名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

復活の福音

(コリンフ前書第15章)
            ゲオルギー フロロフスキー 神父(*1)

人間は死によって崩壊する。
 これはキリスト教的人間観全体を支える根本的な原則です。神は人間を霊(たましい)と肉体(からだ)が合わさったものとして創造しました。人間にとって、肉体は不可分な構成要素なのです。キリスト教独自のメッセージのなかで、たぶんこれが最も衝撃的な新しい宣言であったろうと思われます。

 ハリストスの復活の教えは、十字架の受難についての教えと同様に、異邦人にとっては馬鹿々々しい話であり「つまづきの石」でした。聖使徒パウェルはアテネの哲学者から「さえずる者(おしゃべり)」と嘲られました。パウェルが「イイススと復活とを、宣べ伝えていた(使徒行実17・18)」からです。
 ギリシャ的精神にとって、肉体は常に厭わしいものでした。初期キリスト教時代のギリシャ人たちは、プラトンやオルフェウス崇拝に強く影響されており、肉体は牢獄のようなもので、堕落した魂がそこに投獄され幽閉されているのだと考えていました。彼らは何より完全かつ最終的な「肉体(牢獄)からの解脱」を夢見ていたので、キリスト教徒の復活の信仰などは、彼ら「異邦人」の精神を混乱させ恐れさせるだけのものでした。彼らにとって復活は、監禁状態が永遠に続くことであり、再び投獄されて永久に逃れられないことでした。
 
 ケルソス(*2)は良識の名のもとに、肉体の復活への期待などというものはミミズにこそふさわしいと嘲笑し、クリスチャンたちに“philosomaton genos”〈肉を愛するやからたち〉とあだ名をつけました(オリゲネス「反ケルソス論」5章 14・7章36)。プロチノス(*3)も同じ考えでした。彼は次のように述べています。
 「真実の覚醒とは、肉体をともなった復活(よみがえり)ではなく、肉体からの復活(よみがえり)なのだ。なぜなら、肉体をともなった復活とは、単に一つの眠りからもう一つの眠りへ、ないしは一つの住処から他の住処への移動にすぎないからである。肉体はその起源と、生成し変化しやがて腐敗してゆくという点において魂の本質と一致しない。肉体と魂は決して相容れるものではないのだから、唯一の覚醒は肉体なるもの全てからの脱出なのである。」(「エンネアデス」3章6・6)

 ギリシャの哲学者たちにとっては、罪に対する畏怖よりはるかに不潔(ケガレ)に対する恐怖の方が強かったのです。彼らにとっての罪とは実に不潔(ケガレ)を意味していました。「低き本性」としての、肉をまとった身体、この物質的でいとわしい物体は、全ての悪の根源であり媒体だとして忌み嫌われました。悪は自由意志の間違った使い方からではなく、肉によって生じるケガレから来るので、人はこのケガレをすっかり洗い落とすことによって、悪から解放されるべきだと彼らは考えたのです。

 肉体についてのこのようなギリシャ的思想に対して、全く新しい考え方をキリスト教はもたらしました。きわめて初期の段階から、Docetism(ハリストス仮現説:地上のハリストスは天上の霊的実在者としてのハリストスの単なる幻影であったとする説)は最も有害な誘惑だとして退けられてきました。「反ハリストス者」がもたらす、福音を否定する「暗闇」とされたのです。(イオアン第1公書 4・2~3)

 聖使徒パウェルは「わたしたちの身体のあがない(ロマ書 8・23)」を力説しています。「それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。(コリンフ後書 5・4)」これはまさにプロチノスの説に対する反論となっています。

