名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

主の十字架と復活

アレクサンドル・シュメーマン神父
「ニケヤ・コンスタンティノープル信経」へのコメンタリより

は現代の正教奉神礼神学の代表的碩学

十字架に釘うたれ…

 神は、人・イイススとして、私たちのもとに降りて来られ、ご自身と私たちを結びつけ、そのはかりしれない愛をあきらかにし、私たちのために、愛と光の永遠の王国の入り口を開いて下さいました。
 ところが人々はイイススを受け入れず拒絶いたしました。福音記者神学者イオアン(ヨハネ)は言っています。

 「彼は自分の所にきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(イオアン1:11)

神は「天より降り」ました。そして、何と「十字架に釘うたれ」ました。
 神は「身をとり」ました、そして、何と「苦しみを受け」ました。
 神は「人となり」ました、そして、何と殺され「葬られ」ました。
 信経が告げるこの両極の対照、愛に対する憎しみ、厚遇への拒絶、恵みとその拒否、ここにクリスチャンの悪への理解、いやむしろ悪への意識、悪の体験が明らかにされます。そして、同時に、ここにこそ、ハリストスの悪への勝利、悪の破砕の体験が明らかにされるのです。
 
 なぜ、ハリストスは拒絶されたのでしょう?「十字架につけよ、十字架につけよ」(イオアン19:6)という群衆の叫びでそのクライマックスに達する、膨らみ続けていった憎しみは何に根ざしていたのでしょう?ハリストスが人々の前に姿を現したその瞬間から、そのすべてのわざ、すべての説教は一貫した愛と善と苦しみの分かち合い、そして憐みの受肉ではなかったのでしょうか?
 ハリストスはご自身について、古い預言者の言葉を用いて次のように言いました。

「主の(み霊)がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えるために、わたしに膏けて(聖別して)下さったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれているものに自由を得させ、…」
     (ルカ4:18、イサイヤ61:1、2参照)
 
 町や村を巡り歩くとき、人々の群が主について行きました。病人や苦しむ者たちを主のもとに連れてきました。彼らは主の言葉に耳を傾けました。愛と深い傾倒をもって主を取り囲んでいるとしか見えませんでした。その彼らは一体どこに行ってしまったのでしょう?祭司長、そしてピラトの前に、主が立っておられたとき、またローマ兵が主を打ち、嘲ったとき、彼らが主の手と足に釘を打ち付け十字架に張りつけたとき、彼らはどこにいたのでしょう?もしかしたら、これは実は同じ群衆、同じ人々ではなかったのでしょうか?
もし同じ人々だったとしたら、彼らの愛はどのように憎しみに、彼らの傾倒はどのように拒絶に変化したのでしょう?ピラトでさえ「わたしは彼には何の罪も見いだせない」(イオアン19:6)と断言しているのに。
 イイススの隣で十字架にかけられた犯罪人も「このかたは何も悪いことをしたのではない」(ルカ23:41)と言いました。
 しかし、何としてもこの男を地上から抹殺したい、殺してしまいたいという恐るべき憎しみの圧力の前には、すべてが無力でした。
福音書が伝えるその間の説明は、私たちが福音書にじっと耳を傾け、思いめぐらし、その隅々まで自分のものとしたとき、始めて明確となります。人々はハリストスを拒絶し、憎み、十字架に釘うちました。これは、何か特定の理由によってではありません。ピラトに対して、ユダヤ人たちから中傷的に告発された、でっち上げの犯罪によるのではありません。ピラト自身は、ハリストスを屈辱的で恐るべき死に定めはしたものの、人々の嘘と中傷を見抜いていました。ハリストスの十字架刑は、何か人々の誤解や偶然によるのではありません。断じてありません。ハリストスは彼の善、彼の愛、彼から輝き出る人々が耐え得ない眼もくらむような光によって、十字架に釘うたれたのです。自分たち自身すら気づいていない、自分たちの人生の基調「悪」を、主があらわにする故に、人々はそれに耐えられないのです。
 堕落したこの世が恐るべきものであるのは、「悪」がそれを支配しているばかりでなく、悪が仮面の中に隠れて何か善いものであるかのように振る舞っていることです。悪は善として己れをふれ回ることによって、この世における勝利を宣言しています。この、私たちの時代においても、人々が奴隷状態にされ、殺され、欺かれ、だまされ、虐殺され、滅ぼされるのはいつも、善の名によってであり、自由の名によってであり、人類への貢献の名によってであります。あらゆる悪は、こう叫びます。
 「私は善である」
 そして叫ぶだけでなく、人々にもそれに応え絶え間なく叫ぶことを求めます。
 「あなたは善、あなたは自由、あなたは幸福です!」と。

