名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

聖大致命女 アナスタシヤ

1月4日は、3世紀の聖人、大致命女・アナスタシヤの祭日です。
 貴族の家に生まれ、信仰の故に年若くして紀元304年ローマで火刑に処せられた。

 アナスタシヤは位い高く豊かなローマ人の娘でした。父は異教徒でしたが、母はハリストスの教えを信ずる人でした。この頃(三世紀)ローマでは身分のある人びとの間で学問が重じられ、出来るだけつとめてその子女を教育することが行われていました。アナスタシヤの両親は彼女を教育するために、当時名高かかった博識のハリソゴンという人に彼女を託しました。

 アナスタシヤは学業を大いに学び、父母の期待にかないました。彼女の卒業の際にはローマの人びとの中で、その絶世の美しさと、知性と、識見とに驚かないものはありませんでした。ところでハリソゴンはハリスティアニンであったので、彼女の教育にあたっても、ただ単に学術や技芸を教えるだけでなく、何ものにもかえられない宝物であるまことの教え、つまりハリストスの教えをも導きました。このようにアナスタシヤは、彼女の先生と母とによって、其の神を知ることが出来ただけでなく、幼い頃から植えつけられた熱心な信仰によって、その後彼女の前に立ちふさがるさまざまな困難や苦しみにたえることができるようになりました。

 アナスタシヤは若くして悲しみを知ることになりました。彼女は若い頃に母を失いました。彼女は結婚したくなかったのですが、父は無理やりにローマで位があって豊かな人のところへ嫁がせてしまいました。不幸なことに、その夫という人は異教徒で、無情、よこしまな心の持主でした。アナスタシヤは、このため大いに涙を流し、悲しい思いをすることになりました。そのような彼女が心の慰めとするのは、祈祷とクリスチャンとしての務めをつくすことだけでした。しばしはひそかに粗末な衣服を着て、信頼できる召使い一人だけを従えて、その当時ハリスティアニンで一杯だった牢獄を訪れて、ハリストスの信仰のために苦しみにあっている人びとのために、その苦しみを少しでもやわらげようとせいいっぱいの努力をしていました。ところがそのことを夫に知られて、彼女の最後の慰めであったこの訪問も禁じられてしまいました。また彼は貧しい人びとに彼女が施しをすることを見て喜ばないどころか、いつかは自分のものにしてやろうと、ねらっている彼女の父の豊富な財産が、彼女の慈善によってなくなってしまうことを恐れ、アナスタシヤを残忍に扱い、さまざまな辱しめをしました。しまいには閉じ込めてしまい、不幸な人びとを彼女が援助してやることができないようにしてしまいました。このような有様の中で、まさに望みを失いそうになったアナスタシヤは、ひそかに彼女の先生で、いまはハリストスの教えのために囚れ人となって牢獄の中にあるハリソゴンに手紙を送って、いま彼女の前に立ちふさがっている困難と苦しみについて述ベ、祈ってくれるようにとこいました。しかし、ハリソゴンの返事は、試練に耐え忍び、神をたのむべきことをすすめる次のようなものでした。

 『この世の中の暴風、荒波の中にあって、翻弄されるアナスタシヤに告げます。あなたはいま海原の中にありますが、イイスス・ハリストスはすぐやって来て下さり、あなたに向って吹き荒れている暴風を一言で静めてしまわれるでしょう。あなたはいま海原にありますが、耐え忍んであなたの所へおいでになるハリストスを待つのです。そうして預言者がそうしたように唱えるのです。『我が霊や爾(なんじ)何ぞ悶え、何ぞ擾(みだ)るる、神を恃(たの)め、蓋(けだ)し我仍(なお)彼我が救主我が神を讃栄せん。』(聖詠42-5=詩篇43-5)と。あなたは神に二倍のお恵みを給わるようにお願いするのです。そうすれば神はあなたにこの世の遺産を返して下さり、それだけでなくあなたの永遠のなすべきこともまた出来るようにして下さいます。信仰に厚い人びとがいま苦難にあってそれに耐えているのを見たからといってなにも恐れることはないのです。主なる神はけしてあなた方を見捨てられたのではなく、ただお試しになっているだけなのですから・・・・・。迷わず、悟りをしっかりとしてさまざまな罪におちいることから自分をしっかりと守って、神の法をかたく実行して、ただ神のみに慰めを求めるのです。』

  アナスタシヤの境遇は、さらにますます悪いものとなりつつありました。夫の彼女に対する仕打ちは日をますに従って残酷さを加えていったからです。アナスタシヤは、もうこの世に生きて行くことを望まず、再びハリソゴンに手紙を送って、次のようにいいました。
 『私はもうすぐ、この世を去ることになろうとしています。どうか主が私のこの霊を受け入れて下さるように、私のために祈って下さい。私は主を愛するがためにこの苦しみに
あっているのですから・・・・・・。』
 ハリソゴンはふたたび返書を送り、その返書には、いま彼女が受けている苦難に終わりを告げることの出来る神の救いを望むことである。と彼女を慰めて、次のようにいってい
ます。

