名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

世のいのち

アレキサンドル・シュメーマン神父「世のいのちのために」第一章

  「わたしは天から下ってきた生きたパンである。
  それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、
  世のいのちのために与えるわたしの肉である」。
       イオアン6:51

◆1

「人とは彼が食べるところのものである」。
 フォイエルバッハ(ドイツの著名な唯物論哲学者1804-1872)はこの彼の声明によって、人間性についてのあらゆる観念論的な思弁に終止符を打ったと考えました。しかし、実は彼は期せずして最も宗教的な人間理解を表明しているのです。フォイエルバッハよりはるか以前に同じ人間理解が聖書によって与えられました。聖書の創造物語では、人はまず、飢えた者として、またこの世はすべて彼の食物として示されます。第二に神は、人が繁殖し地に満ちる為に「地のものを食べよ」と人に命じられました(創世記1:28-29)。

 「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう(1:29)」
 人は生きるためには食べなければなりません。自分自身の内にこの世を取り込み、自分自身に、すなわち肉と血に変えなければなりません。人はまさに「彼が食べるところのもの」であり、この世は人のためにすべてを包み込む一つの宴卓です。そして、この宴のイメージは聖書全体を通じて「いのち」の中心的なイメージです。創造に於いても、またその終末と成就に於いても、宴は「いのち」のイメージです。
 「…私の国で食卓について飲み食いさせ(ルカ22:30、マトフェイ8:11参照)」。

 (注) 「いのち」はlifeの訳。著者は神からの贈与としての根源的な「いのち」の他に「(日常)生活」や「(生物学的)生命」や「人生」という多義的な意味をlifeに含意している。それは、生活や生命や人生もみな本来神から贈られた「いのち」であることを示すものである。本翻訳に際しては、lifeは基本的には「いのち」と訳し必要な場合は「いのち(=生活)」と括弧書きする。

 私は食物についての一見二義的な主題から始めます。二義的と言うのは「私たちがクリスチャンとして『ハリストスが世のいのちのために死んだ』と信仰告白するとき、何の『いのち』のことを語り、説教し、宣言し、告げているのか、また何の『いのち』がキリスト教の伝道を動機付け、その開始となり目的地となるのか?」という、この小論が最終的に答えなければならない、今日の重大な宗教的問題からみれば二義的だからです。

 既存の回答には二つの一般的パターンがあります。
 まず、「いのち」とは「宗教的な生活」を意味すると言う人々がいます。この場合、宗教生活はそれ自体、世俗的なこの世とそのいのち(=生活)から切り離された一つの世界です。これは「霊性」の世界であり、今日ますます人気が高くなっているように見えます。飛行場の売店の本棚にさえ神秘主義的な著作からの「名句集」が溢れています。そんな中の一つには「根本的神秘主義」というタイトルまでありました。
 いのち(=生活)の騒々しさ、慌ただしさ、そして様々な抑圧の中で、人々は道を見失い混乱し、魂の内面的な聖所への招きを安易に受け入れるようになります。そこにもう一つのいのちを発見し「霊的な食物」が豊かに供される「霊的宴」を味わいます。この霊的食物は彼を手助けしてくれます。それは、心の平安を回復させ、世俗的なこの世に耐えさせ、艱難を受け入れさせ、健全で一層献身的な生活へ導き、「彼はいつも微笑んでいる…」といった深い宗教的寛容を身につけさせます。かくして、ここでは、伝道は、人々をこの「霊的」ないのちへ回心させ彼らを敬虔(「宗教的」)にすることを意味します。

 この傾向の中には、単なる復古主義から秘儀的な神秘主義への洗練された関心に至るまで、様々な強調点の違いや神学的な多様性が存在します。しかし、結論は同じです。宗教的生活は世俗的ないのち…食べたり飲んだりする生活…を「本来のものでない無意味ないのち」とし、そこから、敬虔と忍耐を身につける訓練の場という以外の、すべての大切な意味をはぎ取ってしまいます。この宗教的な宴が「霊的」であればあるほど、私たちがハイウェイ沿いに見る「お食事、飲み物」といったネオンサインの群は、一層「世俗的」で「物質的」なものとなってしまうのです。

