名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

領聖の意味

アレキサンドル・シュメーマン神父「聖なるものは聖なる人に」から

 「ふさわしくないままで、パンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。誰でもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。(コリンフ前書11:27~29)」

 私たちは、この聖使徒パウェルの言葉の真の意味を、自らに問わねばなりません。初代教会も聖師父たちも、この一節を、「ふさわしくないままで、パンを食し主の杯を飲む」ことの反対は「領聖しないこと」であり、聖機密への崇敬と冒涜への畏れから聖なる賜物を受けるのを辞退するのが当然、とは理解していませんでした。勿論、それはパウェルの意図したところでもありません。クリスチャンの倫理と精神性の土台は実際にはあからさまな逆説によって成り立っていることと、パウェルの数々の書簡と諸勧告にこそ、その最初の表現が見出されることを忘れてはなりません。
 パウェルはコリンフの教会にあてて次のように書いています。

 「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分の体をもって、神の栄光をあらわしなさい。(コリンフ前書6:19~20)」

 この言葉はパウェルのクリスチャンへの一貫した呼びかけを、実に的確に要約しています。私たちは、ハリストスの内にあって私たちに「起きた」事にのっとって生きなければなりません。しかし、私たちがそのように生きられるのは、それが既に「起きた」ことだからに他なりません。なぜなら、救済、贖い、和解、そして「代価をもって買いとられる」ことは、既に私たちに与えられ、私たちは「もはや私たち自身のものではない」からです。私たちは、自らの救いのために働くことができ、かつ、働かなければならないのです。いつも、どんな時にも、既にハリストスの内にあって「そうであるもの」にならなければならないし、すでに「そうであるもの」でなければなりません。「あなたがたはハリストスのもの、ハリストスは神のものである。(コリンフ前書3:23)」

 このパウェルの教えは、クリスチャンの生活全体にとって、とりわけその機密的生活にとって決定的に重要です。これは、クリスチャンの生活が基礎づけられ、クリスチャンの生活がそこから芽生え、それ無しにはキリスト教信仰は放棄され完全に骨抜きにされてしまう本質的な緊張関係を明らかにします。私たち一人一人の内のこの緊張関係とは、「彼が惑いの欲に朽つる所の旧き人」と洗礼盤での死と復活を通じて「彼を造りし者の像によりて改めらるる所の新たなる人」(洗礼機密祝文)の間にある緊張であり、新たなる生活に恵まれる賜物とそれを身につけ自らのものにしてゆこうとする努力の間にある緊張であり、「限りなく賜れる(イオアン3:34)」恩寵と常に不十分な自らの精神生活の現実の間にある緊張です。

 しかし、クリスチャン生活とその精神的努力(精神性)の最初の本質的果実は、諸聖人たちが証すように、どんな意味においても「ふさわしさ」の感覚や意識ではなく「ふさわしくなさ=不当さ」の自覚です。神に近づけば近づくほど、人は神の前で全ての被造物が存在論的に「不当」であることを意識し、神の完全に自由な贈与を意識するにいたります。このような真正の精神性は、その贈与に対して私たちを、その内にあってまたそれによって「ふさわしく」してくれる「功績」、という考えといかなる意味でも両立しません。パウェルは次のように言っているではありませんか。

 「わたしたちがまだ弱かったころ、ハリストスは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者はほとんどいないだろう。…しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにハリストスが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ロマ書5:6~8)」

