名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

大斎の精神性

大斎、パスハへの旅
      アレキサンドル・シュメーマン神父 「大斎」より

旅立ちに当たっては、目的地を知らなければなりません。大斎でも同じです。大斎という霊的な旅の目的地は「祭りの祭り、祝いの祝い」復活大祭です。

 復活祭は単に過去の出来事を毎年記念するだけの祭りではありません。それは、「昼よりも明るい」と言われる復活祭の夜のたとえようもない喜びを一度でも体験した人ならおわかりになるはずです。復活祭奉事で「天と地、さらに地の下の一切のものが、今日、光に満ちあふれる」と歌われるのはなぜでしょう。どんな意味で、「死の死、地獄の滅び、新たなる永遠の生命の開始」と賛美されるのでしょう。その答えは、およそ二千年前に墓から輝き出て、私たちハリストスを信じる者すべてに与えられた「新しい生命」にあります。私たち一人一人はその「新しい生命」を洗礼の日に与えられました。聖使徒パウェルが「私たちは、その死にあずかる洗礼によって、ハリストスとともに葬られたのである。それは、ハリストスが…死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しい生命に生きるためである(「ローマ人への手紙」6:4)」と言っている通りです。すなわち、復活祭で私たちはハリストスの復活を私たちの内に起こった、また起こりつつあるものとして祝うのです。

 私たちは、この新しい生命の贈り物と、それを自分自身に身につけそれによって生きる能力を与えられました。この生命の贈り物は、「死」に対するだけでなく、この世の一切に対しての私たちの態度を根こそぎ変えてしまいます。私たちは「もう死は何ものでもない」と喜びに溢れて断言することができます。
 確かに死はまだそこにあります。私たちは今なお死に直面しやがて何時か死にます。しかし、ご自身の死によってハリストスは死の本質を変えられました。死を神の国へ移り行くこと、パスハ・「過ぎ越し」へと変え、「悲劇の中の最大の悲劇」を究極的な「勝利」に変容されたのです。「死をもって死を滅ぼし(復活祭の讃詞)」私たちをご自身の復活にあずかるものとされたのです。かくして、復活祭の早課では「ハリストス復活して生命は凱旋す。ハリストス復活して死者は一人も墓にあらず(金口イオアンの説教)」と宣言されます。
 これが、教会が伝えてきた信仰であり、無数の聖人たちの生涯によって証しされてきたことです。

 しかし、日常生活の中でこの信仰を維持してゆくことはほとんどできません。私たちは、大半の時を、贈り物としていただいたこの新しい生命を見失い裏切って過ごしています。実際、まるでハリストスが死人の中から復活しなかったかのように、そのかけがえのない出来事が自分とは何も関係がないかのように生活しています。これは、私たちの弱さによります。「まず、神の国と神の義を求めなさい」と、主が私たちに求められる高みで、つねに「信仰と希望と愛」を失わず生きてゆくことはまことに困難なことです。忙しすぎて、また、日常生活にどっぷり浸かって、これらのハリストスの導きを皆簡単に忘れてしまいます。忘れた結果、多くのしくじりを犯します。この、忘却、しくじり、罪を通じて、私たちの生活はまた「古い」ものに戻ってしまいます。世知辛く、陰気で、無意味な人生にです。人生は無意味な目的への無意味なさすらいになってしまいます。そのうち私たちは「死」すら忘れてしまいます。そして、無頓着に過ごしてきた「楽しい」人生が、突然、恐ろしい逃れられない死によって全く無意味に中断されてしまうのです。

これを悟れば、復活祭が何であり、なぜ長い大斎によって、それに備えなければならないかが理解できると思います。正教会が初代教会より連綿と伝えた大斎から受難週・復活大祭への奉神礼は、私たち人間が簡単に見失い裏切ってしまう「新しい生命」のビジョンと味わいを回復し、悔い改めてそこに立ち帰る事を助けてくれます。
 教会の奉神礼はすべて復活祭を中心に組み立てられています。さまざまな祭日や期間が設けられている教会暦の一周年は、パスハ(過ぎ越し・復活祭)への巡礼の旅路です。パスハはその終点であり、同時に起点です。すべての古きものの終わりであり、新しい生命の始まりなのです。

 ハリストスは「狭き道から入れ」と命じられました。それだけが真の幸福への唯一の道だからです。もし教会が手をさしのべてくれなかったら、私たちはどうやってこの道を行けばいいのか、どのように悔い改め、復活祭に約束されている輝きに立ち帰ることができるのか、途方に暮れてしまいます。そこで、大斎が設けられ、私たちの悔い改めを手助けしてくれるのです。大斎は単に、食物、飲み物、娯楽などの節制ではありません。私たちの内の古きものの終わりであり、新たなるものへの入口なのです。