 悪がもしその正体をあらわに示しているなら、悪には何の力も何の勝利もありません。悪は、善を装うことによって、欺きを通して、この世を征服いたします。私たちは、この欺きに励まされ、憎しみ、殺人、隷属、虚言、狂気を正当化します。ハリストスがあらわにし、克服したのはこの欺きです。彼は、言葉によってだけでなく、まずご自身を通して、ご自身のありかた、ご自身がそこにいるということを通じて、欺きをはぎ取り、悪をあらわにしたのです。ハリストスは証人です。そして、犯罪者はだれでも、その見せかけを守るために、証人を逆に犯罪者として粛正しようと企てます。

 「ヘロデとピラトは、以前は敵視していたがこの日に(まさに主の断罪と殺害の日に)親しい仲になった」(ルカ23:12)。

 福音記者のこの簡潔な観察には悪の恐るべき真実の一切が含まれています。
 
 そうです。人々はハリストスが助けてくれ、癒してくれ、奇跡を行ってくれる限りでは、彼に従いました。そして、同じ人々が、主を見捨て、「彼を十字架にかけよ!」と叫んだのです。彼らは、悪の恐るべき直感によって、この完全な人物、完全な愛のうちに、自らの真の姿が白日の下にさらされることを知っていたのです。主の愛を通して、主の完全さを通して、彼らが望んではいない生き方を、すなわち「愛、真実、完全さを生きなさい」と求められていることを知っていたのです。彼らはそれに耐えられませんでした。この「証人」は沈黙させ、抹殺しなければなりませんでした。

 十字架と主の磔刑のほんとうの意味と深さはここにこそあります。この悪の見せかけの勝利の中に。しかし、勝利者は実は善でした。
 なぜなら、善の勝利はまさに、悪が悪としてあらわにされるという、この地点から始まるからです。
 司祭長は自分が嘘をついていることを知っていました。
 ピラトは完全に無罪の人間を自分が死罪に定めたことを知っていました。
 そして、時を追い、一歩一歩、悪がその恐ろしい勝利に近づくにつれて、善の勝利の輝きが燃え始め、明るさを増していきました。その勝利はついに、主の隣に釘つけられた犯罪人の痛悔の言葉に、また、刑を執行した百夫長の言葉にあきらかにされ、私たちの耳に達します。

 「まことにこの人は神の子であった」
           (マトフェイ27:54)

 十字架上で死んだお方は、彼の証言を全うしました。そして、それを通じて、その内側から、悪は破壊されたのです。なぜなら、悪は悪として永遠にあらわにされたからです。
 十字架は、釘つけられたお方の死と復活によって成就される勝利の始まりなのです。

苦しみを受け

信経は、ハリストスが「苦しみを受け…」と告白します。しかし、そもそも十字架には苦しみがともなうのですから、この言葉は、内容的に「十字架に釘うたれ」と重複していないでしょうか?
 この疑問には次のように答えられます。
 「十字架に釘うたれ」と言うとき、私たちは、まず主を十字架に釘つけた人たちについて語っています。悪について語っています。十字架と主の磔刑によって表わされた、一見して明らかな悪の勝利について語っています。しかし、ハリストスの十字架は悪を悪としてあらわにし、悪からその仮面を剥ぎ取り、悪の打倒への第一歩をしるしました。
しかし、「苦しみを受け」と言うとき、私たちはハリストスご自身について語っているのです。今度は、私たちの内面の眼差しを、十字架につけた者でなく、十字架につけられたお方に向け、焦点を合わせなけばなりません。
 もし、異端者たちが言うように、ハリストスが十字架上で苦しまなかったら、肉体的また感情的な苦しみを受けなかったとしたら、世界を救う救主ハリストスへの私たちの信仰はまったく異なったものになっていたでしょう。これが、私たちが、「自由の苦しみ(自発的な苦しみ)」という主の救いの本質への信仰に固執する理由です。ハリストスはご自身を、最も恐ろしく理解しがたく逃れ難いこの世の法則「苦しみの法則」へと投げかけられたのです。