  聖金口イオアン(*4)はこれを次のように注解しています。
「聖使徒パウェルは、世界の物質性を軽視し人間の肉体をそしる者たちに決定的な攻撃を加えている。彼が言わんとしたのは、肉体と腐敗は別のものであり、私たちが脱ぐのは、肉ではなく腐敗であることだ。肉体が即ち腐敗ではなく、腐敗が即ち肉体でもない。肉体は確かに腐る、しかしそれは〈腐敗〉ではない。肉体はいずれ死ぬ、しかしそれは〈死〉ではない。肉体は神によって創造された。しかし〈死〉と〈腐敗〉は罪によってこの世にもたらされた。それ故、我々が取り去らなければならないのは、我々にふさわしくない「異物」であると聖使徒パウェルは教えている。その異物とは肉体ではなく腐敗なのである。来世において粉々にされ捨て去られるのは、肉体ではなくそれにまとわりついている腐敗と死なのである。」
 
  疑いなく聖金口イオアンは、全ての教会に共通の感覚をここに示しているのです。ある二世紀のラテン教会の護教家も「我々は常に肉体の復活を待ち望んでいなければならない。」と書き残しています。(Minutius Felix,Octavius 34)また、あるロシアの作家は、カタコンブ(ローマ時代の地下墳墓)について、適切にも次のように述べています。

 「初期キリスト教徒の墓地の、喜びに満ちた晴朗感と、安らぎに満ちた限りなく平安なたたずまいを、いったいどの様な言葉で表現すればよいのだろうか。あたかも雪に覆われた麦のように、来世での永遠の春を待ち望み予言しつつ屍はここに横たわっているのだ。」

 麦のたとえは聖使徒パウェルも用いています。
「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえるのである。(コリンフ前書 15・42)」最後の審判の日に神の力によって実るために、人間の屍は地に蒔かれるのです。「我々は死んでも滅びるわけではない。地に蒔かれた種のように、やがて芽を出すのだ。(聖アファナシイ*5藉身論21)」墓の一つ一つは既に不朽なるものの神殿となっているのです。

しかし、復活はたんなる復帰や繰り返しなのではありません。最後の日の全死者の復活についてキリスト教が教えるところは、ストア派の哲学者たちの教えた「永遠の回帰」とは違うものです。復活は真の更新であり、変容であり、全ての被造物の造り変えなのです。たんに過ぎ去ってしまったものが戻ってくるのではなく、より善くより完全に、高められ充実されたものとして復活するのです。

 「また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。‥‥ただの種粒にすぎない。‥‥‥肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。(コリンフ前書 15・37、44)」そこでは大いなる変容が遂げられるでしょう。しかし、それでもなお個々の人間の同一性は失われることはありません。

 聖使徒パウェルの言う「肉のからだ」と「霊のからだ」の区別については、明らかにもっと深い解釈が要求されます。フィリップ書の第3章21節にみられる、「わたしたちの卑しいからだ」と「ご自身の栄光のからだ」というもう一つの区別も同時に吟味しなければならないでしょう。‥‥‥しかし、この神秘はわたしたちの知識と想像力を超えています。「わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。(イオアン第1公書 3・2)」

「しかし事実、ハリストスは眠っている者の初穂として死人の中からよみがえったのである。(コリンフ前書 15・20)」偉大なる「死の三日間」は主の復活の前の神秘に満ちた日々でした。聖大土曜日のシナクサリオン(*6)の中で説かれているように、「聖大土曜日に我らの主、救い主イイスス・ハリストスの神聖な肉体の埋葬と、主の地獄への降下をほめ上げようではないか。それによって我らは腐敗から呼び返され永遠の生命に渡されたからである。」この日はたんに救いの前夜だったのではなく、既に救いの日そのものだったのです。

 「祝せられしスボタ、此は安息の日なり。この日に神の独生子はそのことごとくの工(わざ)を竣(お)へ、かつて定めし死に籍(か)りて肉体にて安息せり。(聖大スボタの晩課スティヒラ)」肉体として、主は墓のうちに安らっておられ、その神性は御自らの肉体を捨て去るということはありません。「言葉よ、爾殺されたれども、受けし所の肉体より分かれざりき。蓋、苦しみの時に爾の殿こぼたれども、爾の神性と肉体との位は一たりき、二つの中に爾一にして、子、神の言葉、神人あればなり。(聖大スボタの早課・カノン第6歌唱)」それ故、主の肉は腐敗するものではありません。生命の最も深いところ、「言葉」であり「永遠の生命」である位にそれは留まっているのです。主の肉体はこの不朽なる位の中で、光栄に満ちたものに変容されたのです。屈辱の肉体は葬られ、光栄の身体(からだ)が墓から起き上がったのです。

