正教を知るため、「生きる」ため、キリスト教を見直すために
こんな本はいかがですか?
信仰は「生きる」ことであって「本を読むこと」ではありません。本をいくら読んでも「神さま」も「救い」も「教会」も…わかるものではありません。「聖書」ですら、教養のためや「教義を裏付ける聖句集」として読むなら「いのちの言葉」とはなりません。
ここで紹介される本は、いずれも、私たちを心の書斎にとじこもり「言葉のあやとり」をすることから、現実に「生きる」こと「信じること」へと呼びかけていることを、どうぞ忘れないでください。
書名 | 備考 |
我が主イイスス・ハリストスの新約 | 正教会訳新約聖書 |
聖詠経 | 正教会訳詩編 |
主日奉事経 | 土・日の公祈祷(礼拝) |
小祈祷書 | 日々の祈り |
領聖預備規定 | 領聖(聖体拝領)備える祈り |
記憶録 | 死者のための祈り |
正教要理 | 基本的な教理 |
正教会の手引き | 正教の歴史、教え、伝統など基本的なことをやさしく図解入りで |
諸聖略伝(各月一巻) | 聖人伝 |
聖人ニコライ事蹟伝 | 日本への伝道者の伝記 |
聖体礼儀のお話 | 大変わかりやすい |
聖書ものがたり | 子供向け絵入り |
日本正教史 | 日本ハリストス正教会の歩み |
東京復活大聖堂が建てられたとき | 仙台の大主教セラフィム座下が日本正教会の黎明期をたどりました |
東京復活大聖堂と関東大震災 | 関東大震災で罹災したニコライ堂の再建に携わった府主教セルギイ座下の貴重な記録 |
代表的なものを選びました。入手希望の方はお近くの正教会へお問い合わせ下さい。
書名 | 編・著者 | 出版社 | 価格 | 備考 |
知られていなかったキリスト教 | 高橋保行 | 教文館 | \3200 | その歴史を通じて学ぶ |
ギリシャ正教 | 高橋保行 | 講談社・学術文庫 | \ | まずは概観したい方に |
東方正教会 | O.クレマン | 白水社・クセジュ文庫 | \750 | 少々難、確かな手応え |
The Orthodox Church | K. Ware | Penguin Books | 国際的な定番入門書 | |
ギリシャ正教 東方の智 | 久松英二 | 講談社 | \1600 | カトリックの研究者による正教概説書 ローマ教会による「フィリオケ」追加の誤りを率直に認めている |
オーソドックスとカトリック | 及川信 | サンパウロ | \1300 | 日本正教会司祭によるローマ教会の比較を通じた正教紹介 |
キリスト教東方の神秘思想 | V.ロスキー | 勁草書房 | \3200 | 難解だが、必読 |
東方キリスト教思想におけるキリスト | J.メイエンドルフ | 教文館 | \4120 | 「人となった神」とは |
聖グレゴリオス・パラマス | J.メイエンドルフ | 中央出版 | \1900 | 「神を見る」とは |
世のいのちのために | A.シュメーマン | 新教出版社 | \2200 | 正教奉神礼の神学 |
ロシア思想におけるキリスト | エフドキモフ | あかし書房 | \2500 | 近代ロシアのキリスト論 |
イコンのある世界 | 鷲巣繁男 | 国文社 | 著名な詩人である信徒の正教に関するエッセー集 | |
私たちはどのように救われるか | カリストス・ウェア | 西日本主教区 | このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。 | 「大斎の意味」「正教徒は聖書をどのように読むべきか」も含む三篇の論集。最寄りの正教会にお問い合わせ下さい |
人間と宇宙的神化 | 谷隆一郎 | 知泉書院 | \6500 | 聖マクシマスの神学を紹介 |
秘儀と象徴 | A.I.ダルメ | 新世社 | \2500 | 東方典礼の研究 |
キリスト教の伝統①② | J.ペリカン | 教文館 | \6000 | ルーテル教会出身で晩年に正教に転じたペリカンの代表作。全5巻。①と②に古代教会、東方教会の教義史がまとめられている。 |
