名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

神父の痛悔機密

§質問§

 一般信徒は領聖のために、毎回事前に「痛悔機密」を受けなければならないと教えられていますが、神父さんは受けなくてもいいのですか?

<答え>

受けなければなりません
 聖職者だからといって罪を犯さないわけはありません。むしろ、奉神礼の主宰、牧会、伝道といった重責のなかで、罪を犯す機会は一般信徒より多いのです。
 従って、司祭が聖体礼儀・領聖に先立ち痛悔機密を受けるのは当然です。輔祭は司祭に、司祭は主教ないしは同僚の司祭に…、主教も、主教に痛悔機密を与えるという聖務を託された『ズポーニク』という修道士に受けなければなりません。

「でも受けていないじゃないですか?」
 そうですね.残念なことですが、現実には司祭一人の教会では、毎回は受けられません。そのかわり、教区の会議や司祭の研修会などの機会に、先輩や同僚の神父様に痛悔機密で告解します。良心に負担が重く次の聖体礼儀をとても冷静に執行できないような罪を犯した時は、何を置いても直ちに、主教のもとないし近隣教会へ向かい痛悔機密を受けなければならないでしょう。

「でも毎回受けないのはルール違反では?」
 正しい信仰はルールを守ることそれ自体ではありません。「領聖に先立つ痛悔機密」は「前夜からの禁食」とともに、規則(ルール)です。そしてこれは「信徒は心と体を備えた上で、領聖という、神との交わりを深め教会の一致の証となる機密を守るべし」という信徒の「心得」からでています。準備と領聖は共に守るべき「心得」です。
 この「領聖に備えよ」という「心得」は、最後の晩餐で「取って食べよ、取って飲め、このパンとぶどう酒はわたしの体、わたしの血であり、罪の赦しの新しい約束である」と定められた主への信仰と実は一体です。自分の罪深さや、心身を病んだ惨めさへの「私の力では立ち直れません、主よ、憐れんで下さい」という「痛悔の霊(50聖詠)・砕けた悔いた心(同箇所口語訳)」という前提(準備)があってこその「罪の赦し」の約束だからです。この「痛悔」という準備を欠いてそこに喜びがあるでしょうか?

「痛悔」こそ領聖の準備の本質
 この痛悔を深めるのが領聖(喜び、天国)への準備の本質です。領聖に先立つ「痛悔機密」は、この「痛悔」に心を向ける良い機会として、現在世界の大方の正教会で規則とされています。
 その機会が毎回得られない聖職者は一層祈りや斎を通じて痛梅を深め、また機会ある毎に痛悔機密を受けねばなりません。信徒に告解を強いつつ、自分は罪の自覚を深める努力を何もしないで、いの一番に領聖できるはずがありません。