名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

結婚式について

正教会では信徒以外の結婚式をしてくれますか?

 日本のキリスト教界には、カップルの内どちらかが信徒であれば、さらに二人とも信徒でなくても、結婚式をしてくれる教派・教会がたくさんあります。自分の教会より立派な、お菓子の国の宮殿みたいな「チャペル」へ、のこのこ出かけていって、「キリスト教式がステキ!」というカップルに文字通り「サービス」している牧師先生もお見受けするようです。

 正教会では、二人とも正教会信徒でなければ結婚式は行いません。結婚式は婚配機密と呼ばれ、「聖体機密」(捉え方は違いますがプロテスタントでの「聖餐」)と同じように洗礼を受けた者だけが受けられる機密(ミステリオン、サクラメント)の一つです。 
 正教会では結婚は決して個人的な出来事ではなく、信仰によってハリストスに結ばれた新しい家庭が、教会という「神の民」の集いに祝福とよろこびとともに迎えられるという、共同体的な出来事です。よく、西欧の映画や最近の日本のテレビドラマで見受けられる、二人だけがひっそりと司祭や牧師の祝福を受けて結婚し「自分たちだけの」幸せをもとめて二人は旅立つといった結婚を正教会は祝福しません。結婚式には家族や友人はもちろんですが、信徒が大勢集い、美しい聖歌を声をそろえて歌い、ビザンティン時代から少しも変わらない壮麗な儀式を、教会共同体全体が参加する形で行います。断じて結婚するカップルだけの喜びではないのです。
 自分たちの結婚と家庭を、ハリストスが十字架と復活という救いのわざによって、この世界にもたらした新しい「いのち」の現実化の場としてささげよう、という二人の自由な決意に、神の祝福と恵みが与えられるのです。そうであれば、互いの信仰の一致が前提であるのは当然でしょう。

 福音宣教の手段として、キリスト教に少しでも触れてもらうために、結婚式を未信徒にも開放しようというのは、はっきり言って本末転倒です。
 クリスチャンの結婚は宣教の実りであり、手段ではありません。

ある結婚式での説教 正教会の結婚観を知っていただくために

父と子と聖神(聖霊)の名によりて

 先ほど、ヨハネによる福音書から、イイススが水をぶどう酒に変えた出来事が読まれました。こんなお話です。

 ある日、イイススは、お母さまのマリヤさまとお弟子さんたちといっしょに、カナという町で行われたある人の結婚式にでかけました。大勢の人たちがぶどう酒を飲んだり、ごちそうを食べてお祝いをしていましたが、とうとうぶどう酒がなくなってしまいました。マリヤさまに何とかしてあげて下さいと頼まれたイイススは、その家の僕たちに、そこにあった六つの大きな水がめに水を一杯に入れて、料理を取り仕切っている係の人の所に持っていかせました。料理長がそれをなめてみると、その水は、なんと、おいしい上等のぶどう酒に変わっていました。

 教会では、イイススのお弟子さんたちの時代から、結婚式には、このイイススのなさった奇跡が読まれ続けてきました。なぜでしょうか?考えてみて下さい。
 答えは、イイススが結婚式でただの水をぶどう酒に変えたということにあります。イイススが祝福する結婚、まさにたった今、お二人がお受けになった恵み。このイイスス・ハリストス、神であるお方の祝福と恵みによって、かつて水がぶどう酒に変わったように、今、お二人の結びつきが新らしいものに変えられたということなんです。

 人は誰に教えられなくても、男は女に、女は男に惹かれます。可愛い人だな、ステキな人だな、優しい人だな、頼もしい人だなと胸がときめいて、いっしょになりたいと望むようになります。でも、それだけなら犬や猫だって同じなんです。とてもあやふやなものです。そこで、人類社会は結婚という制度を打ち立てて、このあやふやさを少しでも落ち着いた、社会を安定させるものに変えようとしました。これが結婚です。でも、ただの結婚です。人間のあやふやさを外から押さえつけて何とか、秩序を保とうとしているにすぎません。

 このような「ただの結婚」を「ただの男女の結びつき」を、イイススは結婚を祝福することによって、神さまがそもそも人を男と女にお造りになったときに、このようであれとお望みになった姿に、回復されたのです。ただの水が、香しく、美しく、そしておいしいぶどう酒に、飲めば喜びがあふれ、身体を温め、生きる力がみなぎるぶどう酒に変えてくださったように、イイススはただの男と女の結びつきを、いのちを香しく美しくするもの、いのちに喜びと力と栄養を与えるものに変えてくださったのです。

 これが、主を信じ、洗礼によって改め造り変えられ、主の結婚の祝福にあずかったお二人に、今、起きたことです。でも、キリスト教は魔法ではありません。神の大きな恵みには人間の努力で応えなければなりません。お二人は、これからの夫婦一体の愛の生活を通じ、今日起きたことを、目に見えるものにしてゆかなければなりません。ぶどう酒も飲まなければただの液体にすぎないのと同じように、今日いただいた恵みを生かす努力を惜しんでは、教会の結婚であっても何もよきものを生み出しません。

 最後に、教会は、結婚を個人的な出来事とは考えません。お二人は結婚によって神と教会と隣人にある重大な責任を負う者となりました。
 お二人の結婚は、いやすべてのクリスチャンの結婚は、人間を絶望から救うものでなければなりません。人間とはよいものであること、愛というものは幻ではないこと、私たちがどんなに弱く、ねじくれたものであっても、神さまが、イイスス・ハリストスがその私たちをもう一度愛することのできる者たちにしてくれたことを、傷ついた社会に、傷ついた人々に、そして何より傷ついたちいさな弱い人々に、証ししなければならないのです。
アミン。