ユーカリスト | A.シュメーマン | 新教出版社 | \3000 | 正教会現代の代表的奉神礼神学者による聖体礼儀解説 |
ビザンティン神学 | J.メイエンドルフ | 新教出版社 | \4700 | 正教会現代の代表的神学者による正教神学の詳細な解説。本翻訳出版は画期的。 |
聖書のメッセージ | G.クロンク | 日本正教会西日本主教区 | \1500 | 正教会の聖書理解をバランスよく解説 |
神の狂おしいほどの愛 | P.エフドキモフ | 新世社 | \2500 | 正教のエートスのかんどころを熱く解説 |
東方の光と影 | 高橋保行 | 春秋社 | \1800 | ビザンティン時代の正教 |
ロシヤ精神の源 | 高橋保行 | 中公文庫 | \540 | ビザンティンとロシヤの関係 |
ロシヤ正教の歴史 | N.ゼルーノフ | 日本基督教団出版局 | \2900 | ロシヤ正教史 |
キリスト教史1~11 | D.オボレンスキー他 | 講談社 | \3800 | 平凡社から文庫化 |
迫害下のロシヤ正教会 | 高橋保行 | 教文館 | \2060 | 共産主義政権下のロシヤ教会の知られざる苦難。 |
聖ニコライ大主教 | 高橋保行 | 日本基督教団出版局 | \2400 | 日本教会の司祭の手になる本格的聖ニコライ紹介 |
曙光 | 牛丸康夫 | 私家版 | 日本正教会の長司祭の遺稿集 教会史など | |
ロシアキリスト教史 | 黒川知史 | 教文館 | \2500 | |
東方キリスト教の世界 | 森安達也 | 山川出版社 | \3900 | 東方教会史へのアカデミックな研究家の諸エッセー |
キリスト教史 Ⅲ | 森安達也 | 山川出版社 | \1900 | 我が国での東方諸教会史の定番 |
宣教師ニコライの全日記 | 聖ニコライ | 教文館 | \95000 | 日本に正教を伝えた聖ニコライの日記全訳 翻訳出版文化賞受賞 |
ニコライの日記 全3巻 | 聖ニコライ | 岩波文庫 | \1080 | 「宣教師ニコライの全日記」から抜粋 |
イコンのこころ | 高橋保行 | 春秋社 | \1854 | イコンを通じて正教神学を |
イコンのあゆみ | 高橋保行 | 春秋社 | \1800 | イコンの美の歴史 |
イコンのかたち | 高橋保行 | 春秋社 | \2000 | イコンのかたちが語るもの |
魂にふれるイコン | ミシェル・クノー | セリカ書房 | \2884 | イコンの神学 |
正教のイコン | C.カヴァルノス | 教文館 | \1800 | ダマスクのイオアンのイコン論所載 |
The Meaning of Icons | V.Lossky&L,Ouspensky | SVS Press | 現代代表的正教神学者のイコン解説 | |
美と信仰 | M.ジョヴァンナ・ムジ | 新世社 | \2900 | ローマ教会の研究家によるイコンの観想 |
東方の光 | M.エフドキモフ | ドンボスコ | \2300 | イコンのあらわす霊的世界を解説 |
NHK名画への旅 ②③④ | 講談社 | \3200 | イコン表現の歴史をたどるのに最適 |
砂漠の師父の言葉 | 知泉書館 | \4860 | 初期のエジプトの隠修者たちの言行録 | |
祈りの生まれるとき | アントニー・ブルーム | エンデルレ書店 | \1957 | 祈ってみたい・祈れないあなたに |
行者たちの道 | チト・コリャンデル | あかし書房 | \1030 | 修道精神を生活にどう生かすか |
シルワンの手記 | アトスの修道者シルワン | あかし書房 | \927 | 謙虚さとは何だろう |
天と地の間 | T,ディオニシアトス | オーロラ出版 | \1800 | アトスの修道 同時代者から |
神と悪魔 | 高橋保行 | 角川選書 | \1400 | 正教の人間観 |
無名の巡礼者の手記 | ロシヤの無名の巡礼 | エンデルレ書店 | \990 | もはや古典。巡礼者の霊的な旅 |
ロシヤ正教会と聖セラフィム | 及川 信 | サンパウロ | \1600 | 近代ロシヤで最も尊敬される聖人セラフィム |