斎の意味
   カリストス・ウェア主教 「大斎の意味」より

…十分な外面的禁欲なしに、本当の斎は保たれません。しかし、禁欲は、常に内面的な目的を持っているので、食事のルールを守ることを自己目的としてはなりません。人は身体と霊が一体のものであり、私たちの斎もこの両方に及ぶものでなければなりません。
 食事のルールを形式主義的に強調しすぎる傾向と、逆にそれを「時代遅れ」「不必要」として軽視する傾向は、ともに本来の正教会精神を裏切る悲しむべきものです。

…斎の根本的な目的は、私たちに「神への依存」を教えることです。もし、真面目に取り組めば、斎はかなりの空腹感、疲労感をもたらします。これは「砕けた心」としての痛悔へと私たちを導きます。すなわち「わたしを離れてはあなたがたは何一つできない(ヨハネ福音15:5)」と告げたハリストスに満ちあふれる力を体験させます。私たちは、いつも満腹しているなら、間違った意味の自主性と自己満足に陥り、簡単にうぬぼれてしまいます。斎はこの罪深い自己満足を根底から覆します。…空腹と疲労の目的は、私たちを「心の貧しい者(マタイ福音5:3)」とし、神の助けなしには私たちは全く無力であることに気づかせることです。

 …禁欲はこれだけ(肉体の疲労)でなく、輝く光、注意深さ、自由と喜びの意識ももたらします。…斎は、肉体への危険ではなく、むしろ本当の健康と調和を回復します。西方世界に住む私たちは、習慣的に、必要以上のものを食べています。斎は、私たちの体から過度の重量の束縛を解き、肉体を祈祷のための、神聖神(聖霊の日本正教会訳)の声に対する警醒と応答のための、自発的な助手とさせます。

…斎は食事の決まりに関するものだけではありません。肉体的であると同時に精神的です。本当の斎は、心と意志の内に転換されてくるものです。つまり、斎は神に帰ることであり、あの放蕩息子(ルカ福音一五章)のように私たちの真の父の家に帰ることです。金口イオアン(ヨハネ・クリソストムスの日本正教会での慣例的な呼び名)によれば、斎は「食べ物だけでなく、罪を避けること」を意味します。「斎は、ただ口によってでなく、目や耳や手足や体のあらゆる部分で守られなければならない」とイオアンは強調します。目は不敬虔な光景を避け、耳は有害なうわさ話を避け、手は不義の行いを避けなければなりません。無慈悲な非難や中傷にふけっていては、食べ物をいくら節制しても無駄であると、聖大ワシリイも断言しています。「あなたは食事をしないが兄弟をむさぼり食っている」

…斎期間中、祈りや聖体礼儀への頻繁な参加を怠ると、私たちの斎は偽りになり、悪魔的にさえなってしまいます。それは、痛悔と喜びへと導かず、不安と短気を内に宿した高慢へと導きます。…斎は、祈りが伴っていないと、無価値で危険でさえあります。悪魔は、斎だけでなく「祈りと斎」によって追い払われたのです(マタイ福音17:21)。

…さらに、祈りと斎は、施し、すなわち実際に形に表された他者への愛、憐みと赦しのわざが伴わなければなりません。
 大斎の始まり、赦罪の主日(乾酪主日)の晩課で、特別な相互和解の儀式があるのは偶然ではありません。他者への愛がなければ、本当の斎はあり得ないからです。この他者への愛は、形式的な見せかけや感傷的な気分だけに留まってはなりません。「行為」によって表わされるものです。これは初代教会の確信でした。二世紀の「ヘルマスの牧者」は、斎の間に節約されたお金は、寡婦・孤児・貧しい人々に与えられなければならないと断言しています。しかし、施しはさらにそれ以上のものです。私たちの金銭だけでなく時間を与え、私たちの持ち物だけでなく私たちの「存在そのもの」を与えなければなりません。私たちの一部分を与えるのです。金銭の施しのみでは、人々の苦悩に親しく交わらない、自己保身の方法に堕することがあります。一方、緊迫した物質的困難にある者に、励ましの言葉だけで何もしないのは、責任逃れに等しいのです(ヤコフ書2:16)。

…私たちが斎に関して常に心にとどめておかなければならないことは、聖使徒パウェルが厳しい斎をしていない人を咎めてはならないと訓戒していることです。「食べない者も、食べる者を裁いてはならない(ロマ書14:3)」。自己を高しとするファリセイの斎・人を裁く律法主義の斎であってはなりません。

「エフレムの祝文」を祈りましょう
  名古屋ハリストス正教会 宣教資料から

大斎期間だけの祈りや聖歌はたくさんありますが、これぞ「大斎の祈り」と言えば、シリヤの聖エフレム(四世紀)のもので、教会ではもちろん、家庭でも朝晩の祈りに加え、また折に触れて祈ることがすすめられています。
次のような祈りです。

