繰り返しこのテーマに立ち戻ることになるだろう。



*1"The Sufficiency of the Written Word" , in Don Kistler, Ed. "Sola Scriptura! The Orotestant Position on the Bible(Morgan, PA:Soli Deo Publication,1995), p.165
*2訳注 原注では、ここでA.A.Hodgeの"The Confession of Faith"の注解に訳出されているものを用いたとされているが、翻訳では日本基督改革派教会/信条翻訳委員会訳「ウエストミンスター信仰告白」(1964年 新教出版社)を用いた。
*3 A.A.Hodge 前掲書 p.39
*4ストーンは長老派の牧師であったが、1801年のCane Ridge Revivalの中で「目覚め」、長老教会を去った。マーティン・マーティはストーンを言い換えてこう書いている。「…この運動は人間的な意見のガラクタを一掃してくれる。ウェストミンスターも、長老教会の信条もコウモリやモグラにくれてやるんだ。そして新たなキリスト者たちを昔の元々の岩の上に立て直す」 Pilgrim in TheirOwn Land: 500 Years of Religion in America(New York:Penguin Books,1985) p.196
*5 Marty の引用 p.197
*6しかしキャンベル派の運動は一枚岩のものからはるかに遠いものなので、多くの教会がこれらの禁止を守っていない。
*7 "The Meaning of 'Biblical Theology '" Word and Faith(London:SCM,1963),p82
*8もちろん宗教改革者たちは、初代教会の教父たちの神学と調和していると主張した。現代の福音主義者たちも同じことを主張する。しかし、私の言いたいのは、教父たちの神学の方法は、改革者たちのものと異なっているばかりか、根本的にそれに対立するものであることだ。
*9ペリカンはハインリッヒ・ブリンガーの次の言葉を引用している。「(聖書の権威についての教義の)主題と位置は神の言葉を伝える聖なる書物を集め、明確に数え上げることを要求する」。ブリンガーのFive decades of Sermon(1552)The Christian Tradition: A History of the Development of Doctrine, Vol.4, Rrformation of Church and Dogma(1300-1700)(Chicago:University of Chicago Press,1985), p.210
*10Perikan, Reformation, p.340
*11Metzger, The New Testament:Its Bachground,Growth,and Content,2nd.Ed.(Nashville:Abington,1983),p.276
*12メツガーはまた正典化のプロセスの全貌を叙述した書物を書いている。The Canon of the Nrw Testament:Its origin,
Development,Significance(New York:Oxford University Press,1987)
*13 The Formation of the New Testament(New York:Harper&row.1965),p.8.
*14 Metzger,New Testament,p.274
*15訳注 教文館 柴田有 訳 キリスト教教父著作集第1巻
*16聖書の写本を作るために多額の費用がかかったことから、今日の私たちが行っているような個人でする聖書の学びは、不可能であった。それが可能になったのは印刷機の発明を待ってのことであった。
*17グノーシス主義者たち、とりわけマルキオンが「新約聖書正典」という概念を生んだと示唆されてきた。グラントは正当にもこの考えに異議申し立てをしている。しかし、グノーシス主義者たちの聖書の扱い方がつよく教会の正典化の過程に影響を与えたことは確かである。Grant,pp.121-130参照
*18三人の内ただエイレナイオスのみが教会によって聖人と認められていることは、特筆すべきことである。クリメントとオリゲネスの神学には重大な問題があり、オリゲネスに関しては実際に、第五回全地公会議で彼の神学のある側面が異端として断罪されている。それにもかかわらず、ふたりは、2世紀後半から3世紀にかけてのアレクサンドリアのキリスト教についての価値ある証人であり続けている。
*19Grant,p.112
*20エルサレムの聖キュリロスはその「洗礼志願者のための講話」(350年頃)のなかで、黙示録について疑問を表明している。神学者グレゴリイ(4世紀)は、彼の正典リストから黙示録を外している。正教会は黙示録を正典と見なしているが、教会の奉神礼の中で読まれることのない唯一の新約文書である。興味深いのは、奉神礼の多くの部分が黙示録に描写されている天上的礼拝のビジョンにならって形象化されていることだ。正教会の黙示録への解釈につては、大主教Averky Taushev,"Apocalypse:In the Teaching of Ancient Christianity(Platina,CA:St.Herman of Alaska Brotherhood,1995)