 この世が苦しみに満ちている証拠には事欠きません。肉体的また精神的苦痛、あらゆる種類の痛みや苦しみが満ちています。また、しばしば、死への恐怖をしのぐほど耐え難く、自ら命を絶つほどの苦しみがこの世にはあふれています。
 しかし、この「苦しみの法則」が圧倒的で普遍的であるにもかかわらず、人がそれを受け入れようとしないことは、同様に明白な事実です。すべての宗教、哲学、イデオロギー、すなわち何千年にもわたって人類に示され続けてきた「処方箋」は、例外なく、苦しみからの解放、苦しみの終局を約束しています。個人主義と集団主義、宗教と無神論、保守主義と急進主義を問いません。そして、人々がこの約束を受け入れ、信じ、ある意味で人生のより所としている事実は、人間の意識の中に「苦しみは本来あってはならないもの」という抜きがたい確信があることを明らかします。どこにでもあたりまえに存在することを「正常」なことと呼ぶなら、苦しみほど正常なものはありませんが、人はまさにこの正常さを「異常」と感じているのです。

 さて、ここで私は渾身の力を込めて言わなければなりません。
 古今東西の宗教や哲学やイデオロギーの中で、キリスト教だけが苦しみからの解放を約束しません。
 ハリストスはその活動のいっさいを人々の苦しみからの解放に費やしたにもかかわらず、

 「あなたがたはこの世ではなやみ(苦しみ)がある」(イオアン16:33)

 と言います。ハリストスは人々に苦しみからの癒しを与え、私たちにも隣人の苦しみを少しでも取り除いてやりなさいと教えながらも、決して一度も、「この世を苦しみから解放するために、苦しみに終止符を打つために、苦しみを一切取り除くために、自分はこの世に来た」とは言っていません。ハリストスは「みずからすすんで、自由に」、ご自身を待ち受けるものは何かを良く承知した上でエルサレムに上りました。そして、私たちが主に従い、ごくわずかな程度であれ、主の戒めの道を歩むなら、私たちも同じ苦しみを受ける、と予言しています。なぜでしょう?この明白な矛盾の意味は何でしょう?
 それはこうです。
 ハリストスがご自身の地上での生活でいつも「苦しみ」に出会い、憐み、癒し、助けるのは、私たち全てと同じく「苦しみ」を「正常」なものとして受け入れることができないからです。苦しみに対し、主は「深く心を動かされ」(イオアン11:33)ます。神は人を悩みや苦しみのためにお造りになったのではありません。喜びと豊穣な人生のためにお造りになったのです。ハリストスにとって、あらゆる苦しみは悪の勝利であり、「神の造られた世界」に本来あってはならない悪です。
 さらに悪の恐ろしさは、苦しみを、死とともに、何か正常なもの当たり前のものに変えてしまったことにあります。世界と人生のたった一つの法則にしてしまったのです。世界と人生を苦しみから解放する処方箋はありません。奇跡的な癒しや蘇生でさえもそれは不可能です。反対に、そういうものは苦しみの全能性と不可避性を強調し、異常なものが「正常」となっている恐ろしさを印象づけるだけでしょう。癒された者はいつかはまた病気にかかり、死にます。慰められ、幸福を与えられた者は、いつかはまた悲しみと人生の痛み、悪の勝利を思い知らされます。
 「この世ではあなたたちは悩みがある」。
 これをよく知って始めて、ハリストスが、そしてキリスト教が「苦しみ」の問題に与えた答えを理解できます。
 答えはこうです。苦悩は廃棄できません。
 それは堕ちたこの世では不可能です。
 ほんとうの答えは「苦しみそのものの勝利への変容」です。

 ハリストスはこの「変容」を、ご自身が苦しみを受け入れ、自らすすんでそれに服することによって完成しました。もし、私たちが、苦しまれたハリストスのイメージを鮮明に記憶していないなら、「苦しみの勝利への変容」という言葉には何の意味もありません。気取ったレトリックか自己慰安に過ぎないでしょう。
 この「ハリストスの苦しみ」は私たちに何を語っているのでしょう?
神の子、ハリストス、この地上に射し込んだ神の光輝であるお方が、私たちの苦しみのただ中に、人としての完全な苦しみ、最も恐るべき苦悩をもって、入って来られたということです。ハリストスは、私たちとともに、私たちのひとりとして、さらに人間性のただならぬ深みで、苦しみ抜かれました。受難を前にした、ゲッセマネでの、主のご様子を福音記者マルコは、

