名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

人としての神

カリストス・ウェア主教「正教の道」より


死に至るまでの従順
 ハリストスの藉身(*1)はそれ自体で既に救いのみわざでした。主は、私たちの損なわれた人間性を、ご自身のものとしてお取りになり、回復されました。降誕祭の聖歌では「堕ちた(神の)像をひきあげ」たと歌われます。しかし、それならなぜ、十字架が必要だったのでしょう?この地上に、至聖三者の御一方が人として生き、考え、感じ、そして意志された、それだけでは不十分だったのでしょうか?その上、人として死ぬ必要はなかったのでは…。

*1 至聖三者(三位一体)の神の第二のお方(=位格)である「神子・神言葉」が、聖神(聖霊)のお働きと生神女マリヤの肉体を通じて、真の人間としてお生まれになったこと。

この世が人の罪によって堕落しなかったなら、ハリストスの藉身は神の溢れ出る愛の表現としてそれだけで十分なものだったでしょう。しかし、現実の罪に堕落したこの世では、その愛は、もっとはるかな地点まで届かなければなりませんでした。罪と悪の現存という悲劇により、人間を堕落から回復するためには、どのように大きな人間的償いも有効ではありません。

 そこで一つの犠牲的な癒しのわざが求められました。「苦しみ、十字架にかけられる神」という犠牲です。
 藉身は同一化と分かち合いです。神はご自身を私たちと同一化し、私たちの人間的経験をご自身のものとして内側から体験することによって、私たちを救います。分かち合いは、十字架刑という最もむき出しの非妥協的な形で、その究極的な段階にまで達しました。藉身した神は私たちのすべての経験に入り込みます。私たちの同伴者イイスス・ハリストスは、人間の生命のあらゆる局面ばかりでなく、人間の死に至るまで、余すところなく分かち合います。
 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった(イサヤ53:4)」。…すべての病、すべての悲しみ。担われないものは、癒されません。しかし、私たちを癒す方、ハリストスはご自身のうちにすべてを担いました。死さえも。(*2)

 *2 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。  (フィリップ2:6-8)」
     パウェルは主の自己放棄と人間への徹底した分かち合い(自己無化<ケノーシス>を、おそらく初代教会のハリストス賛歌であったといわれるこれらの言葉で述べる。

ハリストスの霊的な受難
 死には肉体的と霊的の二つの側面があります。その二つのうちで、より恐ろしいのは霊的な死です。肉体的な死とは人間の体がその霊から離れることです。霊的な死とは、人間の霊が神から離れることです。ハリストスが「死に至るまで従順(フィリップ゚2:8)」であったと言うとき、この言葉は単に肉体的な死だけを指しているのではありません。ハリストスが堪え忍ばれた受難、むち打ち、よろけてしまうほど重く肩にのしかかる十字架、くぎ打ち、飢えと高熱、くぎ打たれた両手にかかる体重がもたらす激痛、…しかし私たちの思いはここにとどまっていてはなりません。受難の真の意味は、その霊的な受難においてこそ見いだされなければなりません。主の挫折と孤立と全くの孤独の意識、そして、人々に惜しみなく差しだしたのに拒絶されてしまった愛の苦痛です。
 福音書は、主の内面的な苦しみについては多くは語りません。しかし、いくつかの箇所に瞥見することができます。

 まず、ゲッセマネの園でのハリストスの苦悶があげられます。主は恐怖に圧倒されうろたえました、主は苦悶のうちに父に祈りました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(マタイ26:39)」。主の汗は「血の滴りのように(ルカ22:44)」地に落ちました。キエフの府主教アントニイが主張するように、ゲッセマネは贖いの教え全体を説く鍵を与えてくれます。ハリストスはここで選択に直面しました。死は強いられていませんでした。主はご自身の自由から受難と死をお選びになりました(*3)。この自発的な自己献祭によって、十字架という専横な暴力、合法的な殺人を救贖の犠牲へと変えます。しかし、この自由な選択による行為ははかりしれない霊的な困難をともなうものでした。逮捕され十字架刑を受ける決意の内で、イイススは、ウィリアム・ロウの言葉によると「魂の滅びの苦悶に満ちた恐怖…永遠の死の現実性」を体験しました。
 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである(マタイ26:38)」というゲッセマネでの主の言葉をどれほど重視してもしすぎることはありません。この瞬間、イイススは霊的な死の体験の中に突入しました。主は、この瞬間、ご自身を人間のすべての絶望と霊的な苦痛に同一化しました。この同一化=分かち合いは、主が私たちと肉体的苦痛を分かち合われたことより、はるかに重要なことです。 
*3 聖受難週間の月曜から水曜の発放詞(祈祷の終了を告げる司祭による高声)は、「我らの救いのために自由の苦しみにゆきたもう主ハリストス我らの神は云々…」。