 主、吾が生命の主宰よ、
 怠惰(おこたり)と、愁悶(もだえ)と、凌駕(しのぎ)と、空談(むだごと)の情(こころ)を我に与ふる勿れ(伏拝一回)
 貞潔(みさお)と、謙遜(へりくだり)と、忍耐(こらえ)と、愛の情を我爾の僕に与へ給へ(伏拝一回)
 鳴呼、主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜へ(伏拝一回)
 蓋、爾は世世に崇め讚めらる、「アミン」

ここまで唱えたら、「神よ我罪人を浄め給え」と唱えながら六回弓拝(十字を描き腰から深く頭を垂れる)。最後に祈り全体をもう一度繰り返し、結びに伏拝一回)

大斎の「旅のチェックリスト」
なぜ、この祈りが大切なのでしょう?
 私たちが大斎で神の恵みに応え、自分を清めようと努力するときのチェックリストとなっているからです。前半は神さまに取り除いて欲しい悪い心の姿、後半はぜひ与えて欲しい善い心の姿が示され、祈られます。

怠惰(おこたり)…冷笑主義
私たちを、いつも、上よりは下へ向けさせ、私たちに「何も変えることはできない」、従って「何も変えたくない」と思い込ませるのはこの怠惰です。取り組まなければならない色々な試練に対して、「そんなに頑張ったって一体何になるのさ」と投げやりにさせ、人生を途方もない霊的な浪費にしてしまうのは、私たちに深く根ざしたこの「冷笑主義」です。

愁悶(もだえ)…落胆・意気阻喪
怠惰の結果は「愁悶」です。落胆、意気阻喪の状態です。善いものが何一つ見えなくなり、否定主義、悲観主義に陥ります。
 悪魔とは<人を欺くもの>と言う意味で、これは実に「悪魔的」な力です。悪魔は神と世界について私たちを欺きます。彼は、神など存在せず、人生に一つも善いことなどないと、そそのかします。

凌駕(しのぎ)…力への渇望
もし、人が神を中心に生きないのなら、人は自己中心的となり、他人は皆自己満足の手段となります。一切を「私の」必要性、「私の」考え、「私の」欲望、「私の」…の点から値踏みするようになります。「凌駕」は、このような、間違った自分と他人の関係であり、すべてを「私」に従わせたいという望みです。他人への実際の命令や支配として現れるとは限らず、他人への冷淡や軽蔑、関心・配慮・尊敬の欠如という現れ方もあります。「怠惰」と「愁悶」が霊的な自殺なら、これは霊的な殺人です。

空談(むだごと)
言葉は神からの素晴らしい能力です。しかし、最高の能力であることは最悪の危険でもあります。神に喜ばれる者になる手段が、堕落と罪の手段になってしまうのです。神を離れた人間の言葉は、世界を無意味なおしゃべりで満たし、自分と他人をともに傷つけ、人生を地獄に変える罪の力となります。イアコフの公書三章をぜひお読み下さい。

貞潔(みさお)…完全さ・全体性・健全さ 
この言葉の原語は「欠ける所のない全体性を保った健全さ」という意味です。「貞潔」が普通「性的な清さ」として用いられるのは、性欲に人間性の歪んだ姿が最もはっきり現れるからです。ハリストスの救いとは人を神に立ち帰らせこの失われた全体性を回復してくださることです。

謙遜(へりくだり)
これは何ものにもまさるものです。謙遜だけが真実を見ることができます。物事をありのままに見、受け入れ、従って神の偉大さと善と愛をすべてに見ます。神はへりくだる者に恵みを与え高慢な者を退けます。

忍耐(こらえ)
「堕落」した私たちは忍耐強くありません。自分に盲目なので簡単に他人を裁きます。不完全で歪んだ知性しかないので、すべてを自分の好みと思いで判断します。他人の自由と事情には無関心なので「今、ここで」物事がうまくいっていないと癇癪を起こします。反対に神はとても忍耐強いお方です。盲目の私たちには見えない物事の内面的な真実が神には見通せるからです。従って、神に近づけば近づくほど、人はより忍耐強くなり、他者に対しても、限りない敬意を払うようになります。


 愛は神のみが与えて下さるもので、私たちはいつも自分を神の愛の汚れない器、神の愛の溢れ出る注ぎ口にふさわしく、備えなければなりません。
 コリント前書一三章・ヨハネ第一公書をぜひお読み下さい。

結びの祈願…プライドという危険
「鳴呼、主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜え」。
 最もやっかいなのは「プライド(自尊心)」です。プライドは悪の源泉、悪とはプライドと言ってもいいほどです。この祈りは自分の過ち・罪を直視し、プライドを退けてほしいと願いますが、この自分の罪を認めるという明白な徳でさえ「プライド」に逆転することがあるのです。謙遜さと自己告発の装いの下に、まさに「悪魔的」なプライドへの傾向が隠されているのです。だからこそ、他人をあれこれ批評したり裁く心が起きないほどの、深い罪の自覚をいただけるよう祈るのです。