名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

ホミャーコフと正教会の教会論

Joost van Rossum 著 訳 ゲオルギイ松島雄一

St.Vladimir's Theological Quarterly Vol.35より

    「罪に落ちるとき人は独りであるが、誰も独りでは救われない」。
  (「教会は一つ」第9章)  

 アレクセイ・ステパノヴィッチ・ホミャーコフ(1804-1860)は正教神学の転換期を画した幾人かの神学者や思想家たちの一人である。彼らの出現は、ゲオルギイ・フロロフスキー神父が西方の影響による正教思想の「偽型化」と特徴づけた*1一時代が終焉しつつあることを告げた。この小論では彼の教会論を詳細に分析してゆきたい。

 ホミャーコフは神学の「職業的」専門家ではなかった。彼は司祭でも神学校の教授でもなかった。軍務を退いてからの後半生、彼はその大半を領地経営に費やした。しかし彼はほとんどあらゆる分野において優れた才能を発揮した。熟練した技術者であり、そのうえ哲学、文献学、文学、そして神学上の多くの著作を出版した。ただ彼はその哲学的、神学的な思想を体系的に展開することは決してなかった。さらに言えば、彼は著作家というよりむしろすぐれた語り手であり、知識人たちの集まりの中で展開されたおびただしい討論において自(おの)ずから中心的存在を担うことになった。だから正教神学に今日に至るまで影響を与え続けてきた彼のいくつかの最も重要な神学的著作は、実際には様々な機会に書かれた小冊子であった。それらはフランス語で書かれ外国で出版された*2。反動的皇帝ニコライ一世(1825-1855)の検閲体制は、このスラブ主義者たちの指導者が神学的、哲学的思想を自由に表現することを抑圧した。新しくそして自発的な運動と思想はすべからく怪しむべきものだった。ホミャーコフは彼の最初の神学的評論「教会は一つ」をギリシャ語に翻訳して出版できないか検討したことさえある。なんと、新たに発見された著者不明の聖師父文書として! それが警告文を前書きとしてロシア語で最初に出版されたのは一八六四年、彼の死後のことである*3。

 正教の教会論の再評価を引き出したホミャーコフ自身は、アカデミックな神学からはほど遠かった。これは意味深い。教会は彼にとって学問的分析の対象である以上に「体験」であった。そのような教会とその本性についての見方は公式的な神学アカデミズムの中からは決して生まれ得ないものであった。当時のアカデミズムは教会の聖師父たちや奉神礼の伝統より、ラテン的なスコラ主義とドイツのプロテスタント的神学の影響のもとにあったからである。
 ホミャーコフの教会についての思索は論争的な文脈の中で展開した。彼の教会論は彼が一つの統一体と見なした西方神学への痛烈な攻撃である。彼は、「宗教改革は『ローマ主義』の継続と展開に過ぎない」と述べる。宗教改革も「ローマ主義」も共に「合理主義の産物」である*4。この西方キリスト教への辛辣な批判は、ホミャーコフの文化的な背景から説明できる。スラブ主義は西方文化、特にその合理主義に対して批判的であった*5。しかし彼がこの小論の中でほんとうに示したかったのは、むしろ自身の教会論が「論争」や「護教」を超えていることだった。彼の西方キリスト教への批判的な見方は、彼にとっては教会の本質ないし本性とは何かを表現するためのものである。
 ホミャーコフの教会論の二つの主要なテーマは「一致」と「自由」である。仮にこの二つの概念が、彼が言うように真に教会の本質に属するなら、この二つは決して矛盾しないことを示さねばならない。もし古代からの信仰告白文が告げるように、教会が唯一のハリストスの神秘的な体として「一つ」ならば、その体の肢体(メンバー)としての個々人の霊的な自由はどうなるのか。自分が望むことを信じ行動できないなら彼はほんとうに自由といえるのだろうか。ホミャーコフはこれらの問題に対する答えを西方教会への論難を通じて提示した。彼は教会の一致は教会に押しつけられるものではないことを強調する。「強制された従順は死を意味する」*6。それはまさに「ローマ主義」の中に見いだされるものである。それゆえローマ教会の一致は自由にとって有害な「外的な」一致に過ぎない。宗教改革(プロテスタンティズム)はまさにその対極にある。個々のクリスチャンには自由の余地が残されるが、この自由は一致に対して有害な自由である。それゆえプロテスタントの自由はたんに「外的な」自由に過ぎない。「自由を排除してしまう外的な一致は、結果的に真の一致ではない、これが『ローマ主義』である。一致をもたらさない外的な自由は、結果的に真の自由ではない、これが宗教改革である」*7。

