名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

全ロシアの奇蹟者府主教・聖アレクセイの生涯

 聖アレクセイは1293年、モスクワに生まれました。その父フェオドル・ヴャコントは、チェルニゴフ侯国の名家の出身でした。

 当時南ロシアは、しばしば蒙古人の侵入を受け、人びとは財産を掠奪されるなどの被害がありました。そこでヴャコントは家族とともにモスクワに移りましたが、国王ダニイル・アレキサンドルヴィチに重く用いられ、王子イオアンがヴャコントの長男エレフフェリイ(のちの聖アレクセイ)の洗礼の代父になった人です。

 エレフフェリイは幼い時、自分の将来の運命を預象する、奇妙な夢を見ました。

 その夢とは、ある日小鳥をつかまえようと野原に行って一日中網を張りましたが一向につかまらず、しかたなく昼寝をしました。すると、どこからともなく「アレクセイよ。あなたは人を漁すべき人なのに、一体何をしているのですか」という声を聞き、驚いてとび起きましたが、いま呼びかけた人が誰なのか、また何を言おうとしているのか、彼には理解出来ませんでした。しかし、この奇妙な夢を見てから彼の性格は一変し、子供の遊びをせず、聖書の研究を好むようになったのでした。

 それから歳月を経るごとに、エレフフェリイは聖書の研究がますます好きになりました。彼は名家に生まれたので、だまっていても高官の道が開けていましたが、聖書研究が高じて修道院に入る決心をしました。そして二十歳の時、モスクワのボゴヤウレニイ修道院に入って修道士となり、その名もアレクセイと改めました。

 修道院に入ってからのアレクセイは、日夜祈りと禁食を守って心を鍛錬し、20年を経て真のハリステアニンとしての心を身につけました。同時に聖書の奥義を究めようと、ギリシャ語を学び原書を参考に、福音書の多くの箇所を校正しました。アレクセイの手で校正された聖書は、今なおロシアの奇蹟修道院に保存されており、聖アレクセイの記念祭の聖体礼儀の際に誦読されています。

 聖ペトルの後任、モスクワの府主教フェオグノストはアレクセイの人徳と学問の深さを耳にして、当時混乱していたモスクワ諸教会の事務を委ねました。彼はその期待に応えて数多くのトラブルを処理しました。

 教会事務に手腕をふるっていた頃、彼は自分の属するボゴヤウレニイ修道院の掌院ステファンの弟、セルギイと知り合い、交友を結ぶようになりました。このセルギイという人はラドネジの森にひとりで住み、祈りと禁食を守っていました。アレクセイは教会事務のみならず、国政にも参加する多忙の身であり、ふたりの立場は全く異なっていましたが、生涯交友は絶えませんでした。

 さて、府主教フェオグノストはアレクセイに接するにつれて、次第に自分の後継者にしようと考えるようになりました。そして主教に叙聖し、ウラジミルの主教区を統轄させました。また自分の死後の教会の混乱を防ぐため、国王の認可を受けてコンスタンチノープルに使者を遣わし、総主教とピグレチヤ帝にアレクセイを次の府主教に叙聖するよう請願しました。

 ところで、この頃のコンスタンチノープルは、まだトルコ人に征服されておらず、ロシアの府主教となるためには、まずコンスタンチノープルの総主教の祝福を受けねばなりませんでした。

 コンスタンチノープル総主教はフェオグノストの申請を許可したので、アレクセイはコンスタンチノープルへ呼ばれました。

 これより先、府主教フェオグノストの使者がモスクワに帰った時、全ロシアにペストと呼ばれる疫病が広まり、府主教も国王も亡くなっていました。まず府主教が亡くなり、しばらくして国王も亡くなりましたが、臨終の時「府主教フェオグノストの推挙のとおり、アレクセイを後任とするように。」と言い残しました。時にアレクセイ、60歳のことでした。

 

 アレクセイはコンスタンチノープルにおいて総主教の手で叙聖されましたが、すべてが順調に運んだわけではありませんでした。

 まずブルガリヤの総主教が別の候補者を立てようとしました。もともとブルガリヤの総主教にはロシアの府主教を選ぶ権利はなかったのですが、強引にフェオドリトという人物を立てようとしたのでした。

