名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

聖金口イオアン

説教の巧みなことから「金口」と称えられる聖金ロイオアンは九月二十七目が祭日です。聖イオアンは三四七年頃、アンテオケで生まれたと伝えられ、父は近衛将軍、母は古代教会三賢母のひとりアンフウザで敬虔な家庭に育ちました。少年時代、父は若くして亡くなりましたが母アンフウザの熱心な教育により聖書を学び、又著名な師に就いて学業に励みました。しかし、この時のローマ皇帝は背教者ユリアンで帝国内は迫害の嵐に襲われます。特にアンテオケは信者が初めて「クリスチャン」と呼ばれた地であり(使徒行実十一の二六)、信仰熱心な信者が多く、また神学が盛んだったので激しく迫害を受けました。聖イオアンが洗礼を受けたのは二十二才の時ですが、これは当時教会の中にアリイの異端が蔓延しており、その影響を避けるための母アソフウザの配慮からだと伝えられます。

 アンテオケ教会の誦経者になりますが、母の死を契機に以前より志していた荒野での苦行生活に入ります。その後、主教メレティにより輔祭に立てられ教会の聖務を勤め、病人や貧者への慈善的活動や、文書による伝道に励みます。三十九才の時司祭に立てられますが、アンテオケには異教徒や異端も多く、教会の教えを正しく護っていかなければなりませんでした。司祭となってからの聖イオアンはその説教において活躍します。特別な修辞や表現を用いませんでしたが強く活気に満ち、人々の心にせまるものでした。

 ある者は「神及びハリストスの口」と言い、ある者は「蜜のようで、かつ正しい言葉」と称えました。人々が聖イオアンを「金口」と呼ぶようになったのは、ある時説教中に聴衆の一婦人が「心霊の師、いや金口なるイオアン、あなたが堀られる聖教の井戸はあまりに深く私たちの短い知識はその底に達することができません。」と叫んだ事に由来すると伝えられます。このときの説教は無学な婦人にはむずかしかったのでしょう。これ以後、聖イオアンは誰でもが理解でき、霊益の得られるわかりやすい説教に務めました。三九七年、コンスタンチノープルの大主教に立てられ首都の改革にあたり、慈善事業を勧め、道徳の向上をはかり民衆から大いに親しまれましたが宮廷の干渉によりその位を退きます。聖体礼儀の編纂をし「金ロイオアンの聖体礼儀」として奉事されており、また、復活祭の説教は主の復活の喜びを私たちに力強く伝えるものです。