 ホミャーコフはこの二律背反(ジレンマ)をどう切り抜けるのだろうか。いやむしろ、次のように問いかけるべきだろう。教会の本質ないし本性とは、もしそれがローマ主義ともプロテスタント主義とも違うなら、何なのかと。ホミャーコフは教会の一致をたんなる数の上での「一つ」であること、すなわち「特定の個々人の数的総計」*8とは考えなかった。「教会は一つ」の冒頭は次のよう語り出される。「教会の一致は神の一致から必然的に生まれる。教会は切り離された個々人の数の上での集合ではなく、理性的な被造物それぞれが自らすすんで恵みのもとに服するとき、そこに活きづく神の恩寵による一致である」*9。教会の一致は神の愛の賜物を土台とする「内的な」あるいは「有機的な」一致以外のものではあり得ない」。「教会は自らを有機的な一致と見なし、その生きた原理は、神が与えてくれる相互の愛の恵みである」*10。この一致は、目に見えないが真実で絶対的であり*11。この「有機的原理」の上に成り立つ教会の一致は外側から押しつけられるものではなく、自由を侵害することはあり得ない。「教会の一致は常に自由なものである」(ホミャーコフはここで、「ローマ主義」がこうむった変化を論じている)。「その内的な同意による調和の内に実現する自由」*12である。

 それゆえに教会に「上から」臨む外的な真理の規範は「聖書」、「教皇」、もしくは「会議」を問わず存在し得ない。ローマ主義とプロテスタンティズムはともに、教会が信ずべきものとして、そのような外的な規範を承認している。両者が本質的に異ならない理由である。ホミャーコフはローマ・カトリックに対して、教皇の権威は外側から教会に押しつけられたもので、それは教会の一人ひとりの肢体(メンバー)を「臣民」に変えてしまうと言う。「教会の普遍的な不謬性に取って代わった教皇の権威は完全に『外的な』権威である。そこではクリスチャンはもはや教会の肢体の一つではなく、臣民の一人に過ぎない」*13。そしてプロテスタンティズムに対しては、聖書は教会に属するものであり、教会の内で書かれたと言う。「聖なる書物は教会全体によって編まれてきた。教会は聖なる伝統(聖伝)の内にこれらの聖典を生きたものとする。いやむしろこう言うべきだろう。同一の聖神の二つの顕現は実際には一つのものであり、聖書は書かれた聖伝であり、聖伝は生きた聖書である、と」*14。
 聖書を理解するためには、教会のいのち(life 生活)の内に生きなければならない。聖書は教会から切り離されてしまえば、もはや死んだ文字に過ぎない。「教会のいのちが聖書に対してどんな関係にあるのかを理解するためには、人は教会の内なるいのちを理解しなければならない。ドイツのプロテスタンティズムがしてしまったように、クリスチャン各個人を断片化し、クリスチャンたちを一つの生きた『個体』へと互いに結びつけてきた絆を切り離してしまうなら、それはとりもなおさずクリスチャンたちを聖書に結びつけていた絆を切断してしまうことになる。『一つの書物』であった聖書がバラバラの死んだ文字に化す。その時、聖書は徹底的に人々の外側に立つ。証しする者のいない歴史、教理、ことば…が残るだけだ」*15。このように真の教会では、自由と一致は互いに排斥しあうものではない。教会では「内的な、そして真実の一致は自由が宣言されることによって産み出される」*16。それは「合理主義的な学問や、気ままな因習ではなく、相互の愛と祈りという精神的な法を土台とする一致であり、その一致の内にあっては、機密執行のために聖職位が階層的に秩序化されてはいても、誰も隷属させられず、むしろすべての者が差別なく共同の仕事への参与と協力を呼びかけられる。その一致は端的に言えば、人間的な制度ではなく神の恵みによる一致である。それが教会の一致なのだ」*17。
 教会のこの内的な一致は不可視のものである。客観的で目に見えるかたちで感知できるものとはならない。まさにそれがホミャーコフが「見える教会」と「見えない教会」を対置させることを拒否する理由である。「地上でその使命を果たすとき、教会は可視であると共に不可視である」*18。もう一人のロシアの宗教哲学者ベルジャエフは真の教会を客観化しようとするあらゆる試みは挫折すると言う。これら二人の思想家は、真の教会には体験の神秘的な一致があり、それはいかなる教理化や「制度化」にも先行していることを強調する。もちろん誰でも自らをその一致から引き離すこと、すなわち教会から自らを排除し、自らを「自己破門」するのは可能だ。ホミャーコフはそれが痛悔機密の真の意味であると言う。人は特定の「外的な権威」によって断罪されるのではなく、事実上は自らを断罪する。この機密は「ラテン」によって「誤って理解」された。ラテン教会はそれを聖職位の固有の特権であると見なすようになった。いっぽうでプロテスタントは地上のあるいは歴史的に現存してきたこの機密を完全に無視し、廃棄してしまった。教会は罪を犯した者を破門し「断罪」するのではなく、むしろ自ら自由な意志でその一致から離れた人々から手を引くのである*19。
 たぶん人はいぶかるに違いない。ホミャーコフにとって、個人は教会ではどんな位置を占めているのだろうか。キリスト教の神学者たちの信仰と教えはいつも変わらずに同じものだったと言い切れるのか。教会の聖師父たち互いの間にはいかなる違いもないのか。ホミャーコフは歴史的な感覚を充分に持っていたので七回の全地公会議を経て定式化された教会の公式教理の背後には、何世紀にも及ぶうんざりするような議論と葛藤があったことを承知している。しかし彼によれば、キリスト教の教理はたんなる理屈っぽい議論と政治的な葛藤の最終的な産物ではない。教会はそのそもそもの初めから、全地公会議で定められた教理的言明が意味するものを知っていた。教会はいかなる時にも真理を所有している。その「かしら」が真理であるハリストスご自身だから。この真理の表現ないし定式化のための語句だけが、教会の個々のメンバーの知的な、また信仰的な受容能力と、問題の処理に用い得る知的手段に従い、時代と共に変化する。それゆえに教理の歴史は、教会が最初からすでに知っていた真理が世代を継いで順次に発見されてきた歴史と見なされねばならない*20。