 しかし、このような傾向の一方で、「世のいのちのため」とは当然「この世のより善い生活のため」を意味しているとする人々がいます。霊性主義者の存在は行動家たちによって均衡が取られるというわけです。たしかに、今日私たちは、「社会的福音」への単純な楽天主義と期待感から遠い所にいます。実存主義がその「不安」とともに表すもの、また「新正統主義」がその歴史への悲観的現実的な見方によって表すものはすでに十分に吟味され適切な評価が終わり時代精神に摂取されています。

 (注)「社会的福音」とは十九世紀西欧のキリスト教界で叫ばれた社会問題への関心と実践を強調する様々な運動への総称。

 (注)新正統主義
 〈英〉Neo‐orthodoxy.バルト,ブルンナー,ゴーガルテン,トゥルンアイゼンなどを中心としてヨーロッパで始まり,やがてスカンジナビアのアウレーンやニーグレーン,イギリスのドッド,リチャードスン,ベイリ,ホスキンズ,アメリカのニーバー一族などによって国際的な広がりを見るに至った,20世紀の新しい神学傾向に対して,アングロ・アメリカの神学界が与えた名称.この運動は,内在主義と楽観主義に彩られた19世紀的リベラリズムを退け,神の超越性,人の罪性,神の恩恵のみによる救いなど,16世紀宗教改革の強調点を,従来の*正統主義のとらえ方ではなく,啓蒙主義後の近代的視点から新しくとらえ直そうとするところに特色を有している.

 しかし、キリスト教がまず何よりもまず「行動」であるという「社会的福音」派の基本的な確信はそのまま残り、実際新しい力を獲得しています。この観点からは現代のキリスト教はこの世を見失っています。「この世」が取り戻されなければなりません。それ故、キリスト教の伝道とは、道に迷ってしまったこの世に追いつくことです。「食べたり飲んだりする人」としての人間観は、非常にまじめに、ほとんどまじめすぎるほどに捉えられます。事実上「人間=飲食する者」だけがクリスチャンの行動の対象となります。私たちは「おまえたちは、瞑想や讃美に、沈黙や奉神礼に時間を使いすぎ、社会的、政治的、経済的、人種的な…、あらゆる現実生活の諸問題に十分な関心を示していない!」と四六時中悔い改めを迫られます。神秘主義や霊性に関する書籍に相当するのは「宗教といのち(=生活)」です。ないしは「宗教と社会」、「宗教と都市問題」、「宗教と性」です。しかし、そこでは、根源的な質問には答えられていません。私たちがハリストスのために再び獲得しなければならない、また私たちをクリスチャンとするこの「いのち」とは何か、また、言い換えれば、これらの行為や行動すべての究極的目的は何なのかという質問です。

 これらの社会実践的な目標の一つでも達成したとしましょう。「勝利」しました。しかし、何が?この問いはナイーブすぎるように見えるかも知れません。しかし、人は行動の意味ばかりでなく、そのために行動する、まさに「いのち」の意味について知らずして、実際に何もすることはできません。人は「食べたり飲んだり」します。人は「生きる」ために、いのち(=生活)の充実のために、自由と正義を旗印に戦います。しかし、いのちとは何でしょう?生活そのものの「いのち」とは何でしょう?いのちの永遠の内実は何でしょう?突き詰めて考察すれば、「行動」は、その内にもそれ自体としても、何ら意味を持たないことを、見いださざるを得ません。すべての「委員会」がすべての仕事を終え、すべての書類が配布され、すべての実際的な目的が成し遂げられたとき、それは喜ばしいことに違いありません。しかし何について「喜ばしい」のか?…それを知らなければ、さきほど「霊的」な解決法に見たのと同じ、宗教と生活の二分法が残ります。私たちがいのち(=生活)を霊的にしようが宗教を世俗的にしようが、また「霊的な宴」に人々を招こうが単に世俗的な宴会に参加させようが、神がその為にその独り子を下さった、この世のほんとうの「いのち」は、絶望的に私たちの宗教的把握を超えたままです。