聖山アトス | 川又一英 | 新潮社 | \780 | 正教の修道共和国アトス |
エーゲ海の修道士 | 川又一英 | 集英社 | なぜ、彼らは修道士になったのか | |
輝く信仰生活 | ポール・エフドキモフ | エンデルレ書店 | \3000 | 現代フランスの神学者の精神書 |
ロシアの神秘家たち | セルゲイ・ボルシャコフ | あかし書房 | \3000 | ロシヤ正教の精神性 |
祈りの心身技法 | 久松英二 | 京都大学出版会 | \5900 | ヘシュカズムについて |
さあ、君の番だ | タソス・メレトプロス | ナチュラルスピリット | \2600 | ギリシャ人ミュージシャンによるアトス山体験をふまえた小説 |
イエスの祈り | オリヴィエクレマン 他 | 新世社 | \2500 | ヘシュカストたちが実践する「イイススの祈り」 |
オプティナ修道院 | S.チュトベーリコフ | 新世社 | \2300 | 近代ロシアの代表的な修道院の伝統と人々 |
JESUS イエズス | 東方の無名の修道士 | 聖母の騎士社 | \500 | イイススへの深い観想 |
司祭の品格 | クロンシュタットの聖イオアン | 聖公会出版社 | \1800 | 20世紀初頭軍港クロンシュタットで人々に奉仕した司祭の言葉 |
同情の心 | シリヤのイサアク | 聖公会出版 | \1500 | 「愛のパン、そのパンはイイススである」 |
中世思想原典集成1,2,3 | 平凡社 | \5800~ | ギリシャ教父の著作が邦訳で読めます | |
原典古代キリスト教思想史1,2,3 | 教文館 | \4200~ | 聖師父の著作からの抜粋集 | |
「聖霊論」 | 聖大バシレイオス | 南窓社 | \3800 | 聖神(聖霊)は教会に溢れています |
キリスト教神秘主義著作集1 | ニッサのグレゴリウス他 | 教文館 | \5871 | ディオニシウス・アレオパギトの著作も |
聖大マカリオスの言行録 | 中央出版 | \1100 | 4世紀の砂漠の師父 | |
修徳の実践 | エンデルレ書店 | フィロカリアの抄訳 | ||
ロマノス・メロードスの賛歌 | 聖ロマノス | 創文社 | \10000 | 東方正教会の代表的聖歌作者の1人ロマノス |
フィロカリアⅠ~Ⅸ | 東方の修道師父たち | 新世社 | \5~6000 | 東方の修道霊性 各国語の翻訳され大きな影響を与えた |
洗礼志願者のためのカテキズム | 聖ヨハネス・クリュソストモス | サンパウロ | \1800 | 金口イオアンの代表作の一つ |
過去の「正教時報」で取り上げられた聖人伝の一覧表です。順次本文を入力します。
未入力の本文は各教会で保存されている正教時報でお読み下さい。
名古屋教会のバックナンバー欠如部分についての情報をお寄せ下されば
より完全なリストになります。よろしくお願いします。
また、聖人伝本文のテキストインプットにご奉仕下さる方いらっしゃいましたら
お申し出下さい。テキストを郵送かファックスで送らせていただきます
130以下は新しいテキストで正教時報掲載とは限りません。
番号 | 聖人 | 地名 | タイトル | 時代 | 記憶日 | 掲載月 | 連載月 |
1 | アカキイ | ローマ | 致命者 | May-87 | |||
2 | アガポート | フェサロニカ | 致命者 | 4c | 3月17日 | Apr-83 | |
3 | アドリアン | 致命者 | Sep-87 | ||||
5 | アナスタシア | ローマ | 致命女 | 3c | 1月4日 | Jan-92 | |
6 | アファナシア | エギナ島 | 克肖女 | 3c | 4月25日 | Apr-87 | |
8 | アファナシイ | アレキサンドリア | 373永眠 | 1月31日 | Jan-93 | ||
9 | アレクサンドラ | グルジア | 致命女 | 4c | 5月6日 | May-83 | |
10 | アレクセイ | モスクワ | 奇蹟者成聖者 | 14c | 2月25日 | Feb-91 | |
