名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

ペンテコステはなぜ「聖三者(三位一体)祭」なのか

 熱心な訪問伝道で有名なある新興宗教の信徒たちは、きちんとした服装、伝道冊子のぎっしり入った手提げカバン、二、三人連れだって歩く姿にすぐ「あの人たち」とわかります。もちろん、顔立ちはそれぞれ違いますが、礼儀正しく愛想のいい物腰のかげに見え隠れする、不安を必死でうち消そうとするかのような「キッ」とした表情は皆共通です。皆さん「同じ」に見えます。

 逆に正教会では、皆同じように十字をきり、イコンに接吻し、ローソクを献じ、伝統的な教会習慣を大切に守りますが、一人一人は実に「異なっている」という実感があります。この実感は、聖体礼儀の礼拝を通じて、あえて言えば「ゆったりしたくつろぎの中で、互いの『異なり』を確かめ合いつつ、大きな調和の内に抱き取られていく」といった「至福感」へと高められます。
 これを可能にするのは、復活したハリストスが天の父なる神の右の座にあげられてから十日後、五旬祭の日、祈りを捧げていた弟子たちの上に遣わされ(使徒行伝2章)、今も教会という「集い」にあふれ、私たちを生かす「聖神」です。

 ペンテコステ・聖神(霊)降臨祭は同時に「至聖三者」祭です。祭日の聖歌は、弟子たちが聖神を受け一斉に各地の言葉で語り始めたこと(使徒2:4)を讃えて、「『バベルの塔』(創世記11章)以来、人々を互いに隔ててきた言語の異なりは、今や人々を豊かな多様性の内に神へと結びつけるものとなった」と歌います。
 聖神(聖霊)は、父と子と聖神のお三方が別々のお方でありながら、なお一つの神として完全に一致しておられる、この愛の姿を私たちに回復します。「異なり」は差別や敵意ではなく、調和や愛を生み得るものとなります。「人格的交わり」の回復です。

 そういえば、冒頭にふれた新興宗教では「至聖三者(三位一体の神)」の教えを「多神論」への堕落として斥けます。多様性に喜びを見いだし得ない人たちです。
 私たちも教義だけに硬直し、教会の交わりを、即ち聖神(聖霊)を離れる時、そうなります。