◆2

 「人間とは彼が食べるところのものである」。しかし、人は何を食べ、そしてなぜ食べるのでしょう。この問いは、フォイエルバッハにとってだけでなく誰にとっても、幼稚で無意味なものに思えるでしょう。彼の信心深い敵対者たちにとってはこの問いは一層無意味なものです。彼らにとっては、フォイエルバッハにとってそうであったように、食べることは物質的な機能にすぎず、大事なことは、この機能に加え霊的な「上部構造」を持てるかどうかということです。「宗教」はイエスと答え、フォイエルバッハはノーと答えます。しかし、両者は「霊的」と「物質的」という同じ基本的な対立を前提しています。「霊的」対「物質的」、「聖」対「けがれ」、「超自然」対「自然」、これが何世紀もの間、宗教的な思考と経験についての、唯一受け入れられ理解可能な範型と範疇でした。そして、フォイエルバッハは、その彼の唯物論全体によって、キリスト教的な観念論と霊性主義の当然の申し子だったのです。

 しかし、既に見ましたように、聖書もまた、飢えた者・「彼が食べるものであるところの者」としての人から始まっています。しかしながら、その捉え方は全く異なります。聖書にはどこにも、私たちには自明な枠組みであるこの二分法は、見あたりません。聖書では、人が食べる食物、すなわち人が生きるために参与しなければならないこの世は、神から「神との交わり」として与えられたものです。人の食物としてのこの世は、物質的な何かではなく、物質的な機能以上のものであり、だからこそ、それによって人々が神に関与しようと企てる表面的な「霊的機能」とは異なるもの、対立するものなのです。存在するものはすべて神の人への贈り物です。神を人によって知られ得るようにするため、また人のいのちを神との交わりにするための贈り物です。人に食物を与えいのちを与えたのは神の愛です。神はそのお造りになったものを何もかも祝福されます。聖書的な言葉で言うと、これは、神はすべてを「しるし」として、ご自身の存在と知恵、愛と啓示の手段としてお造りになったのです。「主の恵みふかきことを味わい知れ(詩編34:8)」。

 人は飢えた存在です。しかしそれは神への飢えです。私たちのいのち(=生命、生活、人生)のあらゆる飢えの背後に神への飢えがあります。すべての欲求は最終的には神への欲求です。確かに人だけが飢えた存在ではありません。存在するすべてのものが食べることによって生きています。全被造物は食物に依存しています。しかし、宇宙での人の独自の位置は、人のみが神から受け取った食物といのちを讃えるということです。人のみがその讃美によって神の祝福に応えます。エデンの園でのいのち(=生活)で重要なのは、人が様々なものに名を付けた事です。動物たちがアダムの助け手として創造されるや否や、神は動物たちをアダムの前に連れてきてどのように名付けるかを見守りました。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった(創2:19)」。さて、聖書では、名前は、あるものを他のものから区別する手段という以上の、決定的なものです。名前はものの本質を明らかにします。いや、むしろ神の贈り物としての本質を示すと言った方がよいでしょう。名付けることは、神がそのものに与えた意味と価値を宣言し、それらが神に由来すると知り、神に創造された宇宙での位置と機能を把握することです。

