名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

致命者・聖理学士イウスチン

(ユスティヌス) 

聖イウスチンは、パレスチナのサマリヤ地方シヘム城(一名シリアのネアポリス)に生まれました。その父母は資産家で、幼い頃から高度な教育をほどこしていました。
 イウスチンは、子供の頃から天文・地質学を好み、当時(二世紀)の著名な理学士の一人になりました。彼はよく「真理は、神の聖書の中にのみ存在している。人の霊魂は、真実の信仰なくして安らぎと救いを得ることはできない」と語りました。

 当時、すでに使徒たちが各地方に福音を伝えており、異教徒の知識豊かな人々も次第に偶像礼拝の愚かなことを悟り、真の神を探しはじめていました。
 その中のある人は、プラトン、ピファゴル、ゼソン、エピクロス等の哲学理論から真理を探ろうとし、別の人々は、世界がまったく未知のカで偶然にできたと信じていました。またある人々は、自然の力こそ神であると言い、人間は造物主を知らなくても、卓越した精神性を持ちあわせていれば幸福を獲得できると考えていました。そのため、善行ばかり重んじたり、快楽ばかり追求する人々が現われる ようになりました。

 イウスチンも長い間、真理を探求しつづけていましたが、どんな本を手に取り研究しても、その心に満足感を得ることはできませんでした。彼はやがて、至上なる永遠者を発見しない限り、真の幸福を得ることはできないだろう、と思うようになりました。
 イウスチンは、プラトンの理論を好みました。その哲学は、他の諸理論に較べて非常に高度でした。プラトンは、神の存在と人の霊魂の不死を説いていました。しばしば彼は、プラトンの本を読み、静かな所で瞑想にふけりました。そのうちに、彼がハリストスの教えに接するようになる一つの出来事が起こりました。

 ある日のこと、イウスチンは城の外へ出て散歩しながら、深く物理の事を考えていました。しばらく歩いて海岸へ下り、浜辺を歩いていると、一人の老人に出会いました。
 彼は老人と話しはじめ、いろいろな哲学理論について語り、その中でプラトンの教えを賛美しました。
 これに対して老人は、「人間は、自分の過ちを訂(ただ)さず、自分の才能ばかり頼って、真理・神を知らなければ、本当の幸福を得ることはできません。あなたは、プラトンや他の哲学を研究していますが、わたしには、それが真の知恵なる神を認識する方法になるとは思えません。人の知恵は、真の教えに照らされな ければ、聖神に導かれることも神を認識することもできません」と言いました。

 イウスチンは大変驚いて、「もしプラトンの本に真理がないとすれば、あなたは何によってわたしに真理を示すのですか」と問いました。
 老人は、昔の聖預言者らの言葉を引用して話しました。
 「昔、この世にまだ哲学者や理学士が現れなかった頃は、主なる神に仕える聖者・義人がいました。彼らは、聖神に満たされて将来の事を預言し、人々に神の教えを説きました。彼らの預言は、必ず実現しました。ですからその預言者は、真理を知ろうとする人々にとって真理の光でした。彼らは真理を謹し、造物主を信じて、神の独り子イイスス・ハリストスが地に降って人々を救うことを預言しました。異教の哲学は、完全ではありません。もしあなたが真理を知りたいと願うならば、よくハリストスの教えを学ぶべきです。そして人は、神の佑(たす)けなしに、真理・神性を学ぶことはできません。あなたは、真理の扉を開き真理を悟るために祈らなくてはなりません。神は、真剣に真理を探求し、愛をもって神に従う者には、誰にでも真理を顕(あら)わされるでしょう」
 老人とイウスチンはやがて別れました。

 イウスチンは、別れたあと老人の言葉について黙想しました。その時彼の心は、ハリストスの使徒であった預言者・聖人への熱い思いでいっぱいになり、彼はハリスティアニンになり、預言書と使徒の書の研究に生涯を費す決心をしました。