 私たちの「功績」や「ふさわしさ」で、この神の贈与を測ろうとすることは、まさに罪の本質であるあの精神的傲慢の始まりなのです。

 この緊張関係の焦点と源泉は機密的生活の中にあります。まさにここで、私たちは、ご聖体に近づくたびに繰り返し自分たちがそこに取り込まれ、人間の理性や論理をもっては逃れることのできない神の「聖なる網」を意識するようになります。なぜなら、もし自分の「不当さ」ゆえにご聖体を受けないとしたら、神からの愛と和解と生命の贈り物を拒絶する事になります。自分自身に対して「親与を断つ」(破門:excommunication…「領聖からはずす」こと)事になります。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内には生命はない(イオアン6:53)」からです。しかし、もし「ふさわしくなくないままで」食べ飲めば、人は自らへの定罪を招きます。人は領聖しなければ定罪され、同時に領聖しても定罪されてしまうのです。神の炎にふれて燃え尽きないほど「ふさわしい」者がかつていたでしょうか?
 もう一度申します。いかなる人間の思考を用いても、聖なる機密に、人間的基準や物差し、「合理化」の手法を適用する限り、この聖なる「わな」から逃れられません。
 主教や司祭たちさらに一般信徒も含め、とりわけ「精神性」に通じていることを気取る者たちが、現状の領聖の習慣を伝統的で自明のことだと弁護する時にある、安易でもっともらしい意識には、恐るべき危険が内在しています。彼らが「伝統的で自明」だとしているのは、五十一週間は自分の「不当さ」から聖爵に一切近づかないが、五十二週目には幾つか定められた規定をこなし、四、五分間の痛悔機密を受け赦罪してもらい突然にして「ふさわしい」者となり、領聖が終わったら「不当」なる者へ直ちに逆戻り、これこそが信仰生活の「よい姿勢」であるとする習慣です。そういう状況では、クリスチャン生活に真の意味を与え、になうべき「十字架」となり、聖体礼儀で際立って明らかになるものが排除されてしまいます。それは、キリスト教は私たちの物差しや基準に合わせることはできず、私たちの言葉でなく神の言葉に於いてしか受け入れられないことです。

 そのような神の言葉とは一体なんでしょうか。司祭が聖なるパンを高く掲げ、初代教会ではまさに信徒を領聖へ招く言葉であった「聖なるものは聖なる人に」という言葉ほどよくそれを示すものは他にありません。この言葉と、この呼びかけに応えて会衆が発する「聖なるはただ一人、主なるはただ一人、神・父の光栄をあらわすイイスス・ハリストスなり、アミン」は、人間的な思考にとどめを刺します。「聖なるもの」、ハリストスの尊体血は、聖なる人にのみあたえられるべきです。しかし、唯一の聖なる主イイスス・ハリストス以外に聖なる人は誰もいません。かくして、みじめな人間的思考による「ふさわしさ」の基準では、扉は閉ざされてしまいました。私たちを聖なる賜物・ご聖体にふさわしくできる「私たちの献げもの」はどこにもありません。ハリストスが無限の愛と憐れみをもって私たちに分かち与えて下さり、私たちを「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民(ペートル前書2:9)」にしてくださった、ハリストスご自身の「聖さ」以外にはないのです。私たちを「聖なる者にし、ご聖体に近づきそれを受けるに「ふさわしく」してくれるのは、主イイスス・ハリストスの聖さであり私たちのものではありません。この言葉にニコラス・カバシラスは次のように言っています。
 「誰一人として自分自身で聖性を所有しているものはない。その聖性は人間の徳の結果でなく、すべて彼(ハリストス)から彼を通して来るのである。それはあたかも、太陽の下に置かれた幾つかの鏡のようなものである。一つ一つは輝き光を放つ、しかし実際には一つの太陽がそれらの鏡を輝かせているのである。(聖体礼儀注解36章)」

 これが機密的生活の本性的な逆説です。しかし、これを機密のみに限ってしまっては間違いです。「ふさわしくなく食べ飲む」とパウェルが述べる「汚しの罪」は、(領聖に関してだけでなく)生活全体にかかわります。ハリストスによって成聖されたのは、人間の生活全体、魂と体を合わせた人間全体であり、その聖さは私たちのものではないからです。人間に向けられた唯一の問いは、各人が、この聖性を、へりくだりと従順の内に、すすんで受け入れるかどうかということです。それは、まず最初に、そこに「古き人」をその情欲と腐敗と共に釘りつけ、同時に彼の裁きてとなった「十字架」として、次に、彼の内の「新たなる人」の成長と彼がそこに入れられた新しい聖なる生活のために戦う恩寵と力として、自由に愛をもって与えられた聖性です。
 私たちが、ハリストスによって、またハリストスの内にあって、「聖なる者」にされたという、まさにそのことのみによって、私たちは領聖に与ります。私たちが「聖なる者」になるために領聖に与ります。つまり、いただいた聖性を私たちの生活に開花させるためにです。
 人が「ふさわしくなく食べ飲む」のは、これを悟らないときです。言い換えれば、ハリストスのでなく自分の聖さによって自分自身が「ふさわしい」と考えて領聖するときです。また、領聖を生活全体に、裁きとして、自分自身と生活の変容の力として、赦しとして、努力と戦いの「狭い道」への、そこから入るほかはない入り口として、位置づけずに、領聖するときです。
 私たちに思いだけでなく存在全体でこれを悟らせること、私たちを、神の国の扉を開く唯一の鍵である悔い改めへ導くこと、これが領聖の準備の真の意味と内容です。