*21この時期、アレクサンドリア教会は復活祭の日付について計算について責任を負っていた。毎年、アレクサンドリアの大主教はその年の復活祭の日付について、諸教会に放置する書簡を回覧させていた。
*22じっさいには「確定」は少々言い過ぎである。メツガーが指摘するように、カルタゴ公会議以降も正典に関しては流動的な要素がある程度残っていた。Mtzger,Canon,p.239参照
*23 Grant,p.32
*24ユダヤ人たちが彼らの正典を最終的に決めたのがいつであったかについては議論がある。ヤムニア会議は便利な日付ではあるが、確かなことは言えない。
*25 Grant,p.51
*26すなわち、西暦90年頃のヤムニア会議で決められたヘブライ語正典には入っていない70人訳ギリシャ語聖書の文書は、しばしば偽典もしくは第二正典として言及された。
*27 Pelikan,Reformation p.181からの引用
*28ウェストミンスター信仰告白では「聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない。しかし、救いのために信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの箇所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての充分な理解に達することができる。第1章7(日本基督改革派教会・信条翻訳委員会訳 新教出版社)
*29南部バプテスト教会の原理主義派が、バプテスト日曜学校審議会を牛耳ったときに最初にやったことは、新たな注解書シリーズを発刊することだった。彼らは、既存のBroadman Biblical Commentary はリベラルだと信じていた。実際にもともとのBroadman シリーズの幾つかの巻は、問題ありとして撤収され、置き換えられた。このように、創世記については少なくとも3っつの異なった南部バブテストの注解書がありえるのだ。もっとも一つは引っ込められてみることはできないが。現在流布しているNew American Commentary批判的な評価については、James W. WattsのInterpriting Inerrant Text:The Old Testament Volumes of the New American Commentary所載のPerspectives in Religiopus Studies,23:1(Spring,1996)、pp.75-86参照
*30欽定訳はThe Lord possessed me in the beginning of his way と訳す。その部分のヘブライ語を正確にどのように訳すのかについては議論がある。NIVは欽定訳と改訂標準訳の違いを、The Lord brought me forceによって調整した。しかしながら、アリウス論争はヘブライ原典ではなく70人訳の表現を巡って戦われた。70人訳では明確に、created(
造られた、である。
*31現代のプロテスタントはしばしば知恵とハリストスの同一視を否定する。聖使徒パウェルのハリストスは神の知恵であるという主張にもかかわらずだ(コリンフ前1:24)。聖書は自己解釈するといったって、この程度のことである。
*32「至聖三者について」12:1 Pelikan, The Christian Tradition:AHistory of the Development of Doctrine,Vol.1,The Emergence of the Catholic Tradition(100-600)(Chicago:University of Chicago Press,1971),p.193から引用
*33 Sola Scriptura: An Orthodox Analysis of the Cornerstone of Reformation Theology(Ben Lomond,CA:Conciliar Press,1996),pp.26ff
*34アリウスが箴言8:22を用いるのに対し、正教は詩編2:7「主はわたしにいわれた。『おまえはわたしの子だ。きょうわたしはおまえを生んだ』」で対抗した。
*35Pelikan,Emergence,p195
*36 The Story of Christianity,Vol.1,The Early Church to the Dawn of the Reformation(San Francisco:Harper &LRow,1984),p.161 ゴンザレスがアレクサンドルというのはアレクサンドリアの主教聖アレクサンドルである。325年の第1回ニケア公会議の時には、聖アタナシオスはアレクサンドリア教会の輔祭であった。
*37Pelikan,Emergence,pp.198-200.盲目者ディディモスの言葉に基づき、ペリカンは、アリウス派の一部は頌栄を次のように改訂したという。「光栄は、聖霊にあって、子を通して父に帰す」
*38Pelikan,Emergence,p.199
*39 ホモ・ウシオスは同一の本質ないし実体を意味する。ニケア公会はハリストスは神父と同一本質、ないし実体と主張する。
