名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

罪の振り返りは?

§質問§

 痛悔機密の時なぜ口頭で罪を告白しなければならないのかは。前号のお答えで分か りましたが、具体的に罪を振り返るには、どうすればよいのでしょうか?

<答え>

 深く罪を自覚し、良心の痛みと悲しみに、一刻も早く神に告白(ざんげ)し赦しを得、もう一度立ち上がりたい、こういう気持ちになることは滅多にありません。だからといって私たちはふだん罪を犯してないわけではありません。聖使徒イオアンは言います。
 「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちの内にない(イオアン第1公書)」。
 問題は、私たちが、罪の自覚さえまともにできないほど、罪に染まっていることです。キリスト教は「ありもしない罪を自覚させ」、そのでっち上げた罪悪感で人間を押しつぶすと批判する人々がいますが、人間は既にもう押しつぶされていませんか?戦争・争い・憎悪が、淫行と倒錯が、世界に溢れていませんか?それらと自分だけは無関係と感じる途方もない想像力の欠如、幼稚さ・鈍感さが、私たちを一層「真理」ハリストスから遠ざけるのです。

 まず、この罪への鈍感さを自覚し、それを免れるよう神の恵みを祈り求め、その恵みの中で自分自身を振り返りましょう。
 その場合、罪を次の三つに分けて考えるとよく整理できます。一つは神への罪です。お金や名誉や権力またこの世の幸福などを偶像として拝し、人を創造し生かす本当の神への愛や信頼や忠実を失っていないだろうか?二つは隣人への罪です。自分本位の勝手な振る舞いや思いで家族や隣人を傷つけ、弱者への配慮を怠り、「互いに愛し合いなさい」(イオアン13:34)というハリストス・神の戒めを破っていないだろうか?三つは、自分自身の心と体への罪です。暴飲暴食や淫らな行いや思いまた怠惰により、神からいただき神のご用に役立て神の光栄を表すべき、私たちの「いのち」を汚し浪費してはいないだろうか?

 そしてぜひ、痛悔機密に備え、マトフェイ(マタイ)伝の「山上の説教(5~7章)」をお読み下さい。主がご自身に従う者にこう生きなさいと励まされる「完全な者(5:48)」「神の民」のイメージを鮮明に語った箇所です。説教は「心の貧しい者は幸いだ」と始まります。謙虚(心の貧しさ)だっただろうか、振り返って下さい。また、「兄弟に対しばか者と言う者は地獄の火に投げ込まれる」とあります。あの時人をあざけらなかっただろうか、振り返って下さい…。「人を裁くな」…。

 やがて自分のみすぼらしい姿があらわになり、主が十字架と復活で達成された、神の赦しといやしの中に帰っていこうと、感謝と痛悔が焦点を結びます。その時、言い訳やためらいを捨てた、切実でありながら簡潔で具体的な告白ができるはずです。