名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

立って祈る

§質問§

疲れやすい体質で日曜のお祈りで半日たち続けているとげっそり疲れ、つい参祷が 億劫になります。また、疲れたら座っていいのですと親切に言われても、お年寄りが 立っておられるのを見ると気兼ねで座れません。

<答え>

最も大切なことは何かを忘れないで
 日曜日は「立つ」ために教金に集まるのではなく領聖するために集まります。日曜には立って祈ることや、ロウソクの「正しい」献じ方など、正教会の聖伝をよく知っていること、よく守っていることを見せびらかしに集まるのではありません(マタイ6:5)。まして、我慢くらべ、「敬虔さ」くらべに集まるのではありません。ハリストスが最後の晩餐で命じられた「取って食べよ」「この杯から飲め」(マタイ伝26:26~30をぜひ読んで下さい)というお命じに喜んで従うため、ご聖体を受けてハリストスの「永遠の生命」をいただくために集まるのてす。

座って下さい!
 この 最も大切なことを肝に銘じていただければ、気兼ねなど無くなるはずです。丈夫なお年寄りもいれば、体の弱い若者もいます。みな、それぞれのやむを得ない肉体的事情がありますが、クリスチャンの目的は一つです。神様のお体を受けることです。そして領聖の喜びを家庭や隣人へ持って帰り、みんなを領聖へ招くのです。「快い充実した疲労感」でなく「げっそり消耗した疲労感」で教会から帰ってきたら、周囲の人々に領聖の「喜び」を表現できません。これでは「ハリストスの福音(喜ばしい知らせ)を伝える」という教会の目的を充分果たせません。ですから、体の弱い方、足腰に障害のある方は老若に関わり無く腰掛けて下さい。
 気兼ねはしてはいけません。「お掛けになって下さい」はもちろん「いたわり」てもありますが、教会の目的から来る「お願い」でもあるのです。皆さんが「立てない」という心の負担だけで、次第に参祷されなくなり、ハリストスの愛、ご聖体から遠ざけられることがあってはならないからです。「気兼ね」という「自分の思い」は克服して最大の信徒の本分である領聖を果たして下さい。

日曜日に「立って祈る」のは?
 確かに日曜日に立って祈るのは正教会の伝統(第1全地公会規則20条・第6・90条)であり、健康な者は立つことが求められます。これは「ハリストスの復活を敬するため(第6・90)」即ち主と私たちの復活を心から祝うためです。しかし これは聖堂だけでなく、毎日の生活全体で、この世と自分の思いへ囚われた「うつむいた」姿勢から、神に向かって心身ともに「立つ」ことを学ぶためです。神様の目でなく、人目を気にして、弱い体を無理に立たせ、教会から帰って不機嫌にへたばってしまう様な本末転倒のくれぐれもございません様に。