 『暗黒はいつも光明のまえにあり、健康というものは病気のあとでもどってくるものです。そして真の生命は死のあとに約束されているのです。この世の悲しい思いも、喜ばしい思いも、たった一つの終りに導くだけです。それは悲しいことに出合っても失望しないで、また喜び、楽しみの中にいてもおごったりしないためなのです。私たちは海原に浮ぶ肉体という小舟であって、ただ御一人の舵取師が、この小舟を治めていらっしゃるのです。ある船は堅固で、危なげなく風波をのりこえていきますが、他の船はそうではありません。穏やかな波の時でも危なっかしくて、ひっくり返りそうです。それは平安の港に至ろうと思わない者の所に、時が近づいているからなのです。ああ、ハリストスのけがれない奉仕者よ、ありったけの思いを全てハリストスの十字架につないで、自分の希望をもってハリストスにお仕えし、致命の凱旋をもって、ハリストスのみもとに至るときに備えるのです。』

 その後しばらくして、アナスタシヤの夫は皇帝の命令を奉じて遠い任地へ赴くことになりましたが、その途上で死んでしまいました。アナスタシヤは重い試練の中でますます信仰を確かなものとして、主の法を守り、自分の生命を全て神と人とのために犠牲とするようになりました。彼女は自分の財産を、それが他人を幸福にするため援助するようにと、神から預かってまかされたものであると考え、うむことなく世の中の不幸な囚われ人らを思いやったので、ついには解繋者と人びとから呼ばれるようになりました。

 いつも嶽舎を訪れては囚人たちに飲みもの食べものを差し入れし、礼服をあたえ信頼と愛と憐れみとの言葉で彼らを慰め、また、病んでいる者には薬を与え、傷しているものには包帯を巻いていやしてやり、ハリストスの信仰のために苦難にあっている人達に、主に心から仕えるのと同じように助け、そのことを自分の喜びとしました。

 ところがこの頃、ハリスティアニンに対するおそろしい迫害がおこりました。そのすざましさは、いいようのないようなものでした。老翁ハリソゴンがローマの人びとをハリストスの信仰でかためようとしていると、皇帝に訴える者があって、当時のローマ皇帝であるデイオクリティアンがハリソゴンを彼がその頃いたアクワイレアから呼びつけて、ローマの神がみを集拝するように説得し、もし聞き入れさえすれば、その代償として巨万の富とローマの府知事の地位を与える、といいました。

 これに対して、ハリソゴンは『陛下のとるに足りない臣下である私は、唯一の神を知り、信じております。そのお方は、私にとりまして、世の中のおよそすべての光よりも美しく輝き、すべての生命よりも望ましく、およそすべてのこの世の珍らしい財宝、宝物とも比較になるものではとざいません。私は心で信じ、口に出してこのお方を信じていることを認め、心のそこから尊んで、その前にひざまずいて拝しております。陛下のおっしゃるローマの神がみのようなものは、いつわりの神がみであると考えますので、従ってそのようなものを崇拝するようなことも出来ないのでございます』と答えました。

 これをきいてデイオクリティアンはハリソゴンにその信仰をすてさせることは無理であると悟って、彼を死罪にすることを命じました。そうして惜まれることながら、この立派で正しい老翁、ハリソゴンは白刃の下に一朝の露となって消えていくことになりました。その斬首されたなきがらは、数日海辺にうち捨てられていましたが、正教会の司祭ゾイルという者が、アガピヤ、ヒオニヤ、イリナ、という三姉妹とともに、礼をそなえ敬意をもってその聖なる人の体を葬りました。

 その葬りから三十日がすぎた日、ハリソゴンはゾイルの夢の中に姿をあらわし、次のようにいいました。『九日たつうちに、あなたはきっと死ぬことになるでしょう。そうして三人の姉妹は苦しみあうことになります。』
 時を同じくしてアナスタシヤもまた同じ夢をみました。それで彼女はすぐに司祭のところへ行き、三人の婦人に会って一日中一緒にいてやって、披女たちの信仰と忍耐をはげまし、ともに信仰をかためました。このようにして数日がたち、夢は現実となりました。本当に三人の姉妹はデイオクリティアンに召喚され、結局死ぬことになり、そうして司祭のゾイルもまたほとんど同じ頃に、この世を去って主のみもとに帰することにたったのです。

 そうしてその後もアナスタシヤは、以前と同様に慈善の事業を行って、骨身を惜むことなく各地のいたるところで貧しい者を援助し、憂いにある者を慰めていました。マケドニヤに一人の若くてやもめになった婦人で、フェオドティヤという名の者がいました。慈善の心がとても厚くアナスタシヤと協力していました。彼女はしばらくして迫害者のために捕えられて、獄につながれることになってしまいました。そうして次にはアナスタシヤも同じ運命にあうことになったのです。