 あるものを名付けるとは、言いかえれば、そのもののため、またそのものに於いて神を賛美することです。そして、聖書では神を賛美することは「宗教」的・儀式的なことではなく、まさにいのちのあり方そのものでした。神はこの世を祝福し、人を祝福し、第七日(すなわち時)を祝福しました。これは、神は、存在する一切をご自身の愛と善であふれさせ、すべてを「はなはだよい(創1:31)」ものとされたことを意味します。ですから、神がこの祝福され(bless)聖別されたこの世を与えた人間の自然な応答は、今度は逆に神を讃え(bless)感謝し、神がご覧になったようにこの世を見、この感謝と讃美の行為の中で、この世を知り、この世を名付け、この世を己のものとすることです。他の被造物から人を区別する理性や霊性や他の諸性質は皆、神を讃え、人のいのちを成り立たせる渇きと飢えの意味を知る能力のために集約されてこそ、究極的な完成に至ります。ホモサピエンス(知性人)、ホモファーベル(工作人)…、確かにそうでしょう、しかし何よりもまず「ホモアドランス」(賛美するもの)です。第一の、基本的な人の定義は、人とは「司祭」である、ということです。彼はこの世の中心に立ち、神への讃美と神からこの世を受け取りまた神にそれをささげるという行為を通じてこの世を一つにします。そして、この世を感謝(ユーカリスト)で満たし、この世から受け取った彼自身のいのちを、神にあってのいのちに、神との交わりに変容します。この世は、「もの」、一切を包含する一つのユーカリスト(感謝・聖体機密)の素材として創造されました。人はこの宇宙的な機密の司祭なのです。

 人はこれらを皆、理性によってでなく、まず本能的に理解しています。世俗主義の何世紀かは、食べることを厳密に有機体の功利的・機能的な行動に変えることに失敗してきました。食物は依然として鄭重に扱われます。食事は今なお儀式です。家族や友情のための、食べたり飲んだりすること以上のいのち(=生活)のための、最後の「自然的な機密」です。食べることは未だに身体の機能を維持するため以上のものです。人々はこの「以上のもの」が何かを理解していないかも知れません、しかし、それでもなお、彼らは食事を「祝い」たいと望みます。彼らは今なお機密的生活に飢え渇いているのです。

◆3

 したがって、聖書の陥罪の物語が食べることをめぐって展開されるのは偶然ではありません。人は禁じられた果実を食べてしまいました。あのたった一本の木に実る実は、それが何か他のものを意味しているにせよ、園の他のすべての果実とは異なっていました。それだけは、人への贈り物ではありませんでした。神から贈られ祝福されたのものでなかったので、その実を食べても、それ自体とは交わっても、神との交わりにはなりません。したがって厳しく禁じられていたのです。アダムとエヴァのこの背きは、神との交わりへの指向を欠いた、それ自体のために愛される、この世のイメージです。この実を食べることは、いのち(=生命、生活)をそれ自体目的として生きる生活のイメージです。

 愛することは容易なことではありません。人は神の愛に立ち帰ることを選びませんでした。人はこの世を愛しました。ただ、そこから神を透かして見るものとしてでなく、それ自体を目的として。人は一貫してそうしてきたために、それが何か当たり前のことのようになってしまいました。この世を、そこから神の存在が放射されてくるものとしてでなく、それを覆い隠す不透明なものとしてこの世を経験することが自然なこととなり、いのち(=生活)をこの世という神の贈り物への感謝として生きないことがあたりまえになりました。

 人から、神が一切であるという意識が脱落(fallen)してしまったとき、この世は堕落(fallen)してしまいました。この神への軽視の蓄積が、この世を不毛なものとする「原罪」です。そして、この堕落したこの世では、宗教でさえもそれを癒し救い出すことはできません。なぜなら、宗教は、神を、「汚れた」この世に対立する「聖なる」(=霊的な、超自然的な)領域に閉じこめてしまうことを容認してしまっているからです。神からこの世全体を奪いとろうと試みる、一切を覆い尽くす「世俗主義」を受け入れているのです。