第二は、主が十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と大声で叫ばれたことです。この言葉も、どれほど重視しても重視しすぎることのないものです。ここには、ハリストスの悲嘆の極限が示されます。主は、人からだけでなく神からも捨てられたと感じたのです。生きた神であるお方ご自身が、「神に見捨てられた」と感じることが、どのようにして可能なのか、それを説明することはできません。しかし、これは少なくとも明白な事実なのです。ハリストスの受難にあって、お芝居はいささかもありません。見せかけだけの演技は一つとしてありません。十字架上で述べられた言葉の一つ一つは、それが語っている通りのことを意味しています。そして、もし「わが神、わが神…」という叫びが、無意味なうわごとでないなら、それは、イイススはこの瞬間、神から疎外されるという真に霊的な死を体験したこと以外にあり得ません。私たちのために血を流して下さったばかりでなく、私たちのために神を見失うことさえお受け入れになったのです。

「彼は陰府に下り(使徒信条)」。これは単に、ハリストスが、聖大金曜日の夕刻からイースターの朝の間に、陰府に下って死者たちの霊に宣べ伝えたことだけを意味するのではありません(1ペトル3:19参照)。ここにも、もっと深い意味があるのです。陰府とは特定の場所や空間を指すのではなく、魂の中にあるものです。それは、神のいない場所です(それでもなお、実は神はあらゆるところにいるのですが…)。もし、ハリストスが本当に陰府に降ったなら、それは神のいない深みにまで降りて行かれたことを意味します。余すところなく、無条件に、主はご自身をあらゆる人間の苦悶と疎外に同一化されました。主はそれを、ご自身に担うことによって癒しました。それらをご自身のものとする以外に、それを癒す方法は無かったのです。

  これが、私たち一人一人に向けられた十字架のメッセージです。死の陰の谷(詩編23:4)を通ってどんなに遠くへ来てしまっても、「私は決して独りではない」のです。私には同伴者がいます。この同伴者は私たちと同じ真の人間であるばかりでなく「真の神よりの真の神」(ニケヤ・コンスタンティノープル信経)です。ハリストスは、十字架上でこの上なくご自身を低められた時にもなお、タボル山の山頂で光栄あるお姿に変容したとき(マタイ17:1-8)と同じく、永遠の生ける神なのです。十字架上のハリストスを見るとき、私たちは苦しむ人間だけでなく苦しむ神をそこに見ます。

勝利としての死
 十字架上でのハリストスの死は、後にその復活によって挽回されるべき挫折ではありません。十字架上の死それ自体が勝利です。何の勝利でしょう?答えはたった一つです。受難する愛の勝利です。

 「愛は死のように強く、…愛は大水も消すことができない(雅歌8:6-7)」。
 十字架は、死のように強い愛、死より強くさえある愛を、私たちに見せてくれます。
聖使徒イオアンは、彼の福音書における最後の晩餐と受難の記事を始めるにあたって次のように言っています。
イイススは「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された(13:1)」。

 「最後まで」、ギリシャ語では eis telos、「最後まで」また「極限まで」という意味です。そして、このtelosという語は十字架上のハリストスの最後の叫びの中でも用いられます。「すべてが終った…tetelestai(ヨハネ19:30)」。この叫びは絶望と諦念の叫びではなく、勝利の叫びとして理解されねばなりません。完了した、成し遂げられた、すべてが満たされた…と。何が成し遂げられたのでしょう?受難する愛の勝利、愛の憎しみへの勝利にほかなりません。ハリストス我らの神は、「自分の者たち」を極限まで愛し抜かれました。愛ゆえに世界を創造され、愛ゆえに人としてこの世に生まれ、愛ゆえに私たちの損なわれた人間性をご自身のものとして担われました。愛ゆえに私たちのあらゆる苦難を分かち合われました。愛ゆえにご自身を犠牲としてささげられ、ゲッセマネの園に於いてすすんんで受難をお受けになる決意をなさいました。

 「わたしは羊のために命を捨てるのである。…だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである(ヨハネ10:15、18)」。

