名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

克肖捧神者 神父 アントニイの生涯

 克肖者アントニイは三世紀の半ばにエジプトの富豪の家に生れました。彼の両親は彼をハリスティアニンとして教育しました。
 彼は二十歳の時に父母を失い、莫大な財産を継いで幼い妹と二人きりになりました。こうして富をもち完全な自由をもつことは、青年にとって大変危険な誘惑となりがちですが、アントニイは自分の心に深く根ざした敬虞と厳重な規則を破りはしませんでした。彼は神をこの世の何よりも深く愛し、いつでも神を喜ばせることを考えました。

 ある日アントニイは、聖使徒らがかつてハリストスに従うために一切を捨てさった理由と、また初代のハリスティアニンたちが財産を使徒の足下に置いた理由とを考えながら聖堂に入りました。
 その時にわかに福音の言葉である『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう』(マタイ19・31)という声を聞きました。アントニイはこれは自分の思いに答えて下さった言葉であると考え、主に感謝を捧げました。

 彼は自分の財産を売り払い、そのお金を貧しい人々に分ち、幼い妹を一人の敬虔な婦人に託し、自分は尊貴な老人の近くに移り住みました。この老人は早くから自分を主に献じて独り静かに生活を送っている者でした。
 アントニイは数ケ月間老人と共に居て、その教訓を受け、行にならい、厳粛な修士の生活を学びました。その後そこを去って荒野に入り、荒れた古墳を求めその中で生活を始めました。(エジプトでは墳墓は洞窟の中に設けたり或いは岩石をはって作った)
 ここでの生活で彼は、常に神に思いを向け、この世のすべてのものを忘るように努め、、不断に祈祷し、戒めて眠りをさまし、厳しい節制によって自分の肉体を疲れさせるよう努めました。また、椋欄の葉でかごを作りそれをパンに代えました。

 克肖者アントニイは荒野の生活にすぐには慣れませんでした。彼の心には自分で選んだ道を疑問に思う心が絶えず生じ、すでに棄てたはずのこの世の歓楽と、富と地位とを慕う心がしばしば起りました。けれどもアントニイは神のお許しにより、祈祷と勤労とをもってこれらの誘惑を自分から遠ざけることが出来ました。

 後にアントニイは様々な誘惑から逃がれ、自由になれるようになりました。しかしながら彼の心には一つの誘惑が根強く残っていました。
 アントニイは心の中の誘惑が非常に強く、その誘惑と戦うことは至難なことだと実際に知りました。なぜなら、敵は自分自身の中にあるので自分で克服しなければならないからです。それ故常に用心して邪しまな心を自分から遠ざけ、心を正しい方向に向かわせなければ、悪い誘惑に勝つ力がなくなってしまいます。克肖者アントニイは心の中であらゆる誘惑と戦いました。

 アントニイはおよそ十五年間古墳の中で暮らし、時折りかの敬度な老人を訪ねたりしました。しかしアントニイは更に荒野の奥深く人の足跡がない所で独り静かに住むことを望みました。
 彼が三十五才の時、ニール河を渡り、その東岸にある半ば荒廃した古い城跡に移ってそこで暮らし始めました。野獣が住むこの荒野の中では、彼は生活に必要な物はほとんど失ってしまい、しばしば飢餓と渇きや寒さ暑さに耐えしのびました。しかしながらすぺてを喪失したことは、心の中の最も苦しい戦いにくらべれば問題にはなりませんでした。この荒野は彼の心に、すべての喜びや魂を奪うような想像をさせ、また時として、あらゆるものが暗黒に包まれ、また、彼を非常に疲れさせる恐怖の念を起こし、彼の霊魂を占領してしまうかと思わせるような様々な悪魔を充満しているように思わせました。

 終日虚しい思いによって疲れ果てた克当者アントニイは、心より悲嘆して声に出して『主よ私は何をしたらよいのですか。私は救いを得ることを望んでいます。けれど、諸々(もろもろ)の思いは私を妨げてしまいます。』といいました。その時たちまち人があらわれました。そしてその姿が自分そっくりの人だと気づきました。 その人物は座って働き、その後働きをやめて祈祷し、祈祷の後また新たに業につきました。
 アントニイはその時初めて、不断の勤労と祈祷とが神を喜ばせ、心の平安を縁るために最良の道であることを悟りました。彼は肉体的辛苦と精神的戦いとの試凍に耐えることによって清明安然の地位に達しました。

