名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

向上

第三福音(マルコ伝十六章九節から二十節)

 「真理」に対する偽りの教えはすべて「蛇」です。救い主・「神人」に対するすべての反抗は、死をもたらす飲み物です。このどちらも致命的に私たちの魂を刺し、毒し、永遠の毒である死の眠りに入らせます。真理は心を安らかにして生かしますが、偽りは心を苦しめ、心の真の生活に死を与えます。

 最後の滅亡へと急ぐ堕落したこの世の中では、すべてがハリストスの恐るべき純潔さに敵対しています。人の心から天から来る光を覆うためにこの世はあらゆるものを考え出し、何でも実行するのです。蛇がうごめき、死の泉がひらめいている私たちの古い地を見るためには、私たちが特に霊的な人間になる必要はありません。単に正直で公平な人間になるだけでよいのです。私たちの目は悪に慣れ、危険を見落とすことに慣れました。けれど主は私たちを憐れみ、私たちが困らないように現実の悪い部分を隠し、私たちを保護し、覆われます。とは言っても、主は私たちが善に向かうのも悪に向かうのも自由にさせてくださっています。そこに私たちの一時的なこの世の人生の意義があるのです。

 悪の誘惑は私たちの自由の範囲内で行われます。私たちは踏みとどまることができます。けれど、すべての者が真理と純潔に踏みとどまろうとはしません。無形の敵は日々刻々と私たちを襲います。けれど、悪を防ぐには、永遠の真理と最高の完全な生命の幹であるハリストスという幹に自分を細い枝として結びつけるだけでよいのです。永遠の先から偽りを言わない神を心から信頼すること、救い主を信仰して自分の生命よりも主を愛し、疑惑が起こっても主を自分の知識の判断の上に置くこと、これこそ「己の生命より多く」神を愛することを意味するのです。ハリストスは救いと仁慈と愛の生ける神です。自分をこの愛に結びつけることは、ハリストスが藉身(受肉)した神であることを信じ、そのすべての言葉はこれを実行する者にとって永遠の命であると信じることによってのみ可能なのです。この世の暗黒の君であり戦慄しつつあるサタナは、神が私たちそれぞれの人から期待している神への愛着に対して、あらゆる憎悪と狂騒で敵対しているのです。

 ハリストスの先駆けと騙る者たちは、神と人とを切り離すためにこの世の欲との闘いが困難なことを利用してキリスト教の「無力」を叫んでいます。罪の要求は「本性の要求」とも言われるのですが、数十万、数百万の人々は、抵抗もしないで自分の心を放蕩や無知な罪にゆだねてしまっています。最後の審判で私たちが受けるはずの報いでさえも疑わせることによって私たちの心を刺し傷つけ、そのことが堕落の第一歩となっています。

 信仰のない心は、罪の前には弱くもろいものです。ですから、この世の悪の旋風がこの世界で信仰をゆすぶるのです。

 けれど“ハリストスの来世”に対する信仰を誰がどのように揺り動かそうとも、“凡そ主の名を呼ぶ者は救われ”ます。地球の終末に救われるのはもちろんですが、現在においても救われます。ハリストスを心から呼ぶ者は皆、その信仰によって救われます。それは主が聖なる名と同じく至る所にいますからです。

 主を呼んで信仰し、瀕死の魂を清いハリストスの泉に投じた者はすべて、蛇を押しつぶすことができ、毒を飲んでも死なない権利を神から授かるのです。自分を保護する者に対しては、悪魔もその死の息をかけません。ただ、その人の周囲を荒れ狂い、胸に迫り、心を締めつけるだけです。人の聖なる心には入ることはありませんし、入ることはできないのです。人は、悪魔を焼く信仰によって救われます。信仰のある光照された智慧は、火となって悪魔の奸計を焼き尽くします。最高の認識を与える精神の恩寵は、その智慧のうちに輝き、その全組織を改造します。
 真の信仰は盲目ではありません。この信仰は、疑惑やささやきのために動くことはありません。この信仰はすべての悪を直視し、これを透視してこれを暴露します。ですから真の信者には、その心に天上の安らかさ、霊には幸福な不動の静けさがあります。なぜなら、彼らは塵の中をはう蛇とこの塵の中を流れる死の泉の上に立ち上がったからです。復活の喜びをあらかじめ味わった者にとっては、もはや死の水は存在しません。