*40聖書に用いられていない語であることとともに、ホモ・ウシオスは以前はグノーシス主義と結びついていた。さらにその上、アリウスにはまったく同情的ではない多くの主教たちが、それにもかかわらずこの語の使用に反対した。それは、神の異なったペルソナの現実性を、この語が弱めてしまうことを恐れたからだ。彼らはサベリウス主義の異端を恐れた。この異端派は、神の三つのペルソナは単に唯一の神が異なった場面で演じる異なった役割に過ぎないと主張していた。ホモウシオスを理解するために受け入れられる神学的枠組みを作り出し、これらの用心深い主教たちが325年のニケア全地公会義で決議され、381年のコンスタンティノープル全地公会義で完成した信条を受け入れるまでには、4世紀後半のカッパドキアの三大師父たちの成し遂げた業績を待たねばならなかった。
*41Pelikan , Emergence,p.202
*425世紀のネストリオス論争はとりわけ教訓的だ。ネストリウスとアレクサンドリアの聖キリルの間に交わされた7通の手紙が残っている。そこで二人は聖書から同じ章句を引用し、かつそれをもって相手を論破しようとしている。同じテクストを前にしていながら、二人はまったく異なった見方でそのテクストを取り扱う。これらの手紙のオリジナルのギリシャ語と英語の見事な対照版は、Cyril of Alexandria:Select Letters, in the Oxford Early Christian Textseries(Oxford :Clarendon Press
*43「聖書自らが聖書を解釈する」ことへのプロテスタントの弁護論は、異端への対応の中で教会の神学が歴史的に発展してきたことに取り組もうとするや、ただちに矛盾のうちに崩壊する。たとえば、ホッジスはこう述べる。「プロテスタントは聖書に啓示された真理の多くはそれ自身の性質から、人間の理解を超えていること、そして多くの預言は歴史の展開によってその成就が説明されるまで意図的にあいまいなままにされている。しかしそれでもなお、次の点をプロテスタントは断言し、ローマカトリックは否定する。1)本質的な信仰箇条と実践の規則は聖書によって明瞭に教えることができる。2)クリスチャンは個人的にであれ、無学であれ、彼ら自身の力によって聖書を手堅く解釈することが許されている。一方で、歴史学的また批判的な知識の進歩とともに、また論争によって、共同体としての教会は聖書の厳密な解釈とそこに啓示された真理の全体系の把握に進歩していった」。このようにホッジスは、人間の救いにとって本質的なあらゆる教義が無学な者によってさえ明瞭に理解できることと、幾つかの解釈は歴史的過程の結果であることを、同時に主張する。それでは三位一体の教義はどうなるのか。もしそれが本質的な教義であるなら、無学な者は「通常の手段によって」は、それを明確に知ることができないのか。また、ホッジスが聖書が包含する「真理の全体系」に言及している。この真理の体系という考え方にはのちに、ふれることになる。
*44礼拝と論争の関係の研究については、ヘンリー・チャドウィック(Henry Chadwick)のEucharist and Christology in the Nestorian Controversy(Journal of Theological Studies),Ns2(1951)pp.125-142
*45ルターは唯名論の影響を強く受けた。彼が学んだエアフルトは唯名論哲学の中心地であった。またツイングリとカルヴァンは著名な人文学者であった。カルヴァンについてはWilliam BouwsmaのJohn Caivain:A Sixteenth-Century Portrait(New York:Oxford University Press,1988) p.13.
*46しかしここで注意しなければならないのは、たとえトーラーがイスラエル民族の礼拝についての詳細な指示を与えていても、すべてを尽くしているわけではないことだ。「聖書のみ」への反対者たちが好んで引用するのは申命記12:32である。「あなたがたはわたしが命じるこのすべてのことを守って行わなければならない。これに付け加えてはならない。また減らしてはならない」。しかしこの戒めはイスラエル民族がヘブライ原典の現在の正典を編成するために他の文書を付け加えることを阻止できなかった。
*47この限定的な指示の欠如が、セブンズデイ・アドヴェンティストたちの、クリスチャンはスボタの日、すなわち土曜日に礼拝すべきだという「聖書に基づいた」主張を正当化している。
*48南部バプティスト協議会のトラクトでは、「主の晩餐は繰り返し定期的に守られなければならない。意味を失ってしまわないように余り頻繁に行われてはならない一方、信者が忘れてはならないのであまりにもまれであってもならない」と断言する。Robert E. Naylor,"In Remembrance of Me"(Nashville:Broadman Press,1979) 福音主義者たちのこの一般的な基準は新約聖書のどこにも見あたらないことに、注意して欲しい。ウエストミンスター信仰告白にもホッジによるその注釈にも頻度については述べられていない。しかしとても興味あることだが、主の晩餐が世の終わりまで守られ続けなければならないことへの四重の証明の一部として、ホッジは「キリスト教会におけるその始まりから、あらゆる教会で行われてきた同一の普遍的な実践」をあげている。Hodge, 前掲書、p.355 これは伝統にもとづく論拠と言えないだろうか!