 人のこの世への自然な依存は、そこにすべてのいのちがある神との交わりへの絶えざる変容に、差し向けられています。人はユーカリスト(感謝)を行い、神にこの世をささげ、この献げものに於いていのちの贈り物を受け取るという「司祭」でなければなりませんでした。しかし、堕落したこの世にあって人はこの司祭の能力を持っていません。人のこの世への依存はそれ自体の中に閉じこめられ、人の愛は真の方向から逸脱してしまっています。人は今なお愛します。そして今なお飢えています。人は、自分が自分を超えた何ものかに依存していることを知っています。しかし、人の愛と依存は、それ自体としてのこの世に関わるだけです。人は「食べること」がその生理的な意味以上の、神からのいのちの受容であり得ることを悟りません。この世…その空気や食物は、それ自体としてはいのちをもたらさず、それらが、神のために、神に於いて、また神のいのちの贈与として受け取られてはじめて、いのちをもたらすことを忘れています。

 この世が自己目的化されたとき、すべてのものはそれ自体として価値があることされ、したがって一切の価値を失います。なぜなら、神にあってのみ、一切は意味(=価値)を見いだされ、神の臨在の「機密」であるときにのみ、この世は意味に満ちたものとなるからです。神に於いてのみいのちを持つのですから、単にそれ自体として取り扱われるものは自らを破壊してしまいます。自然界は、そのいのちの源泉から切り離され、死の世界となりました。食物それ自体をいのちの源泉と考える者にとって、食べることはこの死んだこの世との交わりであり、死との交わりです。食物それ自体は死んでいます。かつて生きていたいのちにすぎず、死体と同じく冷蔵庫に保存されねばなりません。

 なぜなら、「罪の支払う報酬は死である(ロマ6:23)」からです。人が選択したいのち(=生活)は、いのちの外観だけにすぎません。神は人に告げました。人が、彼自身とパン(食物)がそこから生じた地に帰って行くためだけに、パンを食べることを選択してしまったと。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る(創世記3:19)」。人はユーカリスト的(=感謝の)生活を喪失してしまいました。いのち(=生活)自体のいのちを失いました。いのち(=生命、生活、人生)を「いのち」へと変容する力を喪失したのです。人はこの世の司祭たることを止め、その奴隷となってしまいました。エデンの園の物語では「日の涼しい風の吹く頃(創3:8)」すなわち夜にこれが起こります。そして、そこでは、いのち(=生活)はユーカリスト的(感謝をもって神にこの世をささげる)であるべきだった「園」を、アダムが去ったとき、彼はこの世全体を闇に導いたのです。ビザンティン聖歌の美しい一節では、アダムは園の外で園に向かって泣いていると描写されています。人の姿です。

◆4

 ここで「食物」の主題を一時中断してもよいでしょう。食物の主題から始めたのは、「機密的」とか「ユーカリスト的」という用語を、いわゆる教科書的神学の長い歴史の中でつけ加わった「意味内容」から解き放たねばならなかったからです。教科書的神学ではこれらの用語は、ほとんどが、「自然」対「超自然」、「聖」対「汚れ」という枠組みの中でのみ捉えられてきました。それは同時に、宗教と、人生を究極的に救いがたく無意味にする「生活」の、対立でもあります。しかし私たちがこれまで見てきたところによれば、原罪とは単に人が神に服従しなかったという事ではありません。罪は、人が、神に対してまた神のみのために「飢える」ことを止めてしまい、人のいのち(=生活)全体が、神との機密的交わりとしてのこの世全体に依存しているとしなくなったことにあります。罪は、人がその宗教的義務を怠ったことではありません。罪は、人が神を「宗教的に」考えるようになった、すなわち神をいのち(=生活)と対立させて考えるようになったことです。人の唯一の真の堕落とは、非ユーカリスト的なこの世での非ユーカリスト的いのち(=生活)です。堕落とは、「霊的」なこの世と物質的なこの世の均衡を見失って、神よりもこの世を愛したことではなく、人が、意味と息吹き(spirit)に満ちた「神に於いてのいのち」へと変容させるべきだったこの世を、反対に「物質的」にしてしまったことにあります。