 教会の個々のメンバーは誰も完全には真理を所有してはいない。この点についてホミャーコフはニッサの聖グレゴリイとアウグスティンに言及する。二人とも、その教説のあるものが「完全に正統的」とは言えないのだが、彼ら自身は「異端者」とは断じられてこなかった。二人とも、彼らの神学は完全ではないにもかかわらず、教会をより強固なものにするのに貢献した。「教会に燃えている恵みの炎が、彼らが献げた業績を清め、役に立つ材料だけが教会という大建築を築き上げるために用いられてきた」*21。このように教会の信仰を個人的に体験し表現する自由は侵害されることはない。「神性の完全さをそのからだに宿す受肉した真理」であるハリストス以外の誰も、真理を完全には所有できない。それが個々の神学者はそれぞれに教会の裁定を受けねばならない理由である。しかしその裁定は自由を奪い、奴隷的な屈服を強いるものではない。愛による「謙虚な自由」の結果として受け入れられるのである。その「謙虚な自由」こそが真のクリスチャンの固有の性格と言える。教会が特定の人物を「異端者」と宣言するのは(彼らはすでに自らを事実上教会から切り離してしまっている)、彼らにこの性格が欠けている場合に限られる。プライドと道徳的な弱さによって「反抗」へと自らを駆り立てる、人間という存在は本性的に「プロテスタント」であり、人間は教会において愛と聖神の賜物による有機的な一致の一部分となって初めて真に「カトリック」な者となる*22。教会の外では「確信」、すなわち個人的な意見としての「信仰」があるだけである。教会に結ばれることでこれは真の信仰となる。「その歪んだ意志の悪によって盲目にされた無思慮と、限りある知性は神を見ることもしないし、しようとしてもできない。その『信仰』が神と無縁であるのは、ちょうど悪とその奴隷たちが、神と無縁なのと同じである。そのような『確信』はたんなる理論的な意見に過ぎず、ときに『信仰』を詐称するにしても、まことの信仰に導かれるものではない。『確信』は聖性によって信仰へと変えられる。それは『生命を賜う聖神』の恩寵を通じて、神ご自身との内的なつながりを『確信』に与える」*23。教会の外では、個々の「神学的意見(テオログメノン)」 は不完全なものであり続ける。教会の内においてのみ、それは完全なものとなる。「クリスチャンがそれぞれ独自の見解の内に持つ部分的な洞察は、すべての者の有機的な意見の中でのみその完全さを見いだす」*24。学者であれ、主教であれ、それぞれの神学者は教会の裁定を受けなければならない。この裁定は論理的な推論にではなく教会の内的意識にもとづく。「各人の知性の自由は服従的なものではなく、その働きは教会による見直しを受ける」。教会は「決定者」である。その決定は論理的な議論ではなく神から来る内的意識の結果である。ところが「歴史は、無学な民衆と学者たち、群れの導き手と魂の羊飼いが共にこの内的意識を否定してきたことを示している」*25。
 教会の構成員たちがこの内的意識あるいは直観を次第に失ってゆくことはあり得るのだ。たとえばアリウス論争の渦中で正教にとどまったクリスチャンはきわめてわずかであった*26。しかし教会のいのちの中からそれらが完全に消え去ることはあり得ない。教会から真理が全く失われてしまうことはあり得ないし、その一致が失われることもあり得ないからだ。異端者たちでさえこの「天与の一致」*27を破れない。ただ、教会の個々のメンバーが自らを教会から切り離す(「自己破門」)のは自由ではある。教会の一致は教会の内にある「合意」ないし「直観」にもとづくものであって、何らかの「外的」な規準によるのではない。それゆえに、キリスト教教義の真理についての「判定規準」という概念は教会には無縁である。「全地公会」が「全地公会」として教会から承認されたのは、後になってからにすぎない。皇帝たち、総主教たち、教皇たちが承認した「全地公会」の決定が、後になって最終的に「異端的」とされた例はいくつかある*28。だからこそ、ホミャーコフは西方教会の「会議主義」の見方に組みしない。それによれば、会議は教会の信仰の表れというより、むしろ教会の「上に」ある権威となってしまうからだ。