11 | アレクセイ | 克肖者 | 5c | 3月30日 | Mar-93 | ||
12 | アレクセイ | モスクワ | 奇蹟者成聖者 | 1,378 | 2月25日 | Sep-84 | |
13 | アントニー | エジプト | 克肖棒神者 | 251-365 | 1月30日 | Mar-82 | Apr-82 |
15 | アンドレイ | ガリラヤ | 初召使徒 | 1c | 12月13日 | Nov-86 | |
16 | アンドレイ | クリト | 7c | 7月17日 | Jun-91 | ||
17 | アンドレイ | 初召使徒 | 1c | 12月13日 | Dec-91 | ||
18 | アンブロシイ | オプチナ | 克肖者 | 12月19日 | Oct-89 | ||
19 | イアコフ | 主の兄弟 | 1c | 11月5日 | Nov-92 | ||
20 | イウスチン | ローマ | 致命者護教家 | 2c | 6月14日 | Jun-83 | |
22 | イオアサフ | インド | 皇太子 | 12月2日 | Dec-91 | ||
23 | イオアン | コンスタンチノープル | 聖金口 | 4c | 2月8日 | Nov-83 | Dec-83 |
24 | イオアン | ダマスク | 神学者 | 7-8c | 12月27日 | Feb-85 | |
25 | イオアン | ローマ | 4c | Aug-87 | |||
26 | イオアン | シリア | 階梯者 | 7c | 4月12日 | Apr-91 | |
27 | イオアン | コンスタンチノープル | 聖金口 | 2月8日 | Sep-91 | ||
28 | イオアン | 前駆授洗 | BC1C | 9月11日 | Sep-93 | ||
29 | イオシフ | 義人 | BC1C | 1月8日 | Dec-87 | ||
30 | イオシフ | ソルン | 聖歌作者 | 9c | 4月17日 | Apr-91 | |
31 | イオシフ | ヴォロコラムスク | 克肖者 | 16c | 9月22日 | Sep-91 | |
32 | イオナ | 預言者 | 旧約 | 10月5日 | Nov-87 | ||
33 | イオナ | ロシア | 15c | 6月28日 | Jun-91 | ||
34 | イオフ | 義人 | 旧約 | 5月19日 | May-86 | ||
35 | イグナティ | アンティオキア | 致命者捧神者 | 1c | 1月2日 | Jan-80 | Feb-80 |
37 | イリナ | ギリシア | 致命女 | 1c | 5月18日 | May-93 | |
38 | イリヤ | ギレアデ | 預言者 | 旧約 | 8月2日 | Aug-92 | |
40 | ウエラ | ローマ | 致命女 | 2c | 9月30日 | Sep-92 | |
41 | エウドキア | シリア | 致命女 | 2c | 3月14日 | May-81 | |
43 | エウプル | シチリア | 致命者 | 3c | 8月24日 | Sep-88 | |
45 | エカテリナ | アレキサンドリア | 致命女 | 5c | 12月6日 | Dec-89 | |
46 | エフレム | シリア | 克肖者 | 4c | 2月9日 | Feb-83 | |
47 | エフレム | シリア | 克肖者 | 4c | 2月9日 | Feb-91 | |
48 | エリセイ | 預言者 | 6月27日 | Jun-86 | |||
49 | オリガ | ロシア | 亜使徒 | 10c | 7月24日 | Jul-83 | |
50 | オリガ | ロシア | 亜使徒 | 10c | 7月24日 | Jul-92 | |
51 | キプリアン | カルタゴ | 致命者 | 3c | 9月12日 | Oct-84 | Nov-84 |
52 | キリル | エルサレム | 4c | 3月30日 | Mar-86 | ||
53 | キリル | 亜使徒 | 5月24日 | May-89 | |||