 克肖者アントニイは、この荒野で二十年を送りました。最初の頃はまれに訪れる訪間者だけでしたが、そ後アントニイの噂を伝え聞いて教訓を受けるために来る者が日一日と多くなって、エジプトの荒野は多くの苦行者の住む所となりました。

 アントニイは初めは訪問者に接するのに洞穴に穿った小窓から接してしまいましたが、多くの訪問者や教導を請う人が絶えませんでしたので、ついに自分の閉居をやめ、多年実践で得た経験をもって近者を助けることにしました。だから訪問者は益々多くなりましたが、アントニイは常に愛をもって接し、望む者には勧説教訓を与え、主より賜わった恩寵の力によって病者をいやしました。

 この頃ローマ帝国皇帝デオクリティアンは、ハリスティアニンに対し迫害を加え、それは並々惨酷をきわめるようになり、言葉ではいい表わせないほどでした。
 克肖者アントニイは、迫害を受けた地方から来た人々よりハリスティアニンの苦難のことを聞き、急いで数人の弟子を伴いアレクサンドリアに向いました。彼は長い間人跡の絶えた荒涼とした原野に住んでおりましたが、近者を愛する情は失っていなかったので、ハリスティアニンと苦難を共にすることにしました。彼は愛の言葉と心によって迫害を受けた者達を助けようと計りました。

 彼はハリスティアニンがつながれている牢獄を訪ね、獄使らに面会が許されなかったので、裁判所に出頭し祈祷をすることで信者の心を固めました。そのために自ら危険にさらされることもしばしばありましたが、主は多くの人々のために彼を守りました。
 克肖者アントニイは荒野に帰った後、弟子達を集め、勧説と模範とをもって信仰を教えました。このようにして、彼はピスペルと呼ばれる修道院を建立しました。それからは修道の業は日に日に盛んになり、荒野の各所に修士が住むようになりました。ある者は共住修院に住み、またある者は各自で別々に住みました。克肖者アントニイは修道の業の開基者としてすべての修士を指導しました。

 アントニイは修士達を論していいました。  『どうぞ皆さんは各自で自分の考えた苦行を志をまげずに、常に新しい気持ちで続けなさい。美徳を増やすことが多くの人々のためになりますから、それを第一の規則としなさい。私達は全世界において、何一つとして天の邸宅とくらぺるぺきではありません。だから、多くの者を奉献したように誇ってはいけません。』と。

 克肖者アントニイは続けて、『私達は神の忠義な下僕(しもべ)のように常に勤労しなければなりません。なぜなら公義の報酬者がその人の行いを全て明らかにされるからです。
 私達は不注意におちいるのを免れるため常に聖使徒の言葉を記憶しなければなりません。聖使徒らは「私は毎日死す。」と言いました。私達は、夜の眠りより覚めたあと、その日の晩まで生きながらえると思ってはなりません。また夜の眠りに就く時は、翌日の朝陽を必ず見ることができるとは限らないと考えなければなりません。
 地上の全ての物が変化しつつあり、同じ状態にはないことを忘れてはなりません。
 毎日、死に備える者は、自分を罪より妨ぐことができるのです。』  と、修士達に対して、語りきかせました。

 更に克肖者アントニイは、やって来る修士や弟子たちに対して、いろいろな教訓を垂れて教えました。
 『聖書には、「怒りをおそくする者は勇士にまさる」(箴言16・32)とあります。だから十分に耐える者とならねばなりません。それは神は耐える者に宿るからです。
 温和な者となりなさい。温和は永生の泉です。また、謙遜になるよう努めて、おごりたかぶることを遠ざけなさい。おごりたかぶることは神に対する不従順です。けれども謙遜と悲痛とは神に喜ばれます。自分自身を謙遜することで、神の慈悲は死ぬまでゆきわたります。
 死とはすなわち十字架のことです。
 高慢を避けなさい。かって高慢によって多くの者が滅びました。高慢は人をして種々の難行・禁食・祈祷および夜間の眠りを戒めて覚ますよ,つ企てさせ、また人々の前で施しをさせる。けれどもこのために来世においてそれに報われるものは恥と汚辱となるであろう。
 悪言を言わないために舌をおさえなさい。悪言は毒よりも害です。毒をもって被った傷はいやすことはできます。けれども悪言は言ってしまえばもとにもどすことはできません。
 児輩よ、謹慎を得ることに努めなさい。また、すでに得たならばこれを棄ててはいけません。すべてに対し心の謹慎を得た者は、知識が健全になって多くの人に力をもつことができるのでしょう。』