 ホミャーコフは教会の本質の特徴的な表現として自由を強調するが、それは教会の位階的な構造の過小評価ではない。彼は、時に教会の位階構造に批判的だったとされるが、決して教会の聖職の意義を見落としてはいない*29。しかし如何なるものであれ「聖職者主義」と彼が無縁であったことは明らかである。聖職者主義は彼の見解ではローマ教会、プロテスタントを問わず西方教会に固有の現象である。後者もまた前者と同様に、教会を「教導教会」と「聴従教会」に事実上分けてしまっている。教導教会である聖職者たちに学者たちが取って代わっているに過ぎない*30。ホミャーコフは真の教会には「教導教会」はあり得ないと力説する。教会を構成するそれぞれのメンバーは、それぞれの仕方で他のメンバーたちに教え(殉教者たちは真理のために死ぬことで)、またクリスチャン同胞たちから学ぶ。ホミャーコフはアリュートの使徒・聖インノケンティ・ベニアミノフの言葉を引用する。「主教は彼の率いる群れの教師であり、かつ弟子である」*31。教会では教育の手段は言葉だけではなく、生活そのものでもある。「教えることは、言葉という手段だけではなく生活そのものを通じてなされる。筋道の立った説得以外のいかなる教育も認めないことは、まさに合理主義の産物である。そしてその合理主義はプロテスタントよりさらに顕著に教皇主義に表れている」*32。
 その一方でホミャーコフは、教会の信仰を宣言し説明するのは主教の仕事であると言う。「教会の信仰を宣言する権利は間違いなく主教にある」*33。しかし決して間違うことのない主教は存在し得ない。それゆえに教義的な問題についての最終判断は一つの全体としての教会が行う。「主教たちが同意し合えない時は、最後の手段として教会全体が最終的に判断する。たとえ仮定のこととしても、主教たちが全員一致で間違うことがあり得るとは考えられない」*34。
 ホミャーコフには、聖職位階のない教会は想像することすらできない。「主教職を廃止することは不可能である。それが教会の正しさを一人の個人に結びつけて十全に表現するからである」*35。主教職の働きを通じて、教会はハリストスと使徒たちに結合されている。それゆえ、特定の主教たちが「教会の信仰と伝統に忠実な僕」であるかどうかを判断する権利は教会に留保されてはいても、主教たちには教義と教会規律に関して決定を下す特権が与えられている*36。究極的に教会が全体として、その伝統の守り手なのである。もちろん主教職についてのそのような理解は、「使徒的継承」で受け渡され続けるものは「按手によって特定の人から特定の人へと伝えられる力」であるというような魔術的な理解とは無縁である。