*49じっさいには、キャンベル派自身が、あらゆることを明瞭に聖書の中で「主がこういった」ことにもとづいて行うとすれば四苦八苦するであろう。たとえば、新約時代のクリスチャンたちはシナゴーグや個人の家で集会した。クリスチャンの集会のために建設された建物については、新約聖書は何も述べていない。長いすがきちんと並べられているその間に行儀よく座ってする礼拝などにも、何も言及はない。さらに新約聖書は、室内の洗礼プール(背後の壁に川を描いた壁画があったりなかったりだが)で人々に洗礼を施す正当な理由も、何も提供してくれない。
*50Hodge,p.37.参照、また p.272
*51フェミニスト神学の浸透、「差別語禁止」、そして多くのプロテスタントのグループでの流行にともない、いまや、「至聖三者の定式」の使用は聖書にある定式を用いることを意味しなくなっている。「In the name of Loving Parent,the Obedient Child, and Inspiring Emotion」は無数の可能な定式分の中の一つに過ぎない。それらは聖書からではなく、時代の風潮の中から引きだされたものだ。悲劇的なことに、これらの思想は徐々に、福音主義者たちの世界にも侵食してきている。
*52Hodge、p.340
*53「十二使徒の教訓」としても知られている。
*54字義通りには「生ける水」
*55幾つかの英訳が利用できる。(以下省略)
訳者注:和訳は荒井献「使徒教父文書」(講談社文芸文庫)から
*56テルトリアンはしばしば、幼児洗礼への反対者として「信者の洗礼」を唱えている。しかしながら、注意しなければならないのは、それが、洗礼はハリストスへ向かうという意識的な決断の外的なしるしであるという信仰からではなく、洗礼後の犯した罪に対して赦しは、特別な事情に限られているという彼の信念からだということだ。彼はまた未婚者には、結婚まで(ないしは童貞のまま生涯を送る決心ができるまで)受洗を待つように勧めている。それは自らの洗礼を汚さないためである。
*57Lectures on the Christian Sacraments,Ed.by F.L.Cross(Crestwood,NY:SVSPress,1986)p.p.59ff
*58The Life in Christ, Tr.by Carmino J. detanzaro(Crestwood,NY:SVSPress,1974),pp.75,78
*59ディダケーは実際に使われる洗礼の定式文についてもきわめて明快に指示を与えている。すでに述べたように、その定式文は至聖三者によるものだ。しかしもう一つの節では、ディダケーはこう言っている。「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない」(9章)。至聖三者の定式は礼拝の定式であり、「主の名によって」は説明の言葉である。4世紀の聖大ワシリイもまたこの問題を論じている。Orthodox Study Bible(Nashville:Thomas Nelson)の使徒行伝8:16の脚注は誤りである。「洗礼は時にはハリストスの名のみによて行われたが、至聖三者の名による洗礼が次第に標準的になっていった」(p.289)。至聖三者を否定した異端者たちの他に、イイススの名のみによって洗礼を授けていた者がいた証拠はまったく見あたらない。
*60経綸主義と「ラプチャー」はともに、主唱者たちは聖書的と言うが、19世紀の「発明」である。ユスト・ゴンザレスは皮肉っぽくこう言っている。「いっぽうで、次の点を銘記しておこう。原理主義は自らを伝統的な正統的キリスト教の間もリテを自負するいっぽうで、聖書の新しい解釈を生み出している。原理主義の聖書には間違いはないことの強調と聖書学者たちの結論の多くの拒否は。聖書の異なる文書からのテキストを同列に並べることを可能にし、そうすることによって神のわざ、過去、現在、未来を説明するたくさんの枠組みを発展させてきた。これらの枠組みの中で最も成功したのが「経綸主義」である。The Story of Christianity,vol.2,The Reformation to the Present Day(San Francisco:Harper &Row,1984)p.257
*61プロテスタントの論客は、ローマ・カトリックの「無原罪の懐胎」の教義を、「聖書のみ」に依拠せず伝統に依拠したときに何が起きるかの公的礼として持ち出す。しかしながらこの問題は実のところはこうなのだ。すなわち、「処女」マリアによるハリストスの懐胎でなく、義人アンナによる処女マリアの懐胎に言及するこの教義は、アウグスティヌス的原罪解釈からの完全に論理的な演繹なのである。もし原罪を生物学的な再生産によって受け継がれるアダムの違反に対する「罪責」と解釈するなら、肉においてハリストスを宿す準備として、彼女自身が派はアンナに宿ったときにこの汚れからきよめられなければならないというのは、完全に理に適っている。正教会はこの教義をあっさり否定するが、その理由は「聖なる伝統のなかにそんな考えはない」からである。この教義は原罪、元祖の罪への誤った理解から論理的に導き出されたものである。こうして、1854年教皇ピウス9世によるその宣言は伝統よりむしろ教義が聖書的な原理から合理的に導き出され得るとする思想に由来するのだ。
*62聖書は完全な教義の体系、そして個々人にとって、共同体にとって、教会にとって、必要な実践的規定となるすべての原理を教えてくれる。