 イイススの死によって、主に対する死の無力が明らかにされました。完全に人間であるという点において、主は死すべきものであり、現実に主は死んだのです。しかし、死は主を捉え続けることはできませんでした。「イイススが死に支配されているはずはなかったからである。(使徒行実2・24)」聖金口イオアンは「主の被った痛みはいわば陣痛のようなものであり……そして主は死せざるものとしてよみがえったのである。」と述べています。主は永遠の生命であり、主は死によって死を滅ぼしたのです。主は黄泉(死の領域)へ降り、力強く主の永遠の生命を宣言したのです。主は死そのものに息を吹き返させたのです。

  神への不従順と堕落が死をもたらすという潜在的な可能性が、第一のアダムにおいて現実のものとなり、第二のアダムにおいて、神への従順によって不死性を獲得できるという可能性が、死の不可能性へと浄化され現実のものとなったのです。何故なら「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じようにハリストスにあってすべての人が生かされるのである。(コリンフ前書 15・22)」

 ハリストスの中の人間性の構造全体が、安定して強固なものであることが判明しました。魂の身体からの分離は最終的な決裂には至りませんでした。ニッサの聖グリゴリイ(*7)が指摘しているように、人の通常の死においてさえ、魂と身体の分離は決して絶対的なものではなく、そこにはなお一定の結合があるのです。ハリストスの死においては、この結合によって、魂がその残してきた身体を記憶しているというのに留まらず、主の魂は身体の「生きた力」であることをやめませんでした。

 主の死は魂と身体の分離とか遊離とかであるより、実際にはむしろ眠りのようなものだったのです。「そして人間の死はただの眠りとして示されたのである。」とダマスクの聖イオアン(*8)も言っています。現実に死が存在することには変わりないのですが、死の無力性が暴露されたのです。主は実際にまぎれもなく死にました。しかし主の死は、私たちひとりひとりの死においては隠れていて見えない「復活の力学」を宣言しているのです。

 「一粒の麦」の光栄に満ちたたとえ(イオアン伝 12・24)がハリストスの死に完全に当てはまります。藉身した神〈イイスス・ハリストス〉の身体の場合は、死と復活の間隔が縮められています。「卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。(コリンフ前書15・43~44)」まかれた種のこの神秘的な成長は、主の場合三日間で完成しています。

 「主は神殿としての自らの身体を死の状態に長い間放置しなかった。死によって主は身体に死の世界を示し、ただちに三日目にかの身体を起こし、それとともに死に対する勝利の叫びをも起こしたのである。すなわち、不朽と永遠の充実が身体に対して宣言された。(藉身論26)」ここで聖アファナシイは、ハリストスの死が同時に勝利と復活の性格を有することを示しているのです。この「三日の死」の神秘のうちに、主の肉体は光栄の身体に変容され、力と光輝を着せられたのです。種は成熟します。そして、花婿が部屋から出てくるように、主は死からよみがえるのです。これは神の力によって達成されました。「最後の日」の全ての死者の復活も同様に神の力によるのです。主の復活において神の藉身は完成し極点に達しました。それは人間性の中での永遠の生命の勝利宣言であり、人間存在への不死性の移植なのです。

 ハリストスの復活は主ご自身の死に対する勝利であるばかりでなく、全ての死に対する勝利でした。「我ら死の死を祝う、地獄の滅び、新たなる永遠の生命の始まりを!(復活祭のカノン、第2歌頌第2トロパリ)」主の復活によって、人間全体と人間性の全てが主とともに復活せしめられました。「人類は不朽を衣た。」のです。ともに復活せしめられたとは言っても、実際に墓から全ての死者がよみがえるという意味においてではありません。人はやはり死にます。しかし、死への絶望は捨て去られました。死は無力にされたのです。