ソボルノスチ

 ホミャーコフの教会論は、すでに彼の時代から正教神学者たちのお気に入りの言葉となっていた「ソボルノスチ」に要約できる。しかしホミャーコフ自身は「ソボルノスチ」という名詞を、彼の影響によって正教神学にやがて受容されることになる重要な意味合いでは用いてはいなかった。彼の死の年(1860)に出版された最後の神学的エッセイで初めて形容詞「ソボールニイ」の意味について論じているにすぎない*37。このスラブ語の用語の起源は「集まり(ソビラト)」である。ホミャーコフは、この語が教会に適用される場合は場所的にではなく霊的に理解されねばならないと言う。教会は霊的に一体である人々の集まりであり、必ずしも特定の場所に結びついているものではない。この「集まり」では、各人は大衆の内に吸収されず、人格的自由は損なわれずに保たれ続ける。スラブ語の信経でのソボルニイ(「一つの聖なる公なる(ソボルニイ)使徒の教会」)には、「画一性(ユニフォーミティ)」の対極にあるものとしての「一致(ユニティ)」の意味合いが含まれている。「多数性における一致」が最もふさわしい言い換えである*38。そう理解すると、形容詞「ソボルニイ」はこれまで述べてきた教会の「内的な」あるいは「有機的な」一致の表現に最も適切な語であろう。この一致は、目に見える外的な形を持たない不可視なものである。ギリシャ語の「katholikos」(kataとholosの複合語)もまた同じ意味を持つと、ホミャーコフは言う。ギリシャ語とスラブ語のこの二つの用語は、たんに教会の地理的な意味での普遍性(ホミャーコフもそのような意味は否定しないが)だけを指すのではない*39。それゆえに教会についてのホミャーコフの教えの要約と見なし得るのだ。「Kataはしばしば『~による』を意味する(kata Loukan, kata Joannen)。『カトリックな』教会とは『すべての者による』ないしは『すべての者の一致による』教会、自由な自発的な一致による教会、完全な一致である。もはやそこには国籍はない、ギリシャ人も蛮人もない、身分の違いはない、主人も奴隷もない。それは旧約が預言し新約において実現した『教会』である。手短に言えば、聖使徒パウェルによって定義された教会である」*40。

ホミャーコフの遺産

 ホミャーコフは正教会を真の教会と考え、「教会」は「正教会」に他ならないとしたが、彼が当時のロシア正教会に無批判であったわけではない。じっさい、教会の内的で有機的かつ不可視の一致、そしてそのメンバーの自由を強調した彼が、どうであれ教会の外的な目に見える制度を称賛することは、まったくあり得ないだろう。彼はロシア教会では、自由の原理が必ずしも常に現実化されてきたわけではなかったことを認めている*41。しかし彼はまた、彼の神学的著作が取り扱うのは、教会の本質また教会の本来のあり方であって、歴史の中で非本質的な要因で変形してしまった「教会の現実の姿」ではないことを強調する。彼のねらいは、ローマ・カトリック(およびその論理的帰結である宗教改革による諸教派)が教会の本質と本性を変えてしまったことにある。「ローマ主義は…、教会の本性についての教えに対する第一の異端であり続けている」*42。
 ホミャーコフが批判するのは、西方キリスト教のまさに本質と本性であり、その一部にしかすぎないいくつかの慣習と制度ではない。彼は、聖職者主義は西方キリスト教にとって不可避なものであると主張する。聖職者主義は必然的に教会についてのある特定の概念に伴うものであるからだ。正教においても同じ現象に出会うことはある。しかしそれは正教の世界では「特定の個人のたまたまの過ちであって、教会の過ちではない」*43。教会史家ゼルノフによれば、ホミャーコフはロシア教会とその指導者、そしてそのメンバーたちの過ちと欠点を手加減することなく批判しているが、それは彼自身が教会生活に深く根を下ろしていたからである*44。母親のおかげで、彼は幼少の時から正教会の信仰生活の諸習慣に忠実であった。それは、彼が海外で生活している時でも大斎(四旬節)の断食規定を厳格に守ったことにも表れている。ロシア語のツェルコフニィ(「教会の」)はまさに教会に対するホミャーコフの態度を形容するのにぴったりである。それは同時代のロシアの「インテリゲンツィア」のサークルのなかでは異例のことである。実に、彼の教会論の第一の源泉は彼自身の教会体験であった*45。