 アントニイが修士のために書いた教訓二十編は現在の私達まで生きています。この他彼はいろいろな言葉で修士、たちを教えました。

 この頃彼の知恵と聖なる行いを聞き、その名声に引かれ、教えを請う者が絶えませんでした。有名なエジプトのマカリイ、アレタサンドリヤのマカリイ、パレスチナのイラリオンなど多くの人が彼を訪ねて来ました。時には異邦の哲学者も訪ねて来て、自分の博識で彼を辱かしめようとしたけれども、神の教えによって聖せられたアントニイの深い英知に驚かされて去っていきました。
 大帝コンスタンティンや皇子も彼に書を遣わして教訓を請いましたが、アントニイはそれに答えて王者は公義なる者であって、慈仁なる者となるべきこと、主神が天下万民の王であることを記憶して忘れてはいけないと勧説しました。

 ところが来訪者が多くなり名声があがると、謙遜なアントニイは重苦しさを感じましたので、彼は修道院を整理して再び独居することを望み、もって遠い荒野に向かうことを決心しました。彼は少しばかりのパンを携えて荒漠たる原野に出発しました。
 三日間旅した後、彼は山に登り、その頂上からシナイの山を望み、エジプトの荒野を見おろしました。彼はこの場所にとどまり、ささやかな彼の小屋を作って独居しましたが、そこから時として修道院を訪ね、教訓を書いて兄弟達を指導しました。

 この時アリイ(アリウス)の異端が起こり、克肖者聖アントニイを大いに憂えさせました。彼は修道士に偽教の影響を被らせないために、これを防ぐことに尽力しました。
 彼は書を著わしてその中で、『アリイは無始なる者に始まりを付け、無終無限なる者に限りと終りとを付けました』と述べました。遁世者は大いに異端を取り除くために決心し、自らアレキサンドリヤに行きました。そして真理を愛するために荒野より大遁世者が世に現われたことは、アレキサンドリヤの人々に強い感得を呼び起ごしました。

 アントニイ伝を著わした聖アファナシイの話によれば、アントニイはアレタサンドリヤで多くの奇蹟を行い、病いをいやし、多くの異邦人を主に帰せしめたと言います。
 この地で彼は聖アファナシイを助けて正教を固めるごとに尽力しました。聖アファナシイが島流しにされた時は、彼のために皇帝の前で彼を弁護しました。

 克肖者アントニイが荒野にもどってからの詳しい事情は不明ですが、彼がフィワのパウエルに逢ったことと、克肖者パウエルという人を門弟としたという言い伝えば今も残っています。彼は弟子に対して父が子にもつような愛で接しながら、しばしば書を送り教訓しました。

 しかしついにアントニイは自分に死期が近づいたのを感じるようになったので、力が衰えたのも顧みず、最後にもう一度だけ修道院を訪ねることにしました。
 彼はそこで修士たちに『至愛の子輩たちよ私の最後の教訓を注意して聞きなさい。私はこの生涯においてあなた方を見ることはできません。私はすでに百五才になりました。運命は私の肉体がもう死ぬ時であることを知らせています。』と告げました。

 修士たちはこの言葉に打たれて、声を出し涙を流して嘆き悲しみました。それを見てアントニイは、さらに続けて『あなた方は嘆くことはありません。ただ心霊を清くして、偽教者らと交わらず、私たちのイイスス・ハリストスの教えを固く守りなさい。』と言いました。
 修士たちは最後の日まで自分たちと共に過ごすようアントニィに請いましたが、彼は自分の住んでいる荒野で死ぬことを望みました。
 死に臨んでアントニイが、そばに居た二人の門弟を呼んで祝福を与えたところ、天上の喜色がその顔にあらわれたということです。これは実に三百五十五年一月二十九日のことでした。
 彼の死後門弟たちは、彼のために長い間嘆き悲しみました。修道院に彼を訪ねてくる人たちには、彼らは泣きながら師の住んでいた小屋を指し支した。そして多くの人々は自分の心の中に克肖棒神者アントニイを忘れないで記憶し、熱心に彼の教訓に従いました。
 間もなくアントニイの小屋があった山は、彼の聖なる行いにならおうと訪ねて来る遁世者の住む場所となりました。