名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

悲しみと病から得る利益とその必要性について

ロシア、プスコフ洞窟修道院
スヒマ典院サワ

悲しみ、これは天にかけられた梯子です。天に昇るためには十字架の道以外の道はあり
ませんし、今までもなかったし、今後もないでしょう。このことは聖書の全てが確証して
います。主、主の至聖なる母、主の愛していた弟子たち、そして全ての聖人が悲しみの道
を歩みました。そして主はわたしたちが皆主に倣って、この悲しみの道を歩むように戒め
ています。主は言っています。「自分の十字架を背負い、わたしの後に従わないものは、わ
たしにふさわしくない」と。永遠の生命に入る道に、悲しみと偏狭と多くの試練、最も苦
しい誘惑が伴うというのは、神によって定められているのです。神の約束が偉大で、取り
消されることがなく、計り知れないように、わたしたちにも信仰、希望、苦労、偉大な苦
行、長年の試練が必要なのです。神の使徒は(しん)によって悲しみのために用意された天での
報いを見て言いました。この世の悲しみは永遠の生命に移行した時にわたしたちに現れる
天の光栄にふさわしくない、と。
悲しみの内にありながら感謝することほど益になることはありません。何故なら感謝す
ることで人間に神の助けが下り、感謝によって悲しみがぬぐわれ、悲しみに対する報いが
増えるからです。一方悲しいときに不平を言う人は、忍耐することによる報いを失うばか
りか、裁きを受け、悲しみ自体が増えていくのです。
「義人には憂い多し」と言われています。同様に「主のために働こうとするなら誘惑に
備えなさい」とも言われています。悲しみのない人生を送る人のことを聖使徒パワェルは
不幸だ、と言っています。何故なら、彼等は神に忘れられていて、神の子供たちではない
からです。
神は(たましい)が弱って絶望するほどの誘惑を神に希望をおいているものの霊に許されません。
悲しみとは痛みがあるから悲しいのです。悲しみが心全体を捉えます。しかし、痛けれ
ば痛いほどより癒されるのです。
誰も多大な努力と悲しみによらずに何か善いことを得ることはできません。世の初めか
ら悲しみは神の選びの印でした。
悲しみは人間の心を清めます。ちょうど全てが炉で清まるように。そして神の恩寵によ
り、心を永遠の天の福楽にふさわしいものとするのです。
真に神を愛している霊は悲しみを何とも思いません。逆に悲しみによって楽しみ、悲し
みのために用意された天の光栄を(しん)(れい))で見ながら、不必要な苦しみのうちに花咲くの
です。
悲しみが増えること、これはわたしたちの祈りが主に聞き届けられた証拠です。
悲しみは人を神と救いに近づけます。こういわれているとおりです。「(うれひ)
の日に我を呼べ、我爾を援けん、爾(すなはち)
我を讃榮せん」(第四十九聖詠、十五節)。しかし主はこうは言われま
せんでした。「喜びの日に我を呼べ」とは。
霊的指導者に告白した悲しみは、まさにその告白により癒されます。
凶悪な悪魔が (たましい)を悲しみにふせるのは悪魔が望んでいるその限度までではなく、神が
ゆるされた限度までです。勇敢に悲しみを耐えた霊は、神からの助けと庇護を望みつつ、堅固
に神を恃むことでしょう。霊がとりのこされることなどありえないのです。霊が信仰と
希望をもって神に走りつきながら、信仰の行いに励めば励むほど、主は速やかに霊をあら
ゆる悲しみから免れさせるのです。この効き目のある薬、天の癒し、これが神の憐れみへ
の恃みなのです。
自責は悲しみを耐えるために大変有効です。全てが神の旨によっておこり、わたしたち
の益になるように働いている、と疑うことなく信じなければなりません。悲しみは罪を清
め、時にわたしたちが忘れていた罪までも清めます。「(さばき)せられて主より(こらし)
を受く、世と(とも)に定罪せられざらん爲なり」(コリンフ前書十一章三十二節)
忍耐に匹敵するものはありません。忍耐は動揺と悪鬼から開放し、穏やかな港に導きま
す。悲しみを絶えることは施しや他の多くの善行に勝るのです。