 ホミャーコフにとって正教会はキリスト教の伝統のたんなる一支派ではなく、「教会」そのものである。しかし彼は他のキリスト教教派を「教会」と「真理」に無縁のものとして断じ去るべきとは考えなかった。地上の教会と人類の間には「神秘的なつながり」が存在している。「地上の教会と他の人類を結合している『神秘的なつながり』は我々には未だ啓示されていない。だから、厳しい断罪を彼らに課す権利もなく、それを望むこともあってはならない。それは神の善に矛盾することだ。反対に、聖使徒パウェルの『ローマ人への手紙』、また百夫長の回心の物語に見られる神聖神(せいしん)の言葉は、その教えの錯誤がいかなるものであれ、すべての『クリスチャン』の兄弟のために、喜ばしき期待を寄せることを許している」*46。逆説的に聞こえるかもしれないが、しばしばホミャーコフは正教会史での、正教会以外の教派との対話の先駆けと見なされている*47。まさに彼はエキュメニカルな対話に求められる最も基本的な問題を提起したのである。それは教会の本質とは何かという問いである。
 ホミャーコフのこの問題に対するスコラ主義とは無縁の取り組みは、正教の神学的伝統に西方神学による「偽型化」を被った何世紀かに代わる新時代の到来を告げるものであった。彼の同時代人の中には、彼を「モダニスト」と見なす者も*48、また一方で彼を「教会の教師」と崇めそやす者たちもいた。その後の正教神学者たちへの彼の影響は、否定できない。ニコラス・ベルジャエフは、その宗教哲学を「自由」というテーマを巡って展開したが、ホミャーコフに多くを負うことを認め、彼にその研究論文を献呈している*49。ベルジャエフの最も重要な宗教的著作、「自由と聖神」の中で、彼は教会についてホミャーコフを彷彿とさせる筆致で述べている。

「教会を定義することは可能だろうか。教会の外側からは、教会についての完全な洞察と理解は不可能である。教会についての理性によって完全に把握可能な理論的定義は不可能である。まず教会の内に生きなければならない。教会は体験によってのみ把握され得る。教会は我々に強要される外的な現実ではない。教会の外見は教会の最も深い本質を表してはいない。…教会が社会であるのは、その外面的な形によってではなく、内的な意味においてである。その本質的な体験は『ソボルノスチ』である。そしてソボルノスチは教会の存在論的なしるしである…」*50。

 しかしながら、ベルジャエフの教会論は教会の奉神礼的、機密的な側面への関心をあまり示していない。そのことは彼自身がその精神の道程を語った自伝の中で告白している*51。反対にホミャーコフの宗教体験は教会の奉神礼的生活に深く根ざしている。ホミャーコフの影響は、直接的であれ間接的であれ、ニコラス・アファナシェフ(1893-1966)、アレクサンドル・シュメーマン(1921-1983)、現代ギリシャの神学者府主教イオアネス・ジジゥラスのような神学者にいっそう顕著である。アファナシェフの教会論は教会の完全さと一致の目に見える宣言としてユーカリスト(聖体礼儀)に焦点を当てる(「聖体礼儀的教会論」)。「聖体礼儀に人々が集まる時、そこに教会がある。なぜならそこにハリストスがおられるから。教会は聖体礼儀の集まり無くしては存在し得ない。そして聖体礼儀の集まりが教会の完全さと一致を宣言する」*52。同様にホミャーコフは聖体礼儀をたんなる「七つの機密の一つ」と見なさない。彼は「教会の霊的な一致は(聖体礼儀の中に)地上においてその天上的な栄冠を見いだすのである」*53と述べている。ホミャーコフのように、アファナシェフは教会についてのいかなる法律的概念にも聖職者主義にも反対する。教会においては「権威」と「力」は法律的原則によって基礎付け得ない(パリの聖セルギイ神学院で「聖規則」を教授していたアファナシェフ自身がこう言う)、そうではなく愛のみが教会の基盤である。なぜなら愛は教会の本質を形づくっているからである*54。これらのアファナシェフの威厳に満ちた研究論文を読み進むなら、ホミャーコフの著作の次のような部分を思い起こさずにはおられないだろう。

