名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

高名なる神学者 ダマスクの聖イオアンの生涯

 紀元七世紀の頃、シリアの首都ダマスコはサラセン人に攻められました。市内には多くのキリスト教徒が住んでおり、回教徒であるサラセン人によって迫害されて苦難を強いられました。
 キリスト教徒の中にゼルキイという人がおり、神のみ旨によって家族ともどもこの苦難から逃れることが出来ました。不思議な事に一家はサラセン人らの憐れみを受けて俘虜にもされず、また財産をも失いませんでした。そればかりか、ゼルキイはサラセン皇帝に召されて役人となり、重職を与えられたのでした。

 ゼルキイにはイオアンというひとり息子がおりました。彼はその息子を非常に可愛がり同時に熱心にキリスト者としての教育を施しました。
 月日は流れ、イオアンは一人前の成人になりました。父ゼルキイは息子に学問を教授する、学問と人徳にすぐれた教師を探そうと考え、良い師を与えて下さるように熱心に神に祈ったので、神はその祈りを聞き入れ、才徳ともに秀でた教師を遣わされたのでした。

 ある日ゼルキイがダマスコの市内を歩いていると黒山の如き人だかりがあり、一体何だろうと近付くと、それはサラセン人の一隊でした。彼らは市内の店を荒らし、キリスト教徒を奴隷にしようとやって来て、暴力をふるっていたのです。混乱した人ごみの中に、特にゼルキイの心をひく者がありました。それは一見してイタリア人とわかる一修道士でした。
 彼は彼と同様に囚われた人びとから尊敬されている様子で、彼らのうちで死刑に決まった者は、皆その修道士の前に歩み寄り、その足下にひれ伏して自分の霊のために祈祷してくれるように願っていました。しかし修士も彼らと同じ俘虜の身なのでどうすることも出来ず、ただ困惑しきった顔をするだけでした。

 ゼルキイは彼に近付いて氏名、出身地をたずね、さらに重ねて問いました。
 「神のしもぺよ。あなたはどうしてそんなに沈んでいるのですか。この世のあらそいを避け、ただ永遠の安らぎを願うあなたのような人でも、今目前に迫る不幸な運命を怖れているのですか。」
 修道士は答えて言いました。
 「どうして私がこの世の幸福を失うことを悲しみましょう。この世の物事はすべて空しいという事を、私は知っています。そんなことを悲しんでいるのではありません。私には子供もなく、私が死んだら私の業を継ぐ者がないという事のみを悲しんでいるのです。」

 話を聞いていた人は皆驚きましたが、ゼルキイはそれにかまわず再び問いました。
 「あなたは修道士として生涯妻帯しない誓いを立てた人ではありませんか。それなのに今さら自分の子供がいないと歎くのは、一体どういう事ですか。」
 修道士は、ちょっと困惑の表情を表わしました。
 「あなたは私の言わんとするところを理解していませんね。私が言っているのは、いわば”霊の世継ぎ”ということです。
 確かに私は見ての通りの見すぼらしい修道士です。しかし神の深い恩寵によって、幼少の頃から学問を好み、その得るところは少なくありません。けれど残念なことに、その学問を伝えるべき人物がいないのです。 神学はもちろん理学、哲学、地学、その他音楽に至るまで、あり余るほど多くの知識を有しています。このように神から大いなる恵みを受けたというのに、誰にもそれを伝えることなくこの世を去って神のみ前に行くのは、果実を結ばない木に似ています。大金を手に入れて地中に埋めてしまう、愚かな者よりも、私の方がはるかに空しいのです。」

 ゼルキイはこの言葉を聞いて「この修道士こそ、私が神に祈り、長年探してきた人物に違いない」と思いました。
 ゼルキイはすぐさまサラセン皇帝のもとに行き、その足下にひれ伏して、俘虜となった修道士を自分に賜わるように、切に請いました。皇帝も簡単に願いを聞き入れ、その日から修道士はゼルキイの家に迎えられ、息子イオアンと、ゼルキイ家に同居している少年コスマの家庭教師となりました。

 かくして修道士はゼルキイ家に留まり、日夜疲れることなく熱心にふたりの少年を教育しました。少年たちの学問は大いに進み、ことにイオアンの成長には目を見張るものがあり、学間は言うに及ばず温厚謙遜な人格をも兼ね備えるようになりました。修道士の努力の末、ふたりの教え子は立派な社会人としての見識を持つに至ったので、彼は満足してゼルキイ家を去り、その後聖サワの修道院に入り、静かに世を去ったと言います。