 「恐れおののき、また悩み始めて彼らに言われた『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』」          (マルコ14:33)

 と伝えています。
 このように、主ご自身が私たちと「ともに苦しむ」ことにより、私たちは、私たち自身の苦しみを、主と「ともにする苦しみ」へ変容し、さらに霊的な戦いと勝利へと変容する可能性をあたえられました。苦しみは無意味と不条理の勝利であることをやめ、ハリストスにより、信仰と愛と希望と、そして「意味」に満たされたのです。生命の崩壊としての苦しみはハリストスによって真正なる霊的生活への再生の可能性へと変えられました。
 今私は「可能性」と言いました。なぜならハリストスの苦しみという救いのわざは魔法ではないからです。人間的な思いからは、この可能性を現実に変えることほど、困難で不可能と感じられるものはありません。

 現実の私たちは、今なお、神・ハリストスに、私たちの苦しみを終わらせてくれることをこそ望み、この「変容」は望んでいません。ハリストスが癒す方であり苦しみを終わらせる方であったとき群衆が主に求めたものを、私たちも求めてやみません。
 しかし、それでも、ハリストスは苦しみを、ご自身のためにも私たちのためにも、取り去ってしまうことはありませんでした。かえってハリストスは、私たちを、はかり知れないほど偉大な何物かにふさわしいものとお見なしになっています。主の苦しみを身に引き受け、ともに苦しみ、その苦しみこそが苦悩の破壊的な力を打ち破ると認め、信仰・希望・愛に突入し、聖神(聖霊の日本正教会訳)の勝利、神の国への入城を確信できる者として、見なしました。
 「わたしの力は弱いところに完全に現れる」              (コリンフ後12:9)

 私たち自身の周囲を注意深く見回してみるなら、次のように確信できると思います。もし世界に真正なる精神性の勝利、信仰の、愛の、希望の勝利、ハリストスにある人々の勝利があるなら、これらはすべて例外なく、ハリストスの苦しみの勝利、ハリストスとともに苦しんだ者たちの勝利でしょう。
 私がここで、不充分な、かえって意味を貧しくしてしまう、限りある人間の言葉で、敢えて、お話ししてきたことの一切が、信経のたった一言「苦しみを受け」に凝縮され、永遠に光を放っているのです。

…葬られ

信経は、ハリストスが十字架につけられ、苦しみを受けたことを告げるのに引き続き、主は「葬られた」と宣べます。なぜこの言葉が使われるのでしょう。「死んだ」とあるべきではないでしょうか?埋葬は明らかに死が前提です。しかし、人間と世界の救済が成就した主イイススの一連の出来事を数え上げるに際し、教会が「死んだ」とは言わず「葬られた」と言うのは決して偶然ではありません。この問いに答えることは、キリスト教信仰のまさに中心にある最も重要な問題にふれることとなるのです。

次のように言えるでしょう。
 死は未だに、私たちのこの世での生命に結びついており、その終局での核心的出来事であり続けます。生理的現象としての死は、いわゆる「死後の世界」を信じていようがいまいが、議論の余地なく自明のことです。
 ところが、死者の葬りは、既に、死そのものでなく、それに引き続くものに関わっています。埋葬を行う者たちがどのように死と関わっているのか、死についてどう考え、どう信じているかを示します。
 ある人々にとっては、埋葬は永遠の別離の儀式です。そこでは、「死の最終性」が、すなわち死は絶対的な終わりであり、人間が元来そこからやってきて、最後には容赦なくそこへ帰らなければならない「非存在」への帰還であることが承認されます。この別離の儀式は、多かれ少なかれ、厳かに、弔辞や花に飾られて執行されますが、それらは、厳かな外見にもかかわらず、葬儀のそこかしこに浸み通っている、「一人の人間が生き、そして死んだ」という絶望と無意味さの感触を、少しも和らげることはできません。
 「…終わり。」です。
 別の人々にとっては、埋葬は墓の向こう側の世界への信仰の表現です。例えば、古代の異教の儀式では、死者と共に食物や武器が墓に納められ、場合によっては死者の妻が殺され一緒に埋葬され、夫の死後の生活に伴われました。この類の埋葬は、はるか昔に子供っぽいナイーブな迷信として捨て去られましたが…。しかし、いずれにせよその様々な方法を通じて、埋葬は人間の死についての理解の宣言なのです。