 「神もハリストスも教会も、外側にある権威的な何ものかではない。それらは真理である。それらはクリスチャンの生活であり、その内的ないのちである…。人は教会に自分とは無関係な何ものをも見いださない。教会で人は自分自身を再発見し、もはや霊的な孤独の弱さのうちにではなく、その兄弟姉妹と救い主との霊的な親しい結合と、…イイスス・ハリストスにあっての互いの愛の力の内に生き始める。この愛は神聖神(せいしん)だから」*55。

 アファナシェフの教え子であり弟子であるアレクサンドル・シュメーマンの著作は、ホミャーコフの直観の展開と見なすことができる。彼のあらゆる著作は教会についての法律的、合理主義的概念を脱却している。彼は正教の教会論に対して特に、教会の終末論的側面を強調することで貢献した。シュメーマンが教会を地上における「神の国」の顕現(エピファニイ)として語っていない著作や、エッセイは皆無と言ってよい*56。
 イオアネス・ジジゥラスの研究の中にも、すでに述べた神学者たちと同じ見方と体験を見いだせる。彼にとっても教会の一致は「外的な重層的構造」*57ではなく、聖体礼儀におけるハリストスの臨在がもたらす。しかしながら、彼はアファナシェフの教会論を、もしそれが「個別教会の普遍的教会に対する優越」を語っているのなら、それはある種の「会衆主義」として批判されるべきとする*58。個別教会の優越性といったものは存在しない。個別教会と普遍的教会の「同時性」が存在するのである*59。アファナシェフはホミャーコフの著作に聖師父時代以後の正教神学における教会の本質への最初の力強い表現を見いだしたが、ジジゥラスはこのアファナシェフの洞察を訂正と言うより、むしろさらに展開したと言うべきであろう。
 正教会の教会論におけるホミャーコフの遺産はルーマニアの神学者ドミトリ・スタニロアエの著作にも見いだせる。

 「神聖神(せいしん)はそれ自体が、一致における多様性、教会的な多様性の原理、すなわち交わりにおける一致の原理である。聖神は、個々のメンバーが抑圧されるのではなく、かわりに生き生きと活動的なものであり続け、実際にそのいのちと成長のまさに条件をそこに見いだす有機体の全体を創出し、支える」*60。

 このようにホミャーコフ、――その教会についての著作はたんなる論争的パンフレットを超えており、その教会論が提示する眺望は今日まで正教神学者たちを鼓吹し続けてきた――を「教会博士」、教会の伝統の真正なる証人と呼ぶことは、けっして誇張ではない。


原注

*1 Ways of Russian Theology, Belmont, MA:Nordland,1979,p.85
*2 これらは L'Eglise latine et le protestantisme au point de vue de l'Eglise d'Orient, Lausanne et Vevey,1872(1969再版)に集められている。これらの著作のロシア語訳は A.S.Khomiakov,Polnoe sobranie sochinenii,vol.Ⅱ、Plague、1867所載
*3 Polnoe sobranieⅡ, pp.3-22
*4 L'Eglise,pp.59,64 p.41には「プロテスタンティズムはローマ主義の合法的な子供」とある。またp.180には「西方の離教の二つの部分はプロテスタンティズムの二つの形態」とある。
*5 スラブ主義が単純に反西方的な運動であったと断じ得ないことに注意しておくことは大切である。スラブ主義そのものには何らかの形でドイツ哲学思想の影響がある。たとえばホミャコフには「シェリング主義者」とはよべないもののシェリングへの傾倒が見られる。
*6 L'Eglise、p.228
*7 L'Eglise、p.287
*8 L'Eglise、p.118
*9 Polnoe sobranieⅡ、p.3
*10 L'Eglise、p.118
*11 The Church is One:Polnoe sobraine Ⅱ、p.3
*12 L'Eglise、p.64
*13 L'Eglise、pp.37f.
*14 L'Eglise、p45 ホミャーコフは近代聖書学の最初期に生きた。彼によれば、聖書の学問的、批判的研究は聖書のテキストの正典性を危険にさらすものではない。テキストの正典性はその「真正性」によるのではなく、教会がそれを受容していることによるからだ。肝要なのは福音書がイオアンやマトフェイに書かれたことではなく、教会によって書かれたことである。
*15 L'Eglise、pp.169f.
*16 L'Eglise、p301.
*17 同上
*18 L'Eglise、p.273 Cf.p.275 「目に見えない教会を想定すること以上に馬鹿げたことはない、それは何世紀ものうちに失われた」
*19 L'Eglise、pp.271-274
*20 L'Eglise、pp.289ff
*21 L'Eglise、p.297
*22 L'Eglise、pp.299f.,cf.p.242
*23 L'Eglise、p.241
*24 L'Eglise、p.228
*25 L'Eglise、p.300 .Cf.p.290 「信徒の知的自由はいかなる外的な権威にも従属しない」
*26 L'Eglise、pp.248f
*27 L'Eglise、p.32 したがって初代教会を「まだ分裂していない教会」あるいは「分裂のない教会」と言うのは(時として正教神学者さえそう言ってしまうが)不正確である。教会は一貫して分裂していない、ないしは分裂し得ない。
*28 ホミャーコフは特に教皇リベリウスに言及している。彼は358年のシルミウムでの公会で、相似本質論の考え方を承認している。L'Eglise、pp.61f,,282.参照。J.メイエンドルフの「全地公会議とは何か」Living Tradition、Crestwood、1978.pp.45-62も参照せよ。