 イウスチンは、聖書の研究をするばかりでなく、、ハリスティアニンはどういう行いをし、師父らの残した神聖な規定をどう守るぺきかについても研究しました。
 なぜなら多くの異教徒は、ハリスティニアンを大変憎んでおり、彼らは不品行で凶悪な行いをする人々だと考えていたからです。そのためイウスチンは、誤解を解こうと考え、ハリスティアニンと交わり、ハリスティアニンが、清廉・謙遜・仁慈・忍耐力のあることを知り、ついに洗礼を受けようと決心しました。イウスチンは後に本に書きました。「ハリスティアニンは、正しい教えのためにどんな迫害にも耐え苦難を忍んでいました。この姿にわたしはとても感動しました」。

 こうしてイウスチンは洗礼を受け、一人の福音者として各地方を歩き回り、ローマに行き、神学校を開設し、多くの生徒を育成しました。またやって来る異教の哲学者らとしばしば論戦を交えましたが、誰もイウスチンを言い負かすことができず、次第に彼を憎むようになりました。 当時のローマ皇帝アントニイ・クロトキイも、ハリスティアニンを迫害しました。しかし皇帝は、心から正教を僧んで.迫害し始めたのではなく、周囲の人々の中傷を信じて迫害を始めました。

 これを知ったイウスチンは、アントニイ帝に正教保護の書簡を送りました。この書簡でイウスチンは、ハリスティアニンに関する悪評はすべて正教を憎む人々の中傷によるものであって、ハリスティアニンは品行正しい人々である、と述べました。この護教書は、アントニイ帝を感激させ、ついに迫害は中止されました。

 迫害が中止された後、イウスチンはローマを去ってエフェスに行き、ユダヤ人の有名な学者トリフォンと論戦を交して、ハリストス教の真理を証明しました。これはやがて『ユダヤ人トリフォンとの対話』として一冊の本にまとめられました。この本の中でイウスチンは、旧約の預言の中のハリストスを示している章句を説明しました。イウスチンは、この他にも弁論書を二冊書いており、これらの本は、当時のハリスティアニンの風俗を伝えるものとしてとても有名です。

 イウスチンは、これらの本の中に書いています。  「多くの人々は、ハリストス教を憎んでおり、ハリスティアニンの弁論を聞かずに迫害している。異教徒たちは、ハリスティアニンが偶像を棄てたのを見て、神の無い者と断定している。しかしわたしたちは、真実の神・万有の造物主を信じており、他の人々のように、供え物をし、血祭を献げたりはしない。いつも祈祷・賛美し、善行を神に捧げている。人の肉体のために必要なものは、神には必要ない。わたしたちは、貧しい人に施さなければならない。主の教えは、清潔・愛・施し・罪の赦しであり、死者の復活を信じることである。人は皆、神の子だから、他人を助けることは人としての本分である」。
 「多くのハリスティアニンは、日曜日毎に必ず聖堂に行って預言書・使徒の書を聞き、主教・司祭は、聖書について説明し、信者になすべきことを教え、ご聖体をわかち与え、病者・老人で参堂できない者の家を訪問し、輔祭は、人々の家をまわって病者・やもめ・貧者をいたわっている」。

 「哲人皇帝」生言われたマルクス・アウレリウス・アントニイが即位した時、イウスチンは再びローマに戻り、皇帝がハリスティアニンを迫害するのを見でひどく悲しみ、すぐに皇帝に対する第二の護教書を作って献上しました。ところが、前回のような効果をあげ ることができませんでした。
 異教の哲学者たちは、イウスチンを中傷して攻撃しました。特に哲学者クリスゲンティは深くハリストス教を憎んでおり、イウスチンをわなにはめて獄舎に投じました。一説では毒殺、あるいは斬首刑に処せられたともいわれています。イウスチンは、主降生一六六年六月十三目に永眠したといわれています。