 そこで、教会は、信経の中で、ハリストスの死ではなく埋葬について告げることにより、ハリストスの死の特別な意味を私たちに喚起しているのです。
 毎年教会は、復活祭の前日、聖大土曜日に、この埋葬を再現し、イイスス・ハリストス神の子が死を受け入れ、死に降り、死に浸されたとき、彼の死によって成就されたものを一層明らかにします。

 聖大金曜日、十字架と死の日、ハリストスに襲いかかった悪の力がすべてあらわにされた日、この日を終えて、教会は聖大土曜を迎えます。聖堂の中央には「墓」と称せられる木製の台が置かれ、死んだハリストスが描かれた覆い(「眠りの聖像」)がかけられています。この土曜日、その深さと光と純粋な孤独において他に類のない一日を、聖堂に集い祈りを共にした人なら誰でも、次のような体験をいたします。他のあらゆる墓と同じく死の不可避性、死の勝利を告げるこの「墓」から、一種の目に見える光、いやむしろ触れることさえできる光が射し始め、やがてこの墓が、教会が歌い上げるように「生命を与える墓」へと変容してゆくのを、単に知性的な理解によってではなく、私たちの人間存在全体で体験的に知るのです。そこでは確かに、死が、この微動だにしない死体、命を失った男を完全に支配しているように見えます。すべてが終わりました。
 しかし、「墓」の前で、死と向かい合って行われる、この奉神礼の意味、深さ、較べもののない美しさは、、この一人の男の、一つの死の、前例のない新しさが次第に明らかになってゆくところにあります。
 「ああ、『生命』よ、あなたが死ぬとはどう言うことなんだ?あなたが墓に納められたとは何なんだ?」
 私たちは墓に横たわるハリストスに問いかけます。
 やがて答えは与えられます。泣き叫び当惑し絶望する、主の母へ、全世界へ、全被造物へ、この日歌われるすばらしい数々の聖歌は、ハリストスの答えを告げているかのようです。
 「母よ、あなたにはわからないのか、あなたたちは皆理解しないのか。わたしには、かつてアダムとエヴァという二人の友があった。私がもう一度やってきたとき、彼らの姿はこの地になかった。彼らを愛するあまり、私は彼らが閉じこめられている所まで降りていった。死の暗黒と恐怖と絶望のただ中へ」と。
 たしかに、奉神礼の中で、この主の答えは、現代人にとってはひどく大げさで子供っぽくさえ感じられる修辞やイメージやシンボルで、まるで物語のように語られ、表現され、歌われています。しかし、この成し遂げられた驚くべき新しさを、他にどのような方法で、はっきり示すことができるでしょうか。福音が「命」と呼ぶお方、…「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった」(イオアン1:4)、この命であるお方ご自身が、あふれ出る愛によって人間と苦しみを分かち合うべく、死へと降って行かれました。このお方が造りだしたものでも、責任があるものでもないのに、世界を支配し命を毒している「死」へと降ってゆかれたのです。死は命を窒息させます。しかし、ハリストスの死に於いては、死は命によって息の根を止められたのです。死の暗黒と陰の中に、死の恐怖と孤独の中に、一つの光が燃え出しました。
 「『生命』は眠る。死は恐れおののく」と教会は歌います。
 聖大土曜日の早課で、いまだ全くの暗闇の中を、私たちは「墓」を担い教会の周囲を行列を組んで回ります。その時、私たちが聞くのは、もはや葬送の哀歌ではなく、凱旋の歌です。
 「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ!」
 ハリストスは死の王国へ進軍し、死の虜たちに告げます。
 「この国の支配は終わった」と。
 この時から、あらゆる死は、いまだに、どんなに恐ろしく悲しくおぞましいものであっても、内側から打ち倒されたのです。ハリストスがご自身の内に、死を受け入れ、死に苦しみ、死を克服されたからです。

 「死は勝利に呑まれてしまった」
            (コリンフ前書15:55)

とパウェルは言います。
 私たちは今や、あらゆる死者の墓の前で「葬送の哀歌は凱旋の歌に変容した、アリルイヤ!」と歌うのです。
 信経の「…葬られ」は、ハリストスが死をご自身の使命としてお受け入れになり、愛という生命で、信仰という生命で、希望という生命で満たされたことを告げています。
 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」。 
             (コリンフ前15:55)