 聖使徒パウェルはこの点を非常に強調しました。「もし死人の復活がないならば、ハリストスもよみがえらなかったであろう。……もし死人がよみがえらないなら、ハリストスもよみがえらなかったであろう。(コリンフ前書15・13、16)」聖使徒パウェルがここで言いたいことは明白です。すなわち、ハリストスの復活がもし全ての人々にも共通の成就でないならば、また頭(ハリストス)とともに身体(人類)にも復活の可能性があらかじめ与えられるのでなければ、主の復活は無意味になってしまい、さらにハリストスそのものへの信仰はいかなる意味も失い空虚で空しいものとなり、結局、信ずべきものは何も無くなってしまうということなのです。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり…(コリンフ前書15・17 )」

 全人類の復活への希望を欠いたハリストスへの信仰というものがもしあるとしたら、それは空しく目的のない、ただの虚栄心にすぎません。
 「しかし、いまハリストスは復活した。」そしてこの復活のただなかに永遠の生命の勝利が横たわっているのです。

 聖金口イオアンはこう述べています。「我々が死ぬということは依然として変わらない。しかし、我々はもはや死んだままの状態で放置されることはないのだ。それはもう『死』とは言えまい。死者が決して元の生者へと戻れないということにのみ死の権能と現実性があるにすぎない。………死後彼がよみがえり、その上さらによりよき生命をいただけるのなら、これはもはや死とは言えないのだ。ただ眠りに就いているだけなのである。」

 同様の考え方は、聖アファナシイにおいても見ることができます。「死に対する絶望は捨て去られた。復活の恩寵によって、腐敗が止み取り去られたので、今後、我々は肉体の物質的な必然性に従って、一時の間、溶解するに過ぎなくなったのだ。それは地に蒔かれた種によく似ている。我々は滅びることなく、地に蒔かれやがて再び芽を出すのだ。救世主の恩寵によって死は無にされたのだ。(藉身論21)」全てがよみがえるでしょう。今後、死(魂と肉体の分離)は一時的なものになります。生命をもたらす十字架の力によって、黄泉の暗いベールは取り去られたのです。

 ニッサの聖グリゴリイは十字架と復活の本質的な相互依存性を強調しています。彼は特に二つの点を主張します。一つは神の位の統一性です。そこではハリストスの魂と身体が、たとえ死の分離状態の中に於いても、結び合わされています。もう一つはハリストスの完全な無罪性です。彼は次のように述べています。

 「肉体に固有の必然的な過程により、ハリストスに於いてさえ、魂と肉体が分離へと進行してしまったとき、主はばらばらにされた両者を再び一つに編み直したのである。それは神の神聖なる力というセメントによる結合、また、破壊されたものの、決して壊れることのないものへの再結合なのである。これが復活であり、神が人間をお造りになったとき人間に与えられていた原初の恩寵に再び浴するため、死によってそれまで結び付いていた諸要素が溶解してしまった後に、分解され得ない統一体へと相互の結合によってよみがえることである。溶解した我々から、人間の性質に混ぜられていた悪徳が蒸発して消え去ったとき、永遠の生命が回復されるのである。……何故なら、死の原理がひとりの人間において生じ、引き続いて全人類に伝わったのと同様に、復活の原理はひとりの人間から全人類に伝わるのである。……何故なら、主が自ら引き受けた具体的な人間性(イイスス)において、魂は溶解の後に身体に戻って来た。新しい原理によるこの再結合は人類全体に、同等の力をもって伝わった。これがハリストスの死と、死からの復活に関しての神のご計画の神秘なのである。(大教理教育論16)」