 しかし、キリスト教の福音は告げます。神は人を、混乱した渇仰にあえぐ窮地での彷徨に、捨て置かなかったと。神は人を「自分の心にかなう(イサイヤ13:14)」ようにまたご自身のために創造されました。人は彼の中にある捉えがたい飢えへの答えを見いだそうと、その自由の中でもがき続けてきました。この人の根源的な未成就感の中に、神は決定的なみわざをなさいました。人々が楽園を求めて手探りする闇の中に、神は光を送り込んだのです。神がそうされたのは、救済のため、また失われた人を回復するためではありませんでした。むしろ、それは、そもそもの最初に神が始められたことを完成するためでした。神は、人が、神ご自身が実は誰であり、人の飢渇感が指し示しているものは何であるのかを理解させるために、そうされたのです。

 神が送り込んだ光とはご自身の独り子でした。はじめから、この世の闇の中に消しがたく輝いていた光が、今やはっきりとその光輝を現したのです。

 ハリストスが到来する前に神は人にそれを約束していました。神はいろいろな方法を用いました。イスラエルの預言者たちばかりでなく、様々な方法で神は人に伝えてきました。クリスチャンとして私たちが信じているように、神と人との両者として「真理」であるお方は、多くの断片的な真理を通じて、その藉身を預象していました。私たちはまた、真理を追い求める者には誰にでもハリストスが臨在していると信じます。シモーヌ・ベイユは「ハリストスからできるだけ早く駆け去ろうとしても、それが彼が真理と考えるものへ向かってなら、実は、彼はハリストスの腕の中に向かってまっすぐ走っているのだ」と言いました。

 神の真理が諸宗教の長い歴史の中に明らかにされてきたというのは一層確かなことです。それは、ハリストスという真の基準を持つクリスチャンには、容易に知ることができます。人の熱望に形を与えてきた偉大な諸宗教では、神は調子が外れたオーケストラを通じてご自身を示されますが、ときにそれは素晴らしい豊かな音楽を奏でることもあります。

 キリスト教は深遠な意味に於いて「すべての宗教の終わり」なのです。井戸のほとりでのサマリヤ女との対話でイイススはこれを明らかにしています。
 女はイイススに言います。
 「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
 イイススは女に言われました。
 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。(イオアン4:19-21、23)

 彼女は礼拝について主に質問しました。イイススはそのお答えによってその問題についての捉え方全体を変えられました。新約聖書のどこを探しても、実際、キリスト教が礼拝、または「宗教」として示される箇所はありません。宗教は神と人とが壁によって隔てられているところで必要となるものです。しかし、神であり人であるお方ハリストスはこの人と神との間の壁を打ち破って取り去りました。ハリストスは新しい「宗教」ではなく新しい「いのち」を開始されたのです。

 初代教会が異教徒たちから「無神論者」と告発された理由は、まさに、この通常の伝統的な意味での「宗教」から彼らが自由であったことです。クリスチャンたちはいかなる「聖なる系図」にも「神殿」にも「秘儀」にも関心がありませんでした。イイススが生活したそこかしこの場所には格別の関心は払われませんでした。巡礼といったものもありませんでした。古い宗教は何千もの聖地や聖なる神殿を持っていましたが、クリスチャンにとっては、それらは過去のものにすぎませんでした。石を積んで造られた寺院は不要でした。ハリストスのからだ、教会それ自体、ハリストスの内に集まった新しい民、これが唯一の真の神殿でした。