 死は私たちすべてを待ち受けています。しかし、この「葬られ」という言葉で、教会は、死に於いて私たちはハリストスと出会うこと、そして主は、私たちの死を「復活」への道の入り口でのご自身との出会いへと変容することを、宣言しているのです。

…第三日に聖書にかないて復活し、

 ニケヤ・コンスタンティノープル信経は、主の、十字架、葬りに続いて、三日目の復活への信仰を表明します。これは、信経の条項のなかで、最も大切なものであり、キリスト教の中心的宣言です。聖使徒パウェルは次のように言っています。

 「もし、ハリストスがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなた方の信仰もまたむなしい」
(コリンフ前15:14)

 これは、今日でもなお、キリスト教の基本です。
キリスト教はつまるところ、ハリストスは墓の内に留まり続けず、死から生命の光が輝き出したこと、ハリストスの復活によって、誰も逃れることができない絶対的・非妥協的な「死の法則」が引き裂かれ、内側から投げ捨てられた、という信仰です。

 ハリストスの復活は、まさに、信仰の核心であり、「福音」を成り立たせるものです。しかし、今日のキリスト教とクリスチャンの実際の生活の中では、奇妙なことに、ほとんど位置を占めていません。復活への信仰はかすんでしまいました。今日のクリスチャンは、表面上は復活を否定することはありませんが、実際は、復活をまともに取り上げることを何とか避けようとしています。初代教会の信徒たちが「復活」によって生きたようにはもはや生きていません。
 たしかに、現代のクリスチャンも教会へ行けば、教会の礼拝から鳴り響く誇らかな喜びに満ちた宣言に耳を傾けます。

 「死をもって死を滅ぼし」(復活のトロパリ)
 「死は勝に呑まれたり」(コリンフ前15:54)
 「生命は凱旋し、死者は一人も墓にあらず」
      (復活祭早課金口イオアンの説教)

 しかし、現代のクリスチャンに「正直なところ、あなたは死についてどう考えているのですか?」と質問すると、しばしば(悲しいかな!きわめてしばしば)、彼の口から、キリスト教以前の漠然とした「霊魂の不滅」という考えや、墓場の向こう側の世界「あの世」での霊魂の生活について聞かされます。最悪の場合、戸惑いのあげくに単なる無関心が暴露されます。
 「わかってるでしょう、実のところ『それ』については考えたこともないんですよ」。

 しかし「『それ』について考える」ことはとても大切なことです。なぜなら、キリスト教の信仰は、単に「霊魂の不滅」ばかりではなく、ハリストスの復活と、この世の終わりの時での私たち全ての復活(「普遍的な復活」)を、信じるか否かにかかっているからです。ハリストスが復活しなかったなら、福音は詐欺です。恐るべき欺瞞です。しかし、ハリストスが復活したのなら、キリスト教以前の「霊魂の不滅」についての考えや信仰は根本的に改められなければなりません。いや、むしろ、取り除かれ、死の問題全体を根本的に異なった光の中でとらえ直さなければならないでしょう。なぜなら、「復活」は、まず第一に、死の現実を認めることと、他の宗教の見方とまったく異なった、むしろアンティテーゼとも言える死の理解を前提しているからです。

 はっきり言うと、「霊魂の不滅」への古くからの信心は、「復活」への信仰とはどうしてもなじみません。復活は霊魂のことだけでなく体のことでもあるからです。福音書をざっと読むだけでそれは明快にわかります。福音書の伝えるところによると、弟子たちは、よみがえったハリストスに会ったとき、幽霊の出現だと思いました。その時主がまず最初に行ったのは、ご自身のよみがえった体が現実のものであることを、弟子たちに感覚的に納得させることでした。主は食物を手に取り、彼らの目の前で食べて見せました。疑い深いフォマにご自身の体に触れることを命じ、復活を確信させました。そして、弟子たちがひとたびこれを信じて以来、彼らの宣教の主題であり、力であり、喜びであるものは、まさにこの「体」をもっての復活とその現実性でした。教会の中心的機密は領聖ですが、これはパンとぶどう酒を復活した主の体と血として領けることであり、この行為を通じて「我の死を伝え、我の復活を認め(「聖大ワシリイの聖体礼儀」祝文:コリンフ前11:26参照)」ます。

