名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

生神女マリヤへの理解

正教会ではマリヤさまを拝みますか?

拝みませんが、讃えます
 正教会ではイイススの母マリヤを決して神格化して「拝み」ませんが、生神女(しょうしんじょ)というタイトルを献じ、尊敬し日々の祈りの中、また教会の奉神礼(礼拝)のなかで讃えます。生神女はテオトコス・神を産んだ女という意味のギリシャ語で、古代教会では全教会が用いていた大切なタイトルです。このタイトルに反対する人たち(ネストリウス派・後に中国に渡り「景教」と呼ばれます)が5世紀に現れ、エフェスで開かれた第3回全地公会議で破門されました。神の籍身(受肉)という神が人となられたというキリスト教の根幹にある教義と密接にかかわる大切なタイトルですから、正教会は「聖母」というあいまいなタイトルは好まず、今も生神女と呼び続けます。

ローマ・カトリックの「無原罪の宿り」という考え
 さて、正教会がなぜマリヤを讃えるかということですが、決して神格化して讃えているわけではありません。むしろ、ローマ・カトリック教会が近代になって教理として宣言した「マリヤの無原罪の宿り」という考えには強く反対しています。この考えは、マリヤは私たちと異なりその両親から原罪を引き継がずに生まれたというものです。原罪は、正教会的な理解によれば、人類の元祖アダムとエヴァが犯した罪によって人間に生じた、人間性の病・ゆがみですから、このハンデキャップなしにお生まれになったマリヤが、清らかなご生涯を送られたのは当然と言うことになります。(ちなみに原罪という言葉も正教会は西方教会的な法律的理解による原罪観と混同されないよう、なるべく避ける傾向があります。陥罪という表現がよく用いられます)。

普通の人・マリヤ
 しかし、それではマリヤは私たち・教会を体現するお方、クリスチャンの生き方の模範ではなくなってしまう、と正教会はこの教理に反対します。正教会の理解では、マリヤは私たちと全く代わらない普通の人として、もちろん原罪というハンディキャップも負ってお生まれになりました。しかし、神の母となる者として、神から特別の恵みを受け、あのような従順と清らかな生涯が可能となりました。これは、私たち自身にも、もし、神の恵みの中で、マリヤのように神のご意志に同意してゆくなら、マリヤの実現した生き方が可能だということです。そして、いまや、クリスチャンは神の恵みの中に生きています。私たちは「神の性質に与る者(ペテロ後書1:4)」になる希望の内にいます。マリヤを「無原罪」とし、普通の人間より優れたお生まれの方とすることは、私たちからこの希望を奪い去ってしまいます。「どだい、生まれが違うんだから俺たちには無理」となるのです。

 神が確かに人となられたこと、そしてクリスチャンの「光栄から光栄へ(コリント後書3:18)」の成長の希望のしるしとして、私たちは生神女マリヤを讃え続けます。