*29 ロシアの神学者たちの側からのホミャーコフへの批判に関しては、Berbhard Plank, Katholizitat und Sobornost,Wurzburg,1960,pp.100-126
*30 L'Eglise、p43
*31 L'Eglise、p.49.Cf.p.54 「教会は、それ自体の全体性として以外のいかなる「教導教会」を承認しない」
*32 L'Eglise、p.50
*33 L'Eglise、p.283n
*34 同上
*35 L'Eglise、p.150
*36 L'Eglise、p.151
*37 L'Eglise、pp.391-400 Cf.Nichokas V.Piasanovsky, "A.S.Khomiakof's Religious Thought,"St Vladimir's Theological Quarterly 23 (1979) 87-100 (p.92,n.15
*38 L'Eglise、p.398 「ソボールは集まりを意味する。しかしそれは必ずしもある特別な場所にある集まりではない。それは実質的には公式的な再結集なしに存在する。多数性における一致である。
*39 Cf.L'Eglise、p.59 「普遍性と教会の成聖の教え」、コミャーコフは信経の翻訳者たちは、もしカトリコスという語が普遍的という意味しか持たなかったなら、別の訳語、すなわちvsemirnyi またはvselenskyを選んだであろう」L'Eglise、p.397
*40 L'Eglise、p.398
*41 L'Eglise、p.251n. 「ロシア教会で教会の自由がいくつかの面で明らかに害されたようなことは決してないなどと、言うつもりはない」
*42 L'Eglise、p.217
*43 Birkbeck,op.cit.,p.127 (letter to palmer)
*44 「彼は教会を離れることはなかった。教会は彼にとって真実のそしてただ一つのホームであった」Nicokas Xernov, Three Russian Prophets:Khomiakov,Dostevsky,Soloviev,London,1944,p.51.
*45 他の源泉は常に親しんだ聖師父文書、同時代の哲学的神学的文書特にヨハン・アダム・メーラーのDie Einheit der Kircheであった。
*46 L'Eglise、p.267
*47 Zernov,op.cit.,p.68 「最も峻厳に西方キリスト教を攻撃した人物が、同時に西方諸教会に真正なる関心を寄せ、教会分裂という罪の深刻さを知った最初の東方神学者であったと言うことは、もっとも重大な逆説であった。コミャーコフの息子のドミトリイは父親の神学的著作を「まったく平和的」と呼んでいる。なぜなら「教会一致のための最善の準備は彼らの深いところに問いかけ、互いの誤解を解くことだから」。
*48 彼の弟子であり友人であるユーリー・サマリンはコミャーコフの神学的著作Polnoe sobranieⅡの前書きでそう述べている。
*49 モスクワ,1912(ロシア語)
*50 独語訳から
*51 「私の宗教生活において最初は、機密的奉神礼的なものは重要なものではなかった」 Essai d'autobiographie spirituelle Pris,1958,p.215
*52 Nichokas Afanassieff, L'Eglise du Saint-Esprit, Paris:Cerf,1975,p.196
*53 L'Eglise、p.272
*54 L'Eglise du saint-Esprit,p.369.Cf.ibid 「愛である教会では、愛以外の力は存在しない」。
*55 L'Eglise、pp.40,116f
*56 コミャーコフの直接的影響は特にシュメーマン神父のFroodom in the Church、Church,World,Mission,Crestwood,1979 pp.179-191に顕著に表れている。
*57 Being As Communion,Crestwood,1985,p.157
*58 同上p.133
*59 同上
*60 Theology and Church,Crestwood,1980,pp.70f