イイススを死に赴かせたのは自発的な愛であり、外部からの強制ではありませんでした。ゲッセマネでの苦悶と十字架の時、闇の諸力はイイススを攻撃して荒れ狂いました。しかし、それらはイイススの被造物への憐みを憎しみに変えることはできませんでした。愛はそのような妨げをはねのけて愛そのものであり続けました。主の愛は最も困難な地点で試みられましたが、打ち倒されませんでした。
 「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」のです。 (ヨハネ1:5)
 十字架上のハリストスの勝利に対し、あるロシヤの司祭が強制収容所から釈放されたとき語った言葉をささげましょう。「私たちの受けた苦難はあらゆるものを破壊し尽くしました。しかし、ゆるぎ無く残ったものが一つだけありました。それは愛でした」。
 勝利として理解される「十字架」は、私たちの前に、愛の全能の逆説を差し出します。ドストエフスキイは、ゾシマ長老(「カラマゾフの兄弟」に登場する修道院の霊的指導者)の語るいくつかの言葉の中で、ハリストスの勝利の真の意味をよくとらえています。

「人を困惑させるいろんな思いの中でも、とりわけ人間の罪を見て、それに対して、力をふるって戦うべきか、または謙虚な愛をもって戦うべきかは一番やっかいな問題だ。しかし、いつも『謙虚な愛によって闘おう』と決意しなさい。ひとたびそう決意したなら、あなたは世界を征服できるだろう。愛によるへりくだりは恐ろしい力を持っている。それは何ものよりも強い。そして、それにかわるものは他には決してないのだ」

 「愛によるへりくだりは恐ろしい力を持っている」。反抗的な苦い思いを噛みしめながらではなく、愛によってすすんで何かをあきらめ何かを耐えるときはいつでも、私たちは弱くならずかえって強くなります。イイスス・ハリストスはその愛によるへりくだりを極限にまで押し進めました。「主の弱さは強さである」とアウグスティヌスは言いました。神の力は、世界の創造や数々の奇跡より、むしろ、愛によって「おのれをむなしくせられ(フィリップ2:7)」受難と死に自由に同意し、ご自身を惜しみなく与えられたことに表れたのです。この自己放棄は自己実現だったのです。ケノーシス(自己無化)はプレローシス(自己充溢)です。神はその最も弱いとき以上に強いときはないのです。

 愛と憎しみは、単に、人々に内面的な影響を与える主観的な感情ではなく、私たち自身の外部を変える客観的な力でもあります。私たちが誰かを愛しまた憎むなら、それによって、私たちはある程度、私たちの愛や憎しみの対象である彼や彼女を、愛されるべきもの、憎まれるべきものに実際に変えているのです。自分自身のためだけでなく、自分を取り巻く人々の人生のために、愛は創造的に働くのです。そして、憎しみは破壊的に。
 この小さな私の愛に関してその通りなら、比較にならないほど大きな水準でハリストスの愛の真実でもあります。したがって、主の十字架上での受難する愛の勝利は、単に主を模倣しようと努力したとき私たち自身が達成するものを示す模範ではありません。それ以上のものです。主の受難する愛は私の上に創造的に働きます。私自身の心と意志を変容します。束縛から私を解放します。私に人間としての健康な全体性をもたらします。私に人への愛を回復させます。しかもその愛は、もし私が主に愛されなかったなら全く私には不可能だったあり方へ成長してゆきます。なぜなら、愛に於いて主はご自身を私と同一化するからです。主の勝利は私の勝利です。そして、ハリストスの十字架上の死は、まさしく、聖大ワシリイの聖体礼儀で祈られるように、「生命を創造する死」なのです。

ハリストスの受難と死には客観的な価値があります。主は、主なしには全く不可能であった何かを私たちのために成し遂げられたのです。同時に、ハリストスは「私たちの代わり」に受難されたと言うべきではなく、むしろ、「私たちのために」受難されたと言うべきでしょう。神の子は「死に至るまで」受難されました。それは、私たちが受難を免除されるためでなく、私たちの受難が主のご受難と同じものになるためでした。ハリストスは私たちに、受難を回避する道でなく、受難を通って行く道を差し出されました。主は、受難を代行してくれる方でなく、私たちの真の救いのために受難を共にして下さる方です。

 これがハリストスの十字架の受難と死の意味です。「十字架」は、「藉身」と、受難に先行する「変容」と、そして引き続いて起こる「復活」とともに、一体として密接に働き合う、至高の完全な勝利・犠牲・模範として理解されなければなりません。受難する愛の勝利であり、犠牲であり、模範です。私たちは十字架に「愛によるへりくだりの憎しみと恐れへの完全な勝利、愛による完全な犠牲と自発的な自己奉献、愛の創造的な力の完全な模範を見いだします。ノーウィッチのジュリアンは次のように言います。