 「この神殿をこわしたら私は三日のうちにそれを起すであろう…(イオアン2:19)」
  教会そのものが新たなる天上のエルサレムだったのです。対照的なことに、エルサレムにある教会は特別重要なものではありませんでした。ハリストスが到来し臨在するという事実は、彼が遍歴したあちこちの場所よりはるかに重要なことでした。ハリストスの歴史的現実性はもちろん議論の余地なく初代教会の信仰の基盤でした。しかし、彼らはハリストスを思い起こすというより、むしろハリストスが彼らと共におられることを知っていたのです。そして、ハリストスの内にすべての宗教が「終わり」ました。なぜなら、ハリストスご自身があらゆる宗教の、またすべての人の神への渇仰の「答え」であったから、また彼に於いて、人によって失われ、諸宗教の中に象徴的に表され意義づけられ探求されてきた「いのち」が人へと回復されたからです。

◆5

 この書(「世のいのちのために」SVS press ここに訳出したのはその第1章)は系統だった神学の論文ではありません。ハリストスによって与えられた「答え」のすべての面と含意を網羅しようとするものではありません。また、万巻の「神学」や「教義学」の書物によって蓄積された睿智に何か付け加えようなどと大向こうを張ろうとするものでもありません。この書の目的は謙虚なもので、ハリストスにあって「いのち」(その全体性としての「いのち」)が、人に回復され、機密と交わりとして与え返され、ユーカリスト(=聖体機密)として現前化されたことを、読者の皆さんに思い起こさせることです。さらに、それがこの世で行われている私たちの伝道にどのような意義を持つものかを明らかにすることにあります。

 西欧のクリスチャンには「機密」を「み言葉」と対立させて考え、伝道を「み言葉」とは結びつけても「機密」とは結びつけない傾向があります。彼らは、さらに、機密を、「教会の」また「教会の内の」、本質的なはっきりと定義された部分や制度や行動として考察することに慣れきってしまい、教会がそれ自体としてハリストスの臨在とみわざの機密であることを見過ごしています。その結果、彼らは、もっぱら、諸機密についてのある種の非常に形式的な質問に関心を寄せるだけになってしまいます。いわく、機密の数は?機密の有効性は?機密の制定は?…。この書の目的は、機密に対するこれらとは異なった捉え方やアプローチが存在し、ないしかつて存在していたことを示すのにあります。そして、このアプローチは、伝道への、この世へのハリストスの証しへの燃えるような議論にとって決定的に重要なことなのです。なぜなら、基本的な質問は「私たちは何を証すのか?」ということです。私たちは何を見、この両手で何に触れてきたのか?私たちは何にあずかり、何を領聖するのか?私たちは人々にどこで呼びかけるのか?私たちは彼らに何を提供できるのか?

 この書は、正教徒によって書かれ、正教会の捉え方によって叙述されています。しかし、決して正教についての書物ではありません。少なくとも、現在既にある正教についての書とは異なります。現在、正教自身すらが受け入れてしまっている、西方教会の側の東方へのアプローチが存在します。そこでは普通、正教会は、神秘主義や「霊性」としてだけ、すなわち「霊的な宴」に飢え渇いている人々にとっての頼りになる故郷としてのみ紹介されています。正教会は、奉神礼的、機密的な教会として位置づけられ、伝道には無関心なものとされてきました。しかし、これは皆間違いです。正教会自身がその「機密主義」のほんとうの意味を余りにもしばしば見落としてきましたが、その基本的な意味は無味乾燥な「行動」によって成り立つ「この世」から無時間的な「霊性」のなかに逃げ込むことではありません。筆者がここに展開し読者と分かち合いたいのはその真の意味なのです。

 美しい聖堂での徹夜の祈り、聖像の群、十字行、正しく執行されるためには少なくとも二十七巻の重たい祈祷書が必要な奉神礼、これらは皆、これまで「宗教の終わり」としてのキリスト教について述べてきたことに矛盾するかのようです。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか?もし、そうでないなら、私たちが生きる現実の「この世」、神がその独り子を贈られたこの「いのち」のために、これらすべてはどんな意味を持つのでしょうか?