名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

儀式の意味(儀式主義?)

§正教会は儀式主義で時代遅れ?§

 正教会は儀式主義で現代に合わないと息子に言われ、
 どう説明したらいいか困っています。
(儀式の素晴らしさはわかるんですが、うまく説明できない勉強不足の信者より)

          
【お答えします】

祈りの伝統の柔軟性
 正教会の祈りには 聖像や十字架 ローソクや乳香など、実にいろいろな「物」が用いられます。また様々な動作も伴います。聖職者や堂役はいろいろな物を手に聖堂内を動き回ります。一般信者が聖像などを持ち、聖堂の周りを聖職者とともに行進することもあります。頻繁に十字のしるしを描いたり叩拝や伏拝をします。皆、使徒の時代からの教会の伝統です。

 これを「形式主義」「儀式主義」と軽視する人たちもいます。しかし正教会はたんなる保守主義でこれらの伝統を守っているのではありません。祈りの型の歴史を学べば、時代と地域により祈りの外面的な姿がずいぶん違うことがわかります。現在日本教会て歌っている聖歌も歌詞は古伝の通りですが、メロディーは近代ロシヤの新曲が多く用いられています。それに比べればローマ・カトリック教会が最近まて実際の典礼で用いてきたグレコリオ聖歌などは、途方もなく古い型をかたくなに守ってきたと言えます。また、カトリック教会は先頃まて世界中一律にラテン語のローマ典礼で統一されていましたが、正教会では、福音や祈りが民衆に理解できるよう、古代からそれぞれの母国語で聖書が読まれ祈られてきました。
 「保守主義」とともにこの「柔軟性」が正教会の伝統抑な姿勢です。

一貫して守ってきたもの
 しかし 正教会は「心」だけでなく「身体」と「物」を駆使して祈る事自体は一貫して守ってきました。
 神様が人をお造りになったのはご自身との愛の交わりに招くためです。この交わりが心だけの交わりで十分なら、人は身体を与えられなかったはずです。しかし、神様は、ご自身とのさらに豊かな深い交わりのため、身体と物も与えられたのです。神様との交わりは讃美や感謝、願いや悔い改めなど「祈り」の型をとります。身体ある私たちの祈りは、自ずと身体と物によって表現されます。これが「儀式」てす。言いかえれば儀式は人と神様の本来の関係を目に見える型ではっきりと実現するものです。

身体軽視の現代に於ける「儀式」
 現代は人間の本質を「心」として小さくとらえる傾向があります。人間の本質から不当にも除外された身体が、本来の目的とは異なる全く的外れのことに浪費され損なわれています。「儀式」の中で心と結ばれ、身体は本来の役割と機能を回復します。それは、心身一体の人間の回復に他なりません。
 「儀式主義」結構ではないですか。正教会は他教派より一層キリスト教の核心にある「身体」の大切さの教えを守ってきただけの事です。