54 | キリル | アレキサンドリア | 主教 | 6月22日 | Jun-89 | ||
55 | グリゴリイ | ナジアンザス | 神学者 | 4c | 2月7日 | Feb-84 | |
56 | グリゴリイ | ナジアンザス | 神学者 | 4c | 2月7日 | Feb-92 | |
57 | グレープ | 致命者 | 5月14日 | May-91 | |||
58 | グレゴリイ | ローマ | 問答者 | 6c | 2月25日 | Mar-83 | |
59 | ゲオルギイ | グルジア | 致命者凱旋者 | 4c | 5月2日 | May-83 | |
60 | コスマ | 廉施奇蹟者 | 3c | 11月14日 | Nov-89 | ||
61 | ゴルディ | カッパドキア | 致命者 | 4c | 1月16日 | Jan-87 | |
62 | コンスタンチン | スラブ | 亜使徒 | 9c | 5月24日 | May-84 | Jun-84 |
63 | サムイル | 預言者 | 旧約 | 9月2日 | Mar-85 | Apr-85 | |
64 | サワ | セルビア | 克肖者 | 13c | 1月25日 | Oct-82 | |
65 | サワティ | ソロベチ | 奇蹟者 | 15c | 10月10日 | Apr-86 | |
66 | シメオン | キリキア | 登塔者 | 4c | 8月13日 | Jun-85 | Jul-85 |
67 | シメオン | キリキア | 登塔者 | 4c | 8月13日 | Sep-89 | |
68 | セラフィム | ロシア | 克肖奇蹟者 | Aug-89 | |||
69 | セルギイ | ラドネジ | 奇蹟者 | 14c | 4月17日 | Oct-83 | |
70 | ソフィヤ | ローマ | 致命女 | 2c | 9月30日 | Sep-83 | |
71 | ソフィヤ | 致命女 | 9月30日 | Sep-92 | |||
72 | ソフロニイ | ダマスカス | 7c | 3月24日 | Mar-91 | ||
73 | ソフロニイ | イルクーツク | 奇蹟者 | 3月24日 | Apr-92 | ||
74 | ダミアン | 小アジア | 廉施奇蹟者 | 3c | 11月14日 | Nov-89 | |
75 | ダリア | 致命女 | 3c | 4月1日 | Jan-86 | Feb-86 | |
76 | ティト | クリト | 使徒 | 1c | 9月7日 | Aug-86 | |
77 | ディミトリイ | Jun-88 | |||||
78 | ディミトリイ | ロストフ | 府主教 | 17c | 10月4日 | Oct-92 | |
79 | トリフォン | 致命者 | 2月14日 | Feb-93 | |||
80 | ナタリア | 致命女 | 9月8日 | Oct-87 | |||
81 | ナデージュダ | ローマ | 致命女 | 2c | 9月30日 | Sep-83 | |
82 | ナデジュダ | 致命女 | 9月30日 | Sep-92 | |||
83 | ニーコン | シチリア | 克肖致命者 | 3c | 4月5日 | Apr-93 | |
84 | ニーナ | グルジア | 亜使徒 | 340年頃 | 1月27日 | Jul-82 | |
85 | ニーナ | グルジア | 亜使徒 | 340年頃 | 1月27日 | Jan-91 | |
86 | ニコライ | ミラリキア | 奇蹟者 | 4c | 12月19日 | Dec-82 | |
87 | パイーシイ | エジプト | 6月19日 | Jul-87 | |||
88 | パウエル | 聖使徒 | 1c | 7月12日 | Jul-84 | Aug-84 | |
89 | パフォミイ | エジプト | 4c | 5月28日 | May-92 | ||
90 | パフォミイ | エジプト | 4c | 5月28日 | Dec-84 | ||