 キリスト教のもとへ来る人たちは、思想や教理を求めて来るのではありません。この復活を信じたい、この「よみがえった師」を体験したい、知りたい、とやって来るのです。さらに、彼らは、ハリストスの復活への信仰を通じて、「普遍的な復活」の信仰を受け入れます。この世界の究極的な終わりとしての「死」が捨て去られ、打ち壊され、絶滅されたことへの信仰です。

 「最後の敵として滅ぼされるのが死である(コリンフ前15:26)」。

 パウェルは歓喜に溢れて言います。私たちもまた復活祭の夜がめぐってくるごとに叫びます。

 「死よ爾の刺はいづくにか在る。地獄よ、爾の勝ちはいづくにか在る。ハリストス復活して死者は一人も墓に在らず。ハリストス復活して生命は凱旋す」
(復活祭早課「金口イオアンの説教」
          :コリンフ前書15:55)

 このような意味で、ハリストスとキリスト教を受け入れるか拒絶するかは、主の復活に対する信仰にかかっているのです。すなわち、ハリストスに於いて、死という「霊魂と肉体の分離」が元に復したことへの信仰を受け入れるかどうかです。神の存在自体を拒絶する人たち、自称「無神論者」たちがハリストスの復活を拒絶することについては多くを語る必要はありません。それはまた別の問題です。

 はるかに重要なのは、先ほどもふれた、信者自身の中で復活への信仰がかすんでしまっていることです。現代のクリスチャンは、奇妙なことに、しばしば、喜びに溢れた復活祭の祝祭と、事実上のハリストスの復活の否定を、同居させています。歴史上の現実のキリスト教の中にも、キリスト教以前の死への理解への退行が存在します。すなわち、死を結局、自然に本質的な現象として、「自然法則」として理解するということです。そこでは、人は、それがどんなにおぞましく感じられても、死と和解するほかありません。事実、すべての非キリスト教、自然宗教、哲学者は究極的に一つのことにしか関心がありません。すなわち、人間をどのようにして死と和解させるか、どのようにして不滅の生命、不滅の霊魂、墓場の向こう側に存在する「あの世」を見せ、納得させるかということです。もし、プラトンとその無数の追随者たちが教えるように、死が「霊魂の肉体からの解放」の入り口なら、体の復活への信仰など不必要で理解しがたいばかりでなく、単に欺瞞であり不真実にすぎません。
 それゆえ、復活の信仰の意味を把握するためには、むしろ復活からではなく、肉体と死をキリスト教はどのように理解するかから始めなければなりません。キリスト教の中にさえ存在する混乱の根を私たちはここに見いだすでしょう。

 敬虔な心はハリストスの復活を何よりもまず奇跡としてうけとります。勿論そうです。しかし、ごく素朴な信心にとっては、この奇跡はハリストスのみに関する奇跡にとどまります。
 この見方、すなわち、復活をハリストスに起きた驚くべき神の奇跡ととらえる見方の問題点は、使徒たちと初代教会が共有していた復活理解の半分しか伝えていないことです。初代のクリスチャンたちの喜びは、今日まで、教会の奉神礼、聖歌、祈り、とりわけ復活祭の奉神礼を通じて伝えられていますが、そこでは、ハリストスの復活は、「普遍的な復活」、すべての人々の復活、主の復活によって既に開始されている復活から、決して切り離されていません。
 復活祭の一週間前、教会はハリストスがご自身の友ラザリを死からよみがえらせたことを荘厳かつ喜ばしく祝い、この奇跡が普遍的な復活を確証したと告げます。しかし今日、信徒の意識の中では、ハリストスの復活への信仰は、主が開始された普遍的な復活となぜか切り離されてしまっています。ハリストスの死からのよみがえり、疑い深いフォマに

 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(イオアン20:27)

 と言って信じさせた主の「体の復活」への信仰は、変わりません。しかし、私たち自身の死後の運命については、ハリストスの復活の光の中で主の復活に関連づけられて理解されることが次第に少なくなってきています。ハリストスについては「復活した」と言っても、私たち自身については「霊魂の不滅」を表明するにとどまります。これは、ハリストス以前のユダヤ人やギリシャ人の間に存在していた信仰であり、今日まで例外なくあらゆる宗教に共通の信仰です。この信仰の中ではハリストスの復活は不必要なものとなってしまいます。