悲しみは神の賜物、偉大なる賜物です。何故なら、一時の忍耐のために言い尽くされぬ
永遠の天の福楽が与えられるからです。この天の福楽を見ることのできた人は言っていま
す。「神が彼を愛する者の爲に備へし事は、目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ入ら
ず」(コリンフ前書二章九節)
息の絶えるまで誘惑に備えなさい。誘惑なしには誰も天の国へ入ることはできないので
す。絶望、小心、誘惑時の憂い、これは霊を滅ぼすことで悪鬼の喜びです。
悲しみなしに善行を得ると思ってはなりません。もしも明らかに罪を犯して、痛悔に走
りつかず、この世からあの世へ移行するまでに何の悲しみもないという人がいれば、彼を
憐れみのない裁きが待っているということを知りなさい。
知恵とは真理を知っていることだけではありません。わたしたちを侮辱する人々の悪意
を忍耐強く耐え、侮辱されたことが自分に当てはまる、と思うことも知恵なのです。
神のためにおこなったことは全て悲しみを伴います。主が愛し、福たる永遠の生命に選
んだ人には絶え間ない悲しみが送られるのです。
もし善行が悲しみなしになされれば、これは善行が神に拒絶された印です。主はわたし
たちの罪のために悲しみを送り、同時に悔いる霊を憐れむのです。
悲しみを通して、主は永遠の生命のために人を育てます。主がわたしたちの罪を罰しな
いとき、これは恐ろしい状態です。「わたしの熱意はあなたから離れ去った。」
救われたい人は常に致命者です。何故なら彼はこの世と肉欲と悪魔の攻撃に耐えている
からです。
肉体をもたない敵(悪魔)との戦いに憂いてはいけません。逆に悲しみのど真ん中と偏
狭の中で、あなたを主のために凶悪なるヘビとの戦いに忍耐し、主のためにいつも傷を負
うにふさわしいものとされた主を讃美しなさい。何故なら、もしあなたが敬虔に生活する
のを止め、神と一体となる努力をやめるのなら、敵はあなたを攻撃したり、あなたを苦し
めたりしないでしょう。
ハリスティアニンの生活の中には喜びが全くない悲しみと病の時期があります。このよ
うな時は、主がまったくあなたを捨てたように感じられます。というのは霊に神の存在を
少しも感じられないからです。これはハリスティアニンの信仰、希望、愛、忍耐が試みら
れる時期です。しかし、そのような人のためには、まもなく再び主の顔かんばせ
から順調な時期が訪れ、まもなく主は彼を再び喜ばせ、人が誘惑の重みで倒れないように取り計らわれるの
です。
人が自由に何の不足もなく満足して暮らしているとき、人はその腹を肥やし、霊的な面
を成長させず、善の実を結びません。一方偏狭や貧しさや病や不幸や悲しみの中で暮らし
ているとき、動物的な側面が押さえつけられるとき、人は霊的に成長し、善行の実を結ぶ
ことになります。つまり熟した豊かな実を結ぶのです。こういうわけで天の父の英知と慈しみは
わたしたちの(たましい)を病や悲しみの手に渡すのです。
善行は悲しみと結びついています。悲しみから逃れるものは、確実に善行からも離れま
す。悲しみなく善行の生活を送る人には、傲慢の門が開かれているのです。
永遠の喜びは、人がこの世の生活で耐え忍んだ悲しみの度合いにかかっています。
悲しみが大きいほど、慰めも大きくなります。
病気になったときは医者や薬の前に祈りを用いなさい。
平安が健康な体に宿ると考えてはいけません。健康な体にはヒキガエルやヒルがいるの
です。そうではなく、平安はわたしたちの死んだ肉体に宿るのです。これは真の平安、イ
イススの平安、わたしたちの知の及ばない平安です。わたしたちにとって悲しみと病は永
遠の宝蔵です。わたしたちを侮辱する者、かれらはわたしたちの真の医者です。それも無
報酬の、無欲の、根深いわたしたちの霊の病を癒す、不治のらい病を癒す、つまりわたし
たちの罪や欲望を癒す医者なのです。
使徒はラザリの病を聞いて、悲しみました。つまり人間的に病を受け止めていたのです。
しかし永遠の真理は言いました。「これは死に至るものではなく、神の光栄に至るものだ」
と。