91 | パラスケワ | 小アジア | 致命女 | 2c | 8月8日 | Oct-86 | |
92 | パラスケワ | 小アジア | 致命女 | 2c | 8月8日 | Nov-91 | |
93 | ハリサンプ | ローマ | 致命者 | 3c | 4月1日 | Jan-86 | Feb-86 |
94 | パンテレイモン | ニコメディア | 致命者 | 3c | 8月8日 | Aug-83 | |
95 | パンテレイモン | ニコメディア | 致命者 | 3c | 8月8日 | Aug-91 | |
96 | パンフィル | ケサリア | 致命者 | 4c | 3月1日 | Feb-87 | |
97 | フィリップ | モスクワ | 成聖者 | 16c | 1月22日 | Aug-82 | |
98 | フェウロニア | ローマ | 克肖致命女 | 4c | 7月8日 | Jul-86 | |
99 | フェウロニア | ローマ | 克肖致命女 | 4c | 7月8日 | Jul-93 | |
100 | フェオドシイ | キエフ | 11c | 5月16日 | May-91 | ||
101 | フェオドシイ | カッパドキア | 克肖者 | 5c | 4月9日 | May-88 | |
102 | フェオドト | キリネア | 3c末 | 3月15日 | Mar-87 | ||
103 | フェオドル | フェサロニカ | 致命者 | 4c | 4月18日 | Apr-83 | |
104 | フェオドル | ティロン | 致命者 | 4c | Mar-88 | ||
105 | フォカ | 致命者 | 2c | 10月5日 | Sep-86 | ||
106 | フォマ | ガリラヤ | 使徒 | 1c | 10月19日 | Oct-91 | |
107 | ポリカルプ | スミルナ | 致命者 | 2c | 3月8日 | Mar-84 | |
108 | ポリカルプ | スミルナ | 致命者 | 2c | 3月8日 | Mar-92 | |
109 | ボリス | キエフ | 致命者 | 5月15日 | May-91 | ||
110 | マカリイ | エジプト | 克肖者 | 4c | 2月1日 | Jan-83 | |
111 | マトフェイ | カペルナウム | 使徒福音記者 | 11月29日 | Nov-91 | ||
112 | マリア | エジプト | 克肖者 | 5c | 4月14日 | Sep-81 | Oct-81 |
113 | マリア | マグダラ | 携香女 | 1c | 8月4日 | May-81 | |
114 | マリア | マグダラ | 携香女 | 1c | 8月4日 | Aug-91 | |
115 | マリナ | アンティオキア | 致命女 | 3c | 7月30日 | Aug-85 | |
116 | マリナ | アンティオキア | 致命女 | 3c | 7月30日 | Jul-91 | |
117 | ミトロファン | 12月6日 | Dec-87 | ||||
118 | メフォディ | スラブ | 亜使徒 | 9c | 5月24日 | May-84 | Jun-84 |
119 | メフォディ | スラブ | 亜使徒 | 9c | 5月24日 | May-89 | |
120 | リュボフ | ローマ | 致命女 | 2c | 9月30日 | Sep-83 | |
121 | リュボフ | ローマ | 致命女 | 2c | 9月30日 | Sep-92 | |
122 | レオンティ | ロストフ | 11c | 6月5日 | Jun-92 | ||
123 | ロマン | 聖歌者 | 6c | 10月14日 | Oct-91 | ||
124 | ワシリイ | 1月14日 | Jul-81 | ||||
125 | ワシリスク | 致命者 | 4c | 6月4日 | Jun-93 | ||
126 | ワルフォルメイ | 使徒 | 1c | 9月6日 | Jun-87 | ||
127 | ワルラアム | ノブゴロド | 12c | 12月2日 | Dec-87 | ||