 イオアンは文学好きな青年になり、好んで聖書を読み、生涯その身を学問に捧げようと考えましたが、世の中の人の幸福を考えるとそのような志は捨てるべきではないかと思うようになりました。
 そんな風に悩んでいる頃、父ゼルキイが突然亡くなり、サラセン帝も忠臣を失ったことを残念がってその息子イオアンを抜てきし、ダマスクの知事に任命しました。

 その頃は、ちょうど東ローマ帝国レオ3世の治世に当たり、教会史上有名なイコン崇敬禁止の勅命が下りました。
 これに反対する神品たちは、信者たちにイコン崇敬の正当性を説き、イオアンもしばしば信者に手紙を送り、どんな迫害に遭っても異端邪説に迷うことなく教会の教えに従うべきことを教えました。この手紙を読んだ信者たちは、その懇親にして明快な論旨に感動して禁令に迷うことなく、熱心にイコン崇敬を続けだとい うことです。

 イオアンの活動を聞いたレオ三世は大いに怒り、彼を抹殺しようとワナを仕掛けました。それはイオアンがレオ皇帝にダマスクを乗っ取るようにそそのかす偽(いつわ)りの手紙を作って、それをサラセン侯に見せようと計画したのです。
 偽(にせ)の手紙を続んだサラオン侯は素直にそれを信じ、イオアンの無実を叫ぶ声も聞かずに知事の職を剥脱し、無残にも彼の右手を切り落してしまいました。しかし、しばらくすると主神女マリヤの慈愛によって奇跡的にその手は恢復しました。

 これを知ったサラオン侯は、ようやくイオアンの無実を悟り、レオ皇帝の陰謀に乗ってしまったことを悔いて、再ぴイオアンを知事の職にもどそうとしましたが、イオアンはすでに名誉や世俗を捨て、貧困の中で神に奉事しようと決心していました。そこでその気持ちを侯に伝え、サラセン侯もついにその意に任せました。

 その後イオアンは侯の許しを得て家に帰り、まず自分の財産をことごとく貧しい人びとに分け与え、コスマとともに聖地エルサレムに赴き、主イイススの墓を詣で、そこからほど近い、有名な聖サワの修道院に行きました。彼はそこに入ろうと、まず院長に面会しました。しかし、当時すでにイオアンの文学者としての名が高く、修道士は皆イオアンは己れに勝った高尚な人物だと考えていたので、誰ひとりとして自分の弟子に迎えようとはしませんでした。

 そんな中で、ひとりの老修道士だけは違いました。老修道士は喜んでイオアンを弟子に迎えて教え導くと申し出たのです。彼は修道院の中でも、特に品行方正に聞こえた人物でした。老修道士はキリスト教の教えの中でも、特に謙遜を第一と心得ていたので、名声と栄誉を極めたイオアンのためにはこれを養うことこそ重要であると考え、彼を厳しく戒めて、欲を捨てさせ、身体に労苦を行わせて謙遜を体得させようとしました。また、世俗と自我を捨てて、ただ神に奉事し神のことのみ思念すべきことを教えました。

 かくしてイオアンは全心全霊を傾け、気を抜くことなく日夜老師の言葉を守り、心を尽して随従したので、老師はなおも順従の徳を行わそうとして、様ざまに試みました。また文学について談じたり、文章を書くことさえ禁じたのでした。イオアンにとってこの戒めは厳しいものでしたが、ただ神のみ旨のままに歩むことだけを考え、老師の命に従いました。

 ある時老師はイオアンの従順を試みょうと、修道院運営のために修道士が作っている籠を持ってダマスクに行き、市を開くよう命じました。
 イオアンは直ちにその命に従い、その身に着古した見すぼらしい服をまとって、従僕のような身なりで、かつては知事として自分が治めたダマスクの都に到りました。しかし、もとより全心全霊をもって神に従うことを誓ったイオアンですから、たとえどんな貧困に陥ろうとも心苦しいとは感じません。ただ、最も辛く恩ったのは、学芸と智恵を束縛されて用いることを赦されないという一点だけでした。