病人には愛をもって接しなさい。イイススはおっしゃいました。「この小さい者にしたこ
とは、わたしにしたことである」、と。
全てに時宜があるのはよいことです。冬がなければ春もなく、夏もないでしょう。(ぞく)(しん)(てき)
な生活においても同様です。少しばかり慰めがあると、次には少しばかり悲しむことにな
ります。このようにして少しずつ救いの道が整えられていくのです。
悲しみ、これは船です。この船にのって天の祖国へ航海していくのです。
悲しみを愛しなさい。悲しまないものは天の王国へ入れません。何故なら天国の門は狭
く、肥えたものを通すことはできないからです。
偉大なる知恵、偉大なる慰みの源、これは地上のあらゆる悲しみを神ご自身の摂理によ
って与えられたものとして神に感謝することです。
不幸のときに神に感謝する以上に聖なるものはありません。このような人は致命者にも
劣らず、彼等と同じ栄冠を受けるでしょう。
不幸のときに発せられる「神に光栄」ということばは、それだけで、幸福なときに神に
献ずる千の感謝以上の意味を持ちます。
悲しみを感謝して忍耐強く耐えれば、どのような善行以上に神を喜ばせます。この道を
すべての聖人たちは通ったのです。
悲しみや病の唯一の処方箋は忍耐です。全ての秘密は神が送られるものを忍耐するとい
うことのみにあるのです。あなたは自分で気がつかないうちに、天国に入るでしょう。.
悲しみの値
悲しみは忍耐を生みます。
悲しみをとおして霊的な判断が獲得されます。
悲しみにあるとき、わたしたちは神なしに自分たちだけでは何もできないことを学びま
す。この無力感、自分が何者でもないという感覚は神の前での謙遜を養います。ここから
謙遜な祈りが生まれ、この祈りは霊に平安を与えます。このとき心に「弱きものを癒し、
満たされたものを貧しくする」神の力が入り込むのです。
悲しみのうちにあるとき、わたしたちは主がわたしたちの近くにおられると知っていま
す。「主は心の謙るものに近し」とダヴィドの聖詠で聞いているとおりです。
真に主はわたしたちの近くにおられ、今でも奇跡をおこないます。
わたしたちがもし実際に正教会の一員であるならば、どのような神の守りがわたしたち
をめぐっていることでしょう。それは聖人の群です。なぜならわたしたちはひとつの霊的
な体をなし、ひとつの神妙なる軍をなしているからです。天の助け以外の何をあなたはも
とめるというのですか。不幸のとき、病のとき、悲しみのときに、神の教会の構成員であ
る聖人たち、特に主ご自身、神の母、前駆授洗イオアン、他の聖人たち以外のだれに、走
りつくというのですか。
「悲しみにあるとき、爾我に広きを与えたり」 心理学者は言っています。悲しみは心
を締め付ける、と。確かに、悲しみは感覚と自己愛を締め付けるのです。一方で(しん)
(霊)と良心を広げて開放し、無限に導きいれるのです。幸福のときには人間は偉大なように思
え、傲慢で横柄です。しかし実際は卑小なのです。というのも自己をもって制限され、真
の偉大なものから遠ざかっているからです。
不幸にあるとき人は一見小さいようですが、もし人が不幸を信仰で溶かしたならば、外
面的には小さくとも、内面的にはその人は偉大なのです。
悲しみにあるときこそ、人は思いを神へと、自分の生命とこの世の終わりへと向けるの
ではないですか。これは偉大な空間です。悲しみにあるとき、人はこの世のものに冷淡で、
それから遠ざかり、時間と空間の外に立っているのです。悲しみにあるとき人は最も困難
な苦行、喪失、犠牲を決意することができるのです。これは拡大の結果以外の何でしょう
か。概して、悲しみと不幸にあるとき、わたしたちの(しん)には次に述べる物質と同様なこと
がおこります。つまり、なにかの物質を火に投ずれば、物質は柔らかくなり、溶け、蒸発
してしまいます。そのように霊も悲しみによってやわらかくなるのです。もし(たましい)が善良な
ら、よい香りのするものと同様のことがおこります。つまり謙遜と献身の芳香は遠くまで
広がります。もしたましいが穢れていて、悪意に満ちていれば、その霊からは不平や非難
や強情や怒りが発散されているのです。