名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

至聖三者の神

「あたま」では理解できません
 「聖三者(三位一体)の神」は、ハリストスは人であり同時に神であるという「神人両性」とともに、キリスト教の最も大切な教えです。正教会では、十字架を切る時、親指・人差し指・中指の三本の指を合わせ(至聖三者)、他の二本を折る(神人両性)のは、これらの教えへの信仰の表明です。
 聖三者の教えの基本は「神は本性に於いては唯一であるが、神の位格(個位、ペルソナ)としては父・子(ハリストス)・聖神(聖霊)の御三方である」ということです。唯一の神が同時に御三方であり、この御三方が、それぞれ互いに異なった在り様と自由なご意志を持った御方(位格)でありながら神として一体・唯一なのです。これは「あたま」ではとても理解できることではありません。

考え出された意見ではなく、体験された現実
 ハリストスが洗礼を受けた時、ハリストス(子)の上には神の霊が鳩のように降り(聖神)、天から「これは私の愛する子…」という声(父)がありました(マタイ3:16、17)。また主は昇天される時弟子たちに「父と子と聖神の名(名は単数形)によって洗礼を授けよ」と命じました(マタイ28:19)。これら聖書に伝えられる幾つかの啓示を通じて、正教は「聖三者」を、考え出された意見としてではなく、使徒たちが実際に体験した「現実」として受け入れ続けてきました。古代教会時代から今日まで何度か、この人間の理解を超えた現実にあえて合理的な解釈をほどこす間違った教えが出ましたが、正教はその度に犠牲を払いながらも断固として斥けてきました。いくら不合理に見えようとも体験された「現実」は変えられないからです。

クリスチャンの生き方と聖三者
 正教では、神は感覚や知性によっては知り得ず、悔い改めによって開始されるクリスチャンの生き方の中で体験されるものと教えます。まさにこの体験の中心にあるのが聖三者なのです。聖三者は、難解な神学や、「高尚な」精神性に達した少数の人たちの「観想」の対象として、「神棚にあげて」おけばいいものではありません。クリスチャン一人一人が、堕落し孤独な人間の姿ではなく、聖三者の神の交わりの姿を「本来の人間の像」として「生き」始めるなければなりません。そのとき初めて、神を、聖三者として、私たちを生かすものとして体験する道に入って行けるのです。
 私たちは「父と子と聖神の名によって」洗礼を受けます。これは洗礼によって、神の像、即ち「一体にして分かれざる聖三者」(正教会の祈祷文の重要なフレーズ)のあり方が、私たちの内に回復することです。この像を、神の恵みの中で、実際に目に見える「神の似姿(肖)」(創世記1:26)として人々との交わりの中に具体化してゆくのがクリスチャンの人生です。

「至聖三者のイコン」の教えるもの
 では聖三者としての神の像とはどんなものでしょうか?ここに掲げる「至聖三者」というニックネームを持つイコン(アンドレイ・ルブリョフ作、15世紀ロシヤ)は、信仰と美の奇跡として、この神秘をかいま見させてくれます。  
 少しのあいまいさもなくくっきりと描き分けられた三人の天使が、誰が中心というでもなく、誰が支配者というでもなく、出しゃばりもせず、卑屈にもならず、何とも言いようのないゆったりとしたくつろぎの中で、交わりを保っています。どの一人が欠けても、この調和と一体性は破れてしまいます。そこには「永遠」を感じさせる朗らかな静けさとともに、三人が今にも立ち上がって舞い始めそうな動きへの予感があります。
 教会という「神の民の集い」は言うまでもなく、信徒の家庭も交友も、ここにかいま見ることのできる聖三者の像に、つねに差し向けられていなければなりません。