名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

領聖・痛悔・聖体礼儀(参祷・領聖の意味)

§質問§

 教会になぜ参祷しなければならないのですか?自分なりに祈ってれば十分でしょう 。教会に行くと、雰囲気がイヤだったり、苦手な人がいたり、いろいろ雑音が多く、 かえって信仰心が揺らぎそうです。

<答え>

教会は「集い」
 教会という言葉は「エクレシヤ」というギリシャ語の翻訳で「集会」という意味です。皆さんが普通「教会」という時に思い浮かべる聖堂はその「集会」の容れ物です。本来の教会とは聖堂でも、聖職者の集団でも、宗教法人組織でもありません。信徒が実際に、聖体礼儀に集まり、それぞれが領聖によってハリストスに結びつけられ、一つの集いとなったとき、そこに教会が実現します。日曜日には教会に行くのではなく教会として集うのです。

人の苦しみは「集い」の失敗から
 神は最初に男・アダムを造りましたが、すぐに「人がひとりでいるのはよくない(創世記2:18)」と女・エヴァを造りました。これは、神が人を交わり・集いとして造ったということです。人は個人としては不完全なものです。交わり・集いの中で始めて神の意図された完全な人間となれます。ところが人間は罪によってこの交わり・集いを破壊しました。集いの求心力であった神に背き交わりを断ってしまった結果、「集い」は自己中心的な「個人」の単なる「群れ」に分解してしまったのです。私たちの苦しみ・悩みの大半が家族や職場や学校での人間関係のトラブル(=「集い」がうまく作れないこと)なのはそのためです。

「集い」の回復としてのハリストスの救い
 ハリストスはご自身の十字架の死と復活によりこの「ばらばらの個人の群れ」を「集い」(=教会)へと回復されました。血縁・地縁・民族によらず、またお気に入り同士のサロンでもなく、この世の利益や目的のためでない「集い」を、教会として
立てました。ここでのみ人格的な自由が愛の一致の中に開花できるのです。主イイススに救われるとはこの「集い」=「人間のまことの交わり・共同性」を回復することです。

信徒の務め=「回復された集い」の現実化
 苦手な人がいる、雰囲気がなじめない、気が向かない、という自分の思いにとらわれ、教会に「集わない」ことは、ハリストスの救いをホゴにすることです。確かに、現実の教会は聖職者も含めメンバーの人間的脆さにより様々な問題点や「イヤなところ」があるでしょう。しかし、どんな堕落した教会であっても教会が「ハリストスの体」(コリンフ前書12章)であるかぎり「回復された集い」のイメージは刻印されています。イヤだからといって現実の教会を忌避し「自分なりの信仰」に閉じこもるのでなく、逆にそのイメージを現実の教会にいきづかせる努力をし、各人の生活の場にその「集い」のイメージを持ち帰るのが私たちの務めです。