 さらにコンスタンチノープルでも王位継承で紛争が起こりました。

 ロマンという反対者が王位をめぐって紛争を起こし、ロシア府主教叙聖問題にも影響が及んだのです。総主教フィロフェイは、自分の反対者が王位についたので、一時コンスタンチノープルから離れたのですが、その間に新任の総主教がロマンを全ロシアの府主教として叙聖してしまい、ロシアにふたりの府主教が誕生するという自体になってしまいました。これによってロシア教会は混乱し、アレクセイも総主教に訴えましたがどうすることも出来ず、遂に府主教区が二分され、大ロシアをアレクセイが、小ロシアをロマンがそれぞれ統轄することになってしまいました。しかしキエフ主教区はアレクセイの統轄下に置かれることになりました。

 アレクセイはモスクワに帰ると統轄下の教会を治め、自らを鑑として人びとを教化しました。彼はある手紙の中で次のように書いています。

 「あなたがたにハリストスの譬えばなしをお話ししましょう。主は『種を播く者がいる。播かれた種は道ばたに落ちるもの、やせた土地に落ちるもの、そして肥えた地に落ちるものとがある』と言われました。ここで言う『種』とは神の言葉、『地』とは人の心を指します。あなたがたは自分の心を怠惰な神の果実を結ばぬ、いばらの地にしないように心がけて下さい。神を畏れぬやせた土地としないで下さい。自分の欲望のままに生きる路傍の地にならないで下さい。神は私たち一人ひとりをこのようなやせた土地から救い、その心を神の福音を受けるのに適した、肥えた土地のようにされ、30倍あるいは60倍、あるいは100倍の身を結ぶように導いて下さいます。」

 「ハリストスはお弟子たちに『捧げものを祭壇に献ずる時、もし兄弟の間で争いごとがあるならば、まず和解してから献じなさい』と言っておられます。ですからあなたがたが聖堂に入る時は、平和・親睦・相愛の心を持つようにしなければなりません。また聖堂に入る時は、身なりを正して畏敬の心をいだかねばなりません。なぜなら、聖堂は神の宮殿だからです。このようにすれば、あなたがたの祈りは必ずや天上の父のもとにとどくことでしょう。」

 聖アレクセイの名声はますます広まり、遠く蒙古にとどくほどになりました。

 その頃蒙古国の夫人タイドーラが重い病気にかかり、ついに失明してしまいました。様ざまな治療を施しても治らず、半ばあきらめかけた時、府主教アレクセイのうわさが夫人の耳に入り、是非とも会いたいということで国王は使者をモスクワの国王イオアン・イオアンノヴィチに遣わしました。その親書には「あなたがたの神品で、神に祈ると必ず願いが聞きとどけられるという人がいると聞きました。その人を是非わが国によこして下さい。そして祈りが聞きとどけられ、私の妻の目が再び見えるようになれば、永久に両国の和解を約束しましょう。しかし、もしその人を遣わさなければ戦わねばならないでしょう。」

と記されていました。

 国王はこれを読んで大いに驚き、アレクセイに見せて言いました。

 「蒙古国王の言う通りにしなければロシア全土は戦場と化してしまうだろう。また夫人の眼が治らなかったなら、自ら進んで死を受けなければならない。」

 しかしアレクセイは人一倍祖国ロシアのことを思っており、しかも堅く神を信じていたので、顔色ひとつ変えず「失明を治すことは私ひとりの力ではどうすることも出来ません。しかし、こんな無力な私にも神はきっと力を貸して下さると信じています。」と言うと、すぐさま旅の準備を始めました。

 旅装が整うと、まず府主教ペトルの墓に赴き祈祷しました。祈祷の際棺のとなりに立っていた燭台に火を点じましたが、アレクセイはなぜかその燭台が幸福をもたらすのではないかと感じたのでした。

 府主教アレクセイは無事蒙古の都に至り、直ちに病人のいる建物に入ると墓から持参した燭台に火をともし、、主に祈って夫人に聖水を注ぎました。すると夫人の眼は開き、再び視力を取り戻したのです。

 王と夫人はこの奇蹟を見て大いに驚き、アレクセイに様々なお礼の品を尽くしてモスクワへ帰しました。

 それからしばらくして、アレクセイはロシアの危機のために再び蒙古へ向かわなければなりませんでした。

 蒙古の王子が反乱を起こし、王と自分の兄弟を殺害して自分が王になり、ロシアに対して重税を課してきたのです。しかもロシア全土の諸侯を武力をもって自分の支配下に置こうとしました。