 彼は文学者として名高く博学で知られていましたから、一首の詩歌も一編の文章さえも創作が赦されないということは、いかにも忍び難いものでした。イオアンは勉めてその願望を抑え、老師の命令に従いましたが、心のどこかには少しの誘惑があったことは否めませんでした。けれどもそれにはひとつ原因があります。
 修道院内でひとりの修道士が永眠しました。その弟は兄の死を非常に悲しみ、打ちひしがれてしまいました。イオアンはその様子を見て元気づけようとしましたがその傷心は慰められません。彼はイオアンに一篇の詩を作って自分を慰めてくれるよう切に求めましたが、老師の命令を破ることは出来ず、固く断わりました。しかし彼はなおも願って言いました。「私が病いにあったなら、あなたは必ず助けて下さるでしょう。今私の心は苦しみ悩んでいます。この傷心を癒やしてくれるものはあなたの一篇の詩だけです。あなたはこんな私の願いを、なおも断わろうとなさるのですか。」
 ここまで喰い下られてはさすがのイオアンも動揺してしまいました。兄の死を悲しむ修道士の望みを叶えるのは、同時に老師の叱噴を受けることになります。老師の戒めを守るのは大切なこととは知りつつ、不幸な兄弟の悲しみに暮れる姿を見るに忍びず、ついに彼を慰める一篇の詩を作り、彼に与えました。修道士はこれを受けて大いに喜ぴ、イオアンに感謝して立ち去りました。
 この詩は今日に至るまで教会に伝わっており、埋葬式の際用いられています。
 イオアンは院内の自室にもどって、傷心の修道士のために作った詩を口ずさんでいますと、隣室にいた老師がこれを聞き、急いでやって来てとがめました。そこでイオアンはその詩を作った理由を隠すことなく告げましたが、老師は噴然として彼の不従順さを叱り、イオアンが自分の非を悔い、涙を流してその罪を謝しても一向に耳を貸さず、さらに「お前のような戒めを破る者には、修道士としての資格は無い!」と、怒りに乗じて修道院から追い出してしまいました。

 イオアンも師に叱られて、旧約時代のアダムが罪を犯して、神に追い出された事を思い起こし、院の門前に伏して涙を流しました。イオアンの罪を悔いる姿を見て、さすがに修道士たちも同情し、彼のために老師にその過ちを赦してくれることを願いましたが、老師の怒りはなおも解けず、赦そうとはしませんでした。
 それから何日か過ぎてようやく老師の心も和らぎ、戒めを破った罰として重労働を行うよう命じました。イオアンは喜んで苛酷な労働に従事しました。老師はその様子を見て初めて喜ぴ、「ああ、私は今こそ、かくも神のために苦しみを忍ぶ者を得た。イオアンよ、お前の従順さは光輝やいた!」と言い、イオアンに接吻したのでした。

 かくしてイオアンは老師とともに、再び院にもどりました。その喜びは限りなく、あのアダムが楽園に帰ったとしたら、きっと自分のように喜ぶことだろうと思ったりしました。そして今まで以上に老師に従うよう努めました。

 それからしばらくしたある夜のこと、老師は主神女マリヤの夢を見ました。マリヤは老師に語りかけました。
 「あなたはどうして泉の源をふさごうとするのですか。源泉からは甘露な水がこんこんと湧き出ています。その水は、古くはダビィド王も探し求めたものです。また、主イイススがサマリヤの婦人に約束された水でもあります。
 この水を塞(せ)き止めてはなりません。水は流れてやがて金地を覆い、異端の海さえも、いつしか甘みを含むようになるでしょう。渇いた者は好きなだけ飲めるのです。預言者の琴を弾き、ダビィド王の詩を高らかに歌いあげ、主のみ前に新たなる煩歌を捧げる者は、イオアンにほかならないのです。」
 老師は夢から醒めて大いに驚き、すぐさまイオアンを呼んで言いました。
 「ハリストスに従順な子よ。あなたの口を開いて、聖神の導びくままに福音を宣べ伝えなさい。シナイ山の頂に登り、神を見てその機密を悟りなさい。幾多の歌をもって主の御名を讃めあげなさい。至聖なる主神女が私に 現われて、あなたが大いなる神の僕であることを告げられたのです。」

 謙遜な老師は言葉を続けました。  「私の無知と愚かさにより、今日まであなたの務めを妨げてしまいました。どうか愚かな私をお赦し下さい。」  この時から聖イオアンは猛烈な執事活動を開拓しました。神学の書を著わし論文を書き、聖歌も多く作りました。教会で初めて総括的な著述を試み、正統信仰を擁護しました。
 多くの著書の中でも「知識の泉」は傑作と言われます。これは哲学論、総括的異端論集、正統信仰論の三部に分かれており、中でも第三部は後世にも大きな影響を与えました。

 しばらくするとイコン論争が再燃し、教会は動揺しました。この時聖イオアンは強硬にイコン破壊に反対して、有名な反駁書を著わしました。またマニ教徒やイスラム教徒などとも論争して、常に正統信仰の堅持に心血を注ぎましたが、やがて聖サワの修道院に隠退し、清らかにその生涯に終止符を打ちました。紀元七七六年の事でした。
  さて、聖イオアンの幼少の頃からの親友コスマですが、イオアンとともに修道士となった後マユムの主教となり、能く教区の牧会を指導したと伝えられています。コスマもまた、いくつかの論文と聖歌を残しています。 (おわり)