 「あなたは、この事であなたの主が伝えていることを学ぼうとしたことがあるか?よく聞きなさい。主の意味するものは愛だ。誰があなたに愛を見せてくれただろうか?愛であるお方が。彼があなたに見せたのは何か?愛だ。なぜ彼は愛を見せてくれたのか?愛のためだ。あなたをそこに保ちなさい、…そこで、私たちの善なる主イイスス・ハリストスは言った。「あなたのために私が受難したことをあなたは喜んでくれただろうか?」私は答えた。はい、善なる主よ、私はあなたに感謝します。はい、善なる主よ、あなたは祝讃されますよう。すると、イイスス、我らの慈愛あふれる主は言った。「あなたが喜んでくれたなら私もうれしい。かつて私があなた達のために受難を受けたことは、喜びであり、至福であり、限りない満足を私に与える。もし、もっと私が苦しんでもよかったなら、私はもっと苦しんだことがろう」。

ハリストス復活
 我らの神ハリストスは真の人間だったので、彼は十字架上で、完全かつ真正な人間の死を死にました。しかし、彼は真の人間であるばかりでなく、真の神であったので、すなわち彼は生命そのものであり生命の源であったので、この死は終局ではありませんでした。いや、あり得ませんでした。
 十字架はそれ自体として勝利でした。しかし、聖大金曜にはこの勝利は隠されていました。ところがイースターの朝その勝利は明らかになりました。死者の内からハリストスは復活し、その復活によって私たちを不安と恐怖から解き放ちました。十字架の勝利は確証されました。愛は憎しみより強いこと、生命は死より強いことがあからさまに示されました。神ご自身が死に、死から復活しました。もはや死はありません。神によって死すらも満たされました。ハリストスが復活したので、私たちはもはやこの世界に存在するいかなる闇と悪の力を恐れる必要はありません。毎年私たちは、復活祭の深夜の祈祷で、金口イオアンに帰せられる次の言葉によってそれを宣言します。

「何人も死を畏れるべからず
  蓋し、救世主の死は我らを釈きたり…
  ハリストス復活して悪魔は倒されたり
  ハリストス復活して天使らは喜ぶ」
                 (復活祭早課「金口イオアンの説教」)

ここでも、正教はその意味を極限において理解します。私たちは聖使徒パウェルの「もしハリストスがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい(コリント前15:14)」という言葉を繰り返し宣言します。復活がペテンであったなら、私たちはどのようにしてクリスチャンであり続けられるでしょうか?ハリストスを人となった神としてでなく単に預言者、教師、義人として考えることが不適当であるのと同様、主の復活を、ハリストスの霊が残された弟子たちの間に何らかの形で宿ったことと説明してしまうのも不十分です。「真の神よりの真の神」ではない者は、また死と復活によって死を征服しなかった者は、私たちの救いと希望ではあり得ません。私たち正教徒は、ハリストスの人間としての体が再びその人間としての霊に結合され、空っぽの墓が残されたという意味で、真正なる死者よりの復活があったと信じます。正教徒にとって、エキュメニカルな(教派を越え教会の再一致を模索する)対話に関わるとき、現代のキリスト教諸教派に当てはめるべき最も意味のある区分は、このような意味での真正な復活を信じるか否かです。
「あなたがたは、これらの事の証人である(ルカ24:48)」。
 復活したハリストスは、私たちを、この世の他の人々とも、その復活の大きな喜びを分かち合うためにこの世に派遣します。アレキサンドル・シュメーマン神父は次のように書いています。

 「そのそもそもの最初から、キリスト教は、喜び、しかもこの地上であり得る唯一の真の喜びの告知だった。…この喜びの告知なしにして、キリスト教を理解することはできない。教会がこの世に対して勝利しているというのは、まさにこの喜びによる以外の何ものでもない。教会がこの喜びを失い、その喜びの証者たることをやめてしまったとき、教会はこの世を失ってしまう。キリスト教徒に対するあらゆる告発の中で、最も恐るべきものがニーチェによって発せられた。いわく、『キリスト教徒には喜びがない』。…福音書は『見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える』と語り起こされ、『彼らは〔イイススを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰った』と結ばれる(ルカ2:10、24:52)。この大きな喜びの意味を私たちは再発見しなければならない」