 この分離の原因は何なのでしょう?それは、私たちの死に対する理解、いや、むしろ、霊魂と肉体の分離としての死の理解にあります。
 すべてのキリスト教以前、また非キリスト教の宗教は霊魂と肉体の分離を「自然」なものとみるばかりでなく、はっきり肯定的にとらえます。天上的で純粋な祝福された霊性を邪魔するものとしての体からの霊魂の解放ととらえるからです。人間が肉体を邪悪・病・苦悩・情念の源として経験する限り、当然、宗教と宗教的生活の意味と目的は、霊魂を体という牢獄から解放することであり、死はその解放のクライマックスでしょう。しかし、このような死の理解はクリスチャンのものではありません。キリスト教とは両立しません。もっとはっきり言うと矛盾します。霊魂と肉体の分離は、…これが私たちの死の定義ですが、これは悪である、とキリスト教は表明し、断定し、教えます。
 死は神がお造りになったものではありません。死は世に入ってきて、神に対抗し、神のご計画と、この世界に対するご意志を無視し、この世をその奴隷としました。ハリストスはこの「死」を打ち砕きに来られたのです。

 神は、人を、霊魂と肉体をもって、言いかえれば霊的かつ物質的なものとして創造されました(創世記2:7)。人とは、まさに、肉体と霊の結合です。神に創られたものとして、人は、霊に満たされた肉体であり、受肉した霊です。したがって、霊魂と肉体の分離は、肉体上の死だけでなく、どのような霊体一致の破壊(心と体の「ちぐはぐ」)も、悪であり、破局なのです。罪によって私たちが霊と肉体に引き裂かれている限り、私たちは「死」んでいます(ロマ書7:14-24)。そして、ついに肉体の死による最終的な「霊魂と肉体の分離」が、聖書が教える意味での「生命」、つまり、霊に満ちた体、体に受肉した霊としての生命に、完全な終止符を打ちます。
 いや、それでも、死によって、人は完全に消滅してしまいません。被造物には、神が無から存在させられたものを絶滅する力はないからです。しかし、死に於いて、人は生命無き暗黒の中に葬られます。聖使徒パウェルが言うように人は腐敗と崩壊に引き渡されます。
 しかし神は世界と人間を分離、死、分解、崩壊のためにお造りになったのではありません。キリスト教の福音が「最後の敵として滅ぼされるのは死である」(コリンフ前15:26)と宣告するのはこのためです。復活は世界をその原初の美と全体性へと再創造することです。そこでは被造物は霊に完全に浸透され、霊は完全に神の被造物を受肉します。この世界は、神から人間へ、生命として与えられました。神は世界と人間がどんなに歪み汚されたものであっても決して破壊しません。かわりに「新天新地」(黙示21:1)へと、霊的な肉体としての人間へと、神の臨在する光栄なる神殿へと、変容するのです。

「最後の敵として滅ぼされるのは死である」。

 神の子が、私たちへの終わりのない愛を以て自らすすんで死に降り、その暗黒と絶望と恐怖を彼の愛によって満たしたとき、この死の絶滅が開始されました。これが、復活祭の讃歌が、「ハリストス死より復活し」とだけでなく「死をもって死を滅ぼし」と讃える理由です。
 ハリストスだけが死から復活しました。しかし、それによって彼は、私たちの死を滅ぼし、死の支配と、死の絶望と、死の最終性を打ち砕いたのです。ハリストスが約束しているのは、墓の向こうの「涅槃」でも、「霊界の生命」でもなく、「生命」の噴出であり、「新天新地」であり、すべての被造物の復活の喜びです。

 「爾の子、三日目に墓より復活し、死せし者を起こせり、人々や楽しめよ」。

 ハリストスはよみがえり、生命は凱旋しました、「生命」が生きます。
 これこそが信経の中心的・本質的な宣言「第三日に聖書にかないて復活し」の意味であり、つきることのない喜びです。「聖書にかないて」とは、預言者たちの復活の預言通りということばかりではなく、聖書に啓示されている生命の本来のあり方、世界と人間への、魂と体への、霊と物質への、生命と死への神のご計画にかなって、ということです。
 この復活の宣言に、キリスト教の信仰の一切が、その愛のすべてが、その希望のすべてが含まれています。

 「もしハリストスがよみがえらなかったとしたら、…あなた方の信仰はむなしい」
           (コリンフ前15:14)