 つまり、ハリストスの復活は人間の存在の完全性と全体性の回復、人類全体の再創造<new creation>なのです。聖グリゴリイは、二人のアダムについての対照と比較を行うなど、忠実に聖使徒パウェルの足跡を追っています。

 全人類の復活は、我らの主の復活の極点であり、死と腐敗に対する主の勝利の最終的な到達点です。歴史的な時間を超えてそこには「来るべき時代の生命」<神の国>があり、最終的には、全ての被造物のために「祝福されたスボタ」、真実の「安息日」、神秘に満ちた「創造の第七日」が開始され永遠に続くのです。そこでどの様なことが期待されるかは未だ想像を絶しています。しかし、保証は与えられています。ハリストス復活。(翻訳 松島雄一)       

注*1 ゲオルギー フロロフスキー 1893年~1979年 ロシアの神学者 司祭の子として生まれる。1916年オデッサ大学を卒業し同大学で哲学を教える。1920年ソフィアに亡命、次いでプラハに移り法学講師となる。26年からパリの聖セルギイ神学院の教父学教授、さらに教義学教授を務め、32年司祭に叙聖。48年にアメリカに渡り、ニューヨークの聖ウラジミール神学校の東方教会史教授、プリンストン大学客員教授を歴任、ギリシャ教父の広範な研究を行い<新教父学的総合>の必要性を提唱。またロシア宗教思想に関する入念な研究書「ロシア神学の道」(1937)を著す。37年から世界教会協議会(wcc)の会議に定期的に代議員として出席、教会一致運動で指導的役割を演じた。

*2 ケルソス Celsus 2世紀後半、反キリスト教著作活動をしたローマのプラトン主義哲学者。古代で最も重要なキリスト教批判者である。オリゲネスの著作によってその思想を知ることが出来る。本人の著作は現存しない。ケルソスは霊魂不滅の立場からキリスト教をギリシャ人の知恵(特にプラトンの教説)の歪曲と非難し、福音の非<合理>(ロゴス)性を暴きキリスト者の集会の非<合法>(ノモス)性を主張した。

*3 プロチノス Plotinos 3世紀。エジプトで生まれたローマの哲学者、新プラトン主義の創始者。存在・思考を全く超越する神的「一者」から、あたかも源泉から溢れ出る流れのように種々の存在段階が「流出」し、その際「一者」から遠ざかるに従って、ヌース(英知)プシュケー(魂)質料(物質・肉体ととりあえず理解してよい)の順に存在の完全性の程度が減り、最後の質料(物質・肉体)は「一者」の絶対否定として非存在・悪にほかならず、人間精神の究極の目的はこの神的「一者」との神秘合一、エクスタシス(忘我脱魂)にありとした。主著「エンネアデス」

*4 聖金口イオアン 4世紀の代表的聖師父でありコンスタンチノープルの主教。アンチオキヤに生まれ早くから修道生活を志し隠修士としての修行を積んだ。説教の巧みさによりクリュソストモス(金の口)と呼ばれる。「金口イオアンの聖体礼儀」を完成したと言われ、また復活大祭の早課の説教は復活の喜びを力強く宣言しており、世界中の正教会で読まれている。

*5 聖アファナシイ 4世紀のアレキサンドリアの主教。生涯をアリウスの異端との戦いに捧げた聖師父。

*6 シナクサリオン 月課経中の早課にある当日の聖人や祭についての簡単な説明。

*7 ニッサの聖グリゴリイ 4世紀の聖師父。ニッサの主教。カッパドキヤの3師父(聖大ワシリイ・ナジアンゾスのグリゴリー)の一人。

*8 ダマスクの聖イオアン 7世紀から8世紀。ダマスクスの豊かなキリスト教徒の家庭に生まれ、父の職を継いでイスラムのカリフに仕えたがその強い信仰故に、職を辞し、サワ修道院に入り生涯をそこですごした。イコン論争では擁護論の代表者として正教信仰を護った。また、マニ教・イスラム教・ネストリウス異端・単性論異端とも多くの論争を行った。