名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

香炉・炉儀

奉神礼(礼拝)で香炉というものが振られるそうですが何ですか?

 正教の奉神礼(礼拝)では「炉儀」がしばしば行われます。「炉儀」は乳香を焚いた振り香炉を、輔祭や司祭が宝座(祭壇)やイコン(聖像)に向かって振ることです。最後には至聖所と聖所を隔てるイコノスタスという仕切の中央にある「王門」といわれる扉の前から、堂内の会衆へも、大きく炉儀されます。なぜでしょう?
 私たちの祈りが、かぐわしい香りとして神にとどくように?そうですね。
 私たちの心に隠れ潜む悪霊たちを、煙でいぶり出すため?もちろんそういう意味もあります。

 しかし、神さまが人間をどのようなものとしてお造りになったかにかかわる、大変重要なもう一つの意味があるのです。
 香は、まずハリストスのイコン(像・イメージ)に振られ、生神女から天使や諸聖人のイコンへと深い尊敬を込めて炉儀されていきます。皆、ハリストスによって示された人間の本来のあり方、像(イメージ)を分かちあっているのですから尊敬されるのは当然。そして会衆が炉儀されます。私たちがどんなに弱く罪深くとも、私たちの内に、尊敬されるべき同じ像が宿っているからです。私たちの罪深さにではなく、私たちにひそむ「神の像(イコン)」が炉儀されているのです。
 すこし、この機会に正教会の人間の創造についての理解の一端をご紹介します。
 
神の像と肖
 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(創世記1:26-27)。

 創世記は、神の人間の創造をこう伝えます。正教では「われわれのかたちに」を「像・Image」、「われわれにかたどって」を「肖・Likeness」という言葉で表し、神は人間をご自身の像と肖に創造されたと教えます。正教会のほとんどの聖師父は像と肖を全く同じこととは考えません。ダマスクのイオアンは「正教信仰注解」で「『われわれのかたち(像)に』という表現は筋道を立てて物事を考えてゆく力(論理性)と人格的自由をさし、『われわれにかたどって(肖)』という表現は、私たちの霊的努力(徳)によって神に似る者となってゆくことを指す」と言っています。肖は可能性として宿された神の似姿といえるでしょう。

「人がひとりでいるのは良くない」
 また「われわれのかたちに創造し、男と女に創造された」とあることは大変重要です。人間は個人としては完全な者ではなく、男と女で、言いかえれば、人格の交わりのなかで初めて完全となる者として造られました。創世記の第二章は、女の創造をもう少し詳しく語りますが、それによると、その発端は神が「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう(創世記2:7)」とお考えになったことでした。人はひとりでは人ではないのです。

 ここで、神がご自身を「われわれ」と呼んでいることに気づいて下さい。この「われわれ」は至聖三者(三位一体)の神のあり方を暗示しています。三位一体の神のあり方、愛による交わりの姿こそ、本来私たち人間がそのように成長してゆかねばならない「神の肖(似姿)」の本質なのです。

肉体と霊の結合
 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった(創世記2:7)。

 人間は、様々な物質が複雑に結合し、その化学反応の連鎖がずば抜けた精神的能力を実現した奇跡的な偶然の産物でも、逆に本来純粋な霊的存在が肉体という「牢獄」に虜になってしまったものでもありません。肉体と霊が結合してはじめて「生きるもの」・人となったのです。人は肉体と霊が健康な調和を保ってはじめて健康と言えます。

神の像と肖・交わりとしての人間・霊と肉体の全体性としての人間、これらは正教会の人間観や救済観の根本にある人間理解です。