 ロシアの人びとはふるえあがりました。また、ちょうどその頃、国内で内乱があったので諸侯が力を合わせることも不可能でした。諸侯が集まって討議した末、アレクセイを派遣してとりなすことで意見が一致しました。それはアレクセイがかつて国王の夫人を癒したので、蒙古国内で尊敬されていたからでした。

 国王や諸侯そして国民のために、アレクセイは自分の老衰をも顧みず再び蒙古へのつらい旅をしなければなりませんでした。そして主の恩寵によって国王の心を神のみ手に帰し、前国王の頃と同様の国交を約束させたのでした。

 アレクセイは二度にわたってロシアの危機を救いました。諸侯・国民はヴォルガ河まで彼を迎えに行き、感謝の意を表しました。

 神品たちは聖像と聖旗を捧げて迎え、黒山の如く集まった人びとは、ロシアを救った聖アレクセイを一目見よう、あるいはその衣服にふれようと先を争って混乱をまねくほどでした。

 その後、またも力を尽くさねばならない事態が起こりました。

 ロシア国王イオアンが急逝し、その幼子デミトリイがモスクワで即位することになると、スズダリ侯デミトリイ・コンスタンチノヴィチがにわかに反対して、居城ウラジミルに籠城してしまったのです。

 アレクセイはモスクワにいて、直ちに幼子デミトリイの王位継承が正統なものであることを訴えました。スズダリ侯は仕方なくあきらめましたが内乱は止まず、リトウ侯オリゲルドなどは兵を挙げてモスクワを包囲し、モスクワ近郊の村々で掠奪・放火を行い、ますます収拾がつかなくなってしまいました。

 その時、聖アレクセイは殺気立つ諸侯の間を奔走して仲介役に徹しました。また、幼帝デミトリイを補佐したので幼帝から父のように慕われ、信頼されました。

 アレクセイの努力で、やがてロシアに再び平和がおとずれました。アレクセイは再び教会の仕事に専念出来るようになり、国内に数多くの聖堂と修道院を建てました。

 その中でもスハス・アンドロニクの修道院は、アレクセイがコンスタンチノープルからの帰り、黒海で遭難しかけた時の祈りで誓ったことから建てられました。

 また、アレクセイの女子修道院、ミハイルの奇蹟にちなんでクレムリンに建てた奇蹟修道院も、同時に建てられたものです。

 その後もアレクセイは神の恩寵により、多くの業績を残してきましたが、次第に自分の生命の終わりを感じるようになりました。

 そこで後継者を決めようとトロイチの修道院から聖セルギイを招きました。そしてその意を告げ、待者に十字架を持って来させてセルギイに授けようとしました。

 しかしセルギイは床にひれ伏し「ハリストスの大いなる司祭長よ、私をお許し下さい。私は若い頃から清貧であることを望み、金銀を持たないよう心掛けてきたのですから」と言って、どんなに説得しても後任になることをこばんだのでした。

 その頃ロシア国王は掌院ミハイルを特別にかわいがっていたので、しばしばアレクセイに働きかけていました。

 けれどアレクセイは、ミハイルが高慢な人間であることを見抜いていたので、国王の意見には従いませんでした。

 府主教アレクセイは、いよいよ自分の死が近づいたことを知り、国王デミトリイを招いて祝福し、最後の教えを授け、感謝祈祷を終えると永眠しました。時に1378年2月24日、85歳のことでした。

 国王、神品をはじめロシア全国民がその死を悲しみ、アレクセイが自ら建立した聖ミハイル聖堂に葬りました。

 聖アレクセイの死から60年後の公祈祷の最中、突然聖堂の弓形の天板が真二つに裂けるという事故がありました。

 そこでワシリイ侯はそれまでの木造の聖堂に代えて、石造りの聖堂を建てたのでした。

 聖堂の土台の工事の時、聖アレクセイの不朽体を発見し、後にイオアン・ワシリイヴィチ侯の時、奇蹟修道院の境内に聖アレクセイ聖堂と名づけた聖堂を建立し、その中に不朽体を移したのでした。

 さらに1696年5月20日、時の王イオアンとペトルは、福音堂と聖アレクセイ聖堂の間に、もう一つ聖堂を新築し、再び不朽体を移しました。

 不朽体を移してからは多くの奇蹟が起こり、聖アレクセイの光栄がたたえられたということです。