名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

復活祭論争

教会の一致を守ったポリカルプとアニケトス

ポリカルプとアニケトス

 第二世紀のころ、小アジア(今のトルコ地域)の教会は復活祭をユダヤ教徒と同じ、当日が日曜かどうかに関わりなくユダヤ歴でニサンの月の一四日に祝っていました(一四日派)。他のほとんどの地域の教会はその直後の日曜日を復活祭の日としていました。
 小アジアはスミルナの主教ポリカルプは、自分たちの慣行の正当性を訴えそれに倣うよう説得するために、はるばるローマ教会の主教アニケトスを訪問しました。アニケトスの側も、この機会にポリカルプを説得し自分たちの慣行に倣わせようとしました。二人は率直に意見を戦わせましたが、ついに見解の一致には至りませんでした。
 しかし、クリスチャンの信仰の中心、主の復活をいつ祝うかという重大問題での意見の相違と論争は、教会の分裂を招きませんでした。古代教会随一の教会史家エウセビウスは、これについてリヨンの主教イリネイの次の言葉を引用しています。
 「そういう事情でしたが、彼ら(注:ポリカルプとアニケトス)は互いに交わりました。そして、その教会(注:ローマ教会)で、アニケトスはポリカルプに聖体機密を執行することを認めたのです。明らかに敬意からでした。また、彼らは互いに平安のうちに別れましたが、それはその教会全体の平安がそれ(注:復活祭を祝う日の規定)を守る人と守らぬ人の双方によって保たれたからです」。

聖伝と諸伝承

 教会には「聖伝」といわれるものがあります。使徒たちから受けて教会が伝える、正しい信仰を支え、日々の信仰生活を導き、全教会の一致をもたらす大切な伝承・伝統です。カリストス・ウェアー主教は「The OrthodoxChurch 」 で、「正統的信仰の源泉」である「聖伝」として次の七つをあげています。すなわち、聖書・全地公会ならびに地方公会で確認された信仰箇条・聖師父の教え・奉神礼・教会法・聖像です。そして、このような「聖伝」と、後の教会が長い歴史や地域的特殊性の中で身にまとってきた様々な教会慣習や伝承は、はっきり区別されなければならないと言っています。そういう「諸伝承」を「聖伝」と勘違いし、それに囚われてしまうと、やがて教会は硬直化し、聖神(聖霊)に満たされたみずみずしい信仰の息づきを失ってしまうからです。  

 「聖伝(Tradition)」と「諸伝承(tradi-tions) 」を混同してはなりません。たとえば、信徒が毎主日領聖するのは基本的な「聖伝」です。初代教会の人々はできれば毎日でも領聖しなければならないと確信していました。しかし「女性は聖堂でスカーフをかぶるべし」というのは「諸伝承」の一つに過ぎません。「スカーフをかぶってないから不謹慎」と領聖を許さないなら、「諸伝承」にこだわって「聖伝」を犯すことになります。(ただ誤解しないで下さい、スカーフをかぶることは慎ましい女性らしさを表すよい習慣であることは間違いはありません。)また、間違った諸伝承もあります。たとえば、信徒は年に一回か二回大祭の時に領聖すればよいといった、いつの頃からか定着してしまった考え方で、これはきっぱり拒否して、克服しなければなりません。
 ポリカルプとアニケトスは、この「聖伝」と「諸伝承」のこの関係をよく心得ていました。復活祭をいつ行うかという「伝承」を押しつけ合うことで、「聖なる公なる使徒の教会」の一致を破ってはならないことを、ともに聖体機密に与り、宣言したのです。聖体機密で領聖する事、そして互いに記憶し合うことこそが、信徒の一致・教会どうしの一致のしるしだからです。

ローマ主教ヴィクトルの専横とイリネイの叱責

ところが、数十年後論争が再燃したとき、ローマ教会の主教ヴィクトルは「教皇」というタイトルをバックに、ローマの慣行を小アジアの諸教会へ強引に押しつけました。「教皇の命令」に従わなかった教会を「破門」してしまったのです。これに対して、多くの主教たちが、たとえローマ教会の慣行に賛成であっても、ヴィクトルの専横に反発しました。その急先鋒がリヨンの主教イリネイでした。彼は、書簡を送り長々と「教皇」を叱責した上で次のように言いました。
 「(教会習慣の違い)にもかかわらず、彼ら(諸教会)はすべて平和の内に暮らし、わたしたちも互いに平和の内に生きているのです。…意見の相違こそは、わたしたちの信仰の一致をもたらしているのです」

教会一致への初代教会の合意を継承した正教会

 この「一致」が、「権威」をたてに無理矢理に諸教会のあり方を画一化してゆく事ではないのは明らかです。互いに異なったものが、互いの自由と独立を尊重し、「相違」をこえてハリストスへの信仰と愛によって一つに結ばれること、これがイリネイの言う「一致」であり、初代教会の「合意」でした。異なっているからこそ一致が成立するのです。教会間の真の友愛が成立するのです。
 正教会はまさに「聖伝」としてこの「合意」を守り続けてきたました。ローマ・カトリック教会とやむなく袂を分けているのも、ローマ主教がやがて「ハリストスの代理人としての教皇の権威」は世界中の全教会におよぶとし、他の独立教会へ強引に干渉するようになったことも大きな要因です。ポリカルプやローマ主教アニケトス、さらにイリネイ等当時の主教たちが力を尽くして守った初代教会の合意を破った者たちとは「一致」できないのです。「聖伝」を守るためには教会の一時的分裂もやむを得ない事のよい例でしょう。

ポリカルプの最期

さて、アニケトスとの会談の後、スミルナへ戻ったポリカルプは、「ハリストスに仕えている」というかどで逮捕告発され、火刑に処せられました。
 最後に八六才のこの聖致命者が残したことばを紹介し、この稿を終えたいと思います。ハリストスに堅く結ばれていること、それこそが互いに異なる人々を、互いに異なる教会を結びつける唯一の絆であることを教えてくれます。

スミルナの総督から「誓え。そうすればおまえを釈放してやろう。ハリストスを罵るがよい」と迫られた聖人は言いました。
 「私は、八六年あの方に仕えてきましたが、あの方から不当な取り扱いを受けたことはありません。それなのに、私を救って下さった、私の王であるあの方をどうして冒涜することができましょうか」