 ある時アナスタシヤがいつものように獄舎へ慰問に訪れてみますと。きのうまで彼女が訪問し慰めてあげていた囚人たちが一人もいなくなっていました。どうしてそうなったかというと、獄舎が一ぱいになってしまって、新しく捕えてきたハリスティアニンを入れる場所がもうなくなってしまったので皇帝が命じて以前からの囚人を皆処刑してしまったからなのでした。アナスタシヤはこのありさまを見て涙を流して泣きましたが、それを牢獄の番人たちに見とがめられアナスタシヤがハリスティアニンであることか知れ、その場で彼女は捕らえられイルニヤ州の長官に渡されてしまいました。しかし長官の努力はなんら効果をあげることができませんでした。この世の楽しみと豊かな生活を説き、他方で恐ろしい拷問の器具を見せ、死の恐ろしさをもって披女の心を動かし改めさせようとしたのですが、アナスタシヤの心はほんの少しも動かされませんでした。

 長官に対して落ち着いて答えるに、「私は長いことずっとハリストスを選び、これを愛することが、世のあらゆる喜びにまさっています。ハリストスのために死ぬことは、とりもなおさず永遠の生命を受けることですし。」と。このように長官がどんなに努力して説得してみても、かた端から無駄に終るのを見て、それではアナスタシヤを苦しめて、カづくで服従させてやろうと考えていました。ところが長官は急に死んでしまったのです。

 それでアナスタシヤは危く死ぬところを脱れることができました。自由になったアナスタシヤはフェオドティアを捜しに行きました。というもの彼女はアナスタシヤより先に捕われていたのでしたが、やはり同じように迫害者の手から脱しているということだったからです。

 ニ人の聖女は再会することができました。そして両聖女は再びあい協力して二人の任務と考える慈善の仕事をするようになりました。しかし少したつと二人はともに再び捕らえ、フェオドティヤは彼女の三人の子供たちと一緒に火あぶりの刑に処せられ、燃えさかる炎の中で生命をうばわれてしまいました。

 またアナスタシヤもフェオドティヤと一緒にイルリアの長官に捕えられ詰問されました。しかしこの長官というのが、とても貧欲で、彼女の財産がたくさんあるのを知って、これを自分のものにしようと思い、アナスタシヤを説得し、「もしあなたが御自分の財産を私にくれるのならば、あなたを赦して放免してあげてもいいですよ」と、取引を申し出ました。 しかしアナスタシヤはこの申し出を拒んで「私の財産はみんな貧しい人たちのものです。」といって、長官に次のように答えました。
 『今あなたは富んでいるのだから私の財産はいりますまい。もしもあはたが飢え、渇き、貧困にあい、あるいは牢獄に囚われているのでしたら、私はあなたのためにも、ハリストスが私にお命じになるところに従って、援助するでしょう。飲み物、食物を差上げ、あなたを思いやり、カの及ぶ限り不幸を助けることにするでしょう』と。

 長官は自分の望みを通すのは無理だと感じとって、アナスタシヤを飢え死にさせようと決心しました。そして三十日の間食べ物も飲み物も与えないということを、二回もしました。しかしアナスタシヤは神の憐れみによって守られて依然生きていました。それだけではありませんでした。もう他界して永遺の生命についている聖致命女フェオドティヤが毎夜彼女のところへ現われて、アナスタシヤと話をしていったのです。アナスタシヤの心は喜びに満ちあふれていたのでした。

 長官はアナスタシヤが飢え死にしないので、自分の計画がまた失敗したのを見て、今度は海で溺れ死にさせようとしました。アナスタシヤを他の百二十人の罪人と一緒に小舟に乗せました。その百二十人の中に、エフテヒアンとよばれる一人の老人のハリスティアニンもいました。小舟が岸から遠く離れ、沖へ出ると同時に、兵隊たちが舟にいくつかの穴をあけて他の船に乗り移りました。

 ところがどういうことか不思議なことに沈没するはずの小舟は沈みません。小舟は安全に水上に浮んだままで、聖フェオドティヤが自ら舵を取って、舟を海岸に向けて漕いでいるのが、人びとには見えました。こうして奇蹟によって救われた罪人たちは、真の神を信じ、アナスタシヤとエフテヒアンの足もとにひれ伏して、希望して洗礼を受けました。

 長官は彼女たちが奇蹟によって救われたことを聞いて、再びさまざまな苦痛を与え、彼らを殺しました。アナスタシヤのことは、体を引き伸して四本の柱にくくりつけ縛って焼き殺したのです。304年ころのことで、現在のユーゴスラビアのミトロビカにおいてである。
 一人のハリスティアニンがいて、焼き殺されてしまったにもかかわらず、少しも損われなかったアナスタシヤのなきがらを葬りました。のちにそのなきがらはコンスタンチノポリに移され、その一部は現在モスクワ市内のある修道院に安置されているということです。