128 | ワルワラ | イオリポリ | 致命女 | 4c | 12月17日 | Jan-84 | |
129 | ワルワラ | イオリポリ | 致命女 | 4c | 12月17日 | Dec-92 | |
130 | セラフィム | ブーリッツァ | 20c |
千葉県のある中学校より、お手紙が届きました。社会科の授業で宗教を取り上げたところ、各宗派・宗教に手紙を出して直接、教えてもらうのがいちばんということになったそうです。私たちも、質問を受け、名古屋教会司祭ゲオルギイ松島が回答しました。中学校の担当の先生にご了解をいただきここに、その質問と答えを紹介させていただきます。 |
キリスト教は中世の初めまで、自分たちのことを「聖なる公なる使徒の教会」と呼ぶ一つの教会でした。その後、いろいろな歴史的事情や教えの違いによって、ローマ教会を中心とする西ヨーロッパの教会が分かれてゆき、今日「ローマ・カトリック教会」と呼ばれる教派になりました。さらに、一六世紀になってローマ・カトリック教会から、その教えや教会のあり方に反対する人たちが現れ、プロテスタント教会が生まれ、プロテスタント教会はさらに分裂を繰り返し、現在では数え切れないほどの教派があります。
ここで、皆さんの質問にお答えするのは、教会が一つだった頃の教会がそのまま、中近東、ギリシャ、東欧、ロシヤなどの地に伝わり、今日まで続いてきた「正教会 Orthodox Church」に属する、日本正教会の司祭(いわゆる神父さん)です。どうぞよろしく。
他のキリスト教の教派の方からいただいたお答えと少し違うなって、感じる所があるかもしれませんが、キリスト教の本来の伝統的な教えや習慣をしっかり保ってきたのが正教会です。ぜひ、ほんとうのキリスト教って何だろうと興味を持って学んでください。
神父さんは、みなさんがどのような本を読んでいるのか、どんなことを学んでいるのか、詳しく知りませんので、ちょっと難しい言葉が出てくるかも知れません。わからないことがあったら、遠慮なくまた質問してくださいね。
ではご質問にお答えしましょう。一つにまとめてお答えした方がわかりやすいものはまとめさせていただきました。
もしキリスト教が、誰かが「あたま」で考え出した「教え」をもとにした宗教なら、その誰かが「開祖」ということになりますが、キリスト教はそういうものではありません。旧約聖書に伝えられているように、神さまと人とは長い交わりの歴史を持ちます。それは、人間は本来とてもステキなものとして神さまに創造されたのに、神さまに背いたために、そのせっかくのステキさを失ってしまい、惨めな姿でこの世をさまよう歴史、そしてその人間に対する、神さまの愛による怒りや悲しみや赦しの歴史です。
そんな歴史の中で、人間は、神さまの愛に応えようと、神さまの怒りをなだめようと、神さまに赦していただこうと、神さまに礼拝する(祈る)ことを始めました。キリスト教はその時にすでに始まっていたと言ってもいいのです。
ただ、神さまと人間との関係は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会での呼び方。日本のキリスト教の教派の採用する呼び方の中で、いちばんもともとのギリシャ語の発音に近いんですよ)が、今日のイスラエルのベツレヘムという町に生まれた時に大きく変わりました。イイススは成長し、三十歳の頃、人々に教えを宣べはじめました。不思議な力でたくさんの病人たちを癒しました。そのころユダヤの地を支配していたローマ帝国の圧制に苦しんでいた民衆は、イイススを「救い主」として歓迎しました。やがてユダヤの宗教的指導者たちは、ますます人気が高くなるイイススによって、自分たちの権威が失われてしまうことを恐れ、ついに、イイススを捕らえ、十字架にかけて殺してしまいました。
埋葬されて三日目に、女のお弟子さんたちがお墓に行くと、そこは空っぽで、天使が「主はよみがえった」と告げました。やがて、お弟子たちの所に復活したイイススが現れました。その時、お弟子さんたちは、イイススが「神の子」、真の「救い主」(ハリストス)であることを、心の底から確信したのです。
イイススは四十日間お弟子さんたちとともに生活を共にし、ついに天使たちにともなわれて、父なる神のもとに昇りました(「昇天」)。しかし、イイススは、お弟子さんたちにあらかじめ約束していたとおり、聖神(「聖霊」の日本正教会訳)を天の父なる神のもとから、地上にお遣わしになりました。この聖神を受けて、お弟子さんたちの内に、どんな困難にも負けない力と知恵と愛があふれました。そしてお弟子さんたちは、「神の子」が、私たち人間のために十字架で死に、なんと三日目に復活したこと、これを信じる者に、罪の赦しと永遠の生命を、言い換えれば「人間のよみがえり」を約束してくださったという「福音」(喜びの知らせ)を、世界中に伝える「使徒」となりました。
その時、今日まで続く「教会」が、ハッキリ目に見えるかたちで存在しはじめたと言っていいでしょう。「教会」はこの使徒の働きを受けついでいます。
この出来事が起きたのは紀元三十年頃といわれています。
キリスト教とは、使徒たちが世界各地に設立した教会が、今日まで宣べ伝え続けている「福音」であり、この福音を信じ「洗礼」を受け教会のメンバーとなった信徒たちが集う「聖体礼儀」(カトリックでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます)という礼拝を中心とした祈りの生活であり、そこで教えられる聖書にもとづく教えであり、その教えによって導かれる「愛」を最も大切なものとする生活のあり方です。
このような教会のあり方をしっかりと守り、多くの人々を教会に集め、いつ起きるか神さまだけしか知らない「ハリストスの再臨」*に備えさせること、これがキリスト教(教会)の目的です。
*ハリストスの再臨 ハリストスが再びこの世に来られ、全ての死者を復活させ、その時生きている人々とともに、生前の生き方に従って一人一人を永遠の生命か、永遠の地獄かに裁きます(最後の審判)。
ちょっと、ご質問の意味がわかりません。他の宗派とは「他の宗教」のことでしょうか、それともキリスト教の中の「他の宗派」のことでしょうか。また、なぜこの宗派かというのも、なぜこの宗派(宗教)がいちばん優れていると言えるのかという質問でしょうか、でなければ、なぜ質問に答えるこの私がこの宗派(宗教)に入信したのかということでしょうか?
「一番偉い」というのを、「一番権威がある」という意味で考えるなら、ハリストスが「一番偉い」のです。教会は聖書の中でも「ハリストスをかしらとする、ハリストスの体」と呼ばれているほどです。
教会の目に見えるメンバーや組織の中で、一番権威があるのは、各地の教会のリーダーである主教(ローマ・カトリックでは司教といいます)たちの会議です。主教会議は参加者たちが神に祈り聖神(聖霊)の導きによって行われるからです。主教は強い権限を持っていますが、教会の教えと主教会議の決定には従わなければなりません。
ところがローマ・カトリック教会では、ローマ教会の司教(主教)であるローマ教皇が、地上での「ハリストスの代理人」として、絶対的な権威をもっています。私たち正教会は、そのようなローマ教皇の権威は認めません。
正教会では、主教たちはみな同等です。主教が代表する一つ一つの教会は、それぞれが神さまの祝福のもとにある「完全なハリストスの体」であって優劣はないからです。
教会はいろいろな方法で主教の候補者を選びます。候補者は三人以上の他の主教が参加する「神品機密」という儀式によって、正式に主教となります。主教候補者がキリスト教を正しく理解していることを、他の複数の主教が認めることによって、教会が間違った方向に進むのを防ぐわけです。
教会には礼拝を秩序正しく行うため、また教えを正しく伝えるため、信徒の信仰生活・実生活上のいろいろな問題に正しい指針を与えるために、三つの主要な役職が古代から伝えられています。主教が教会のリーダーです。主教から権限を与えられて主教に代わって仕事をするのが司祭です。主教や司祭の仕事を補佐するのが輔祭(カトリックでは助祭)です。また一般の信徒も、様々な活動によって教会に奉仕します。これを、「誰が一番偉い」かを表す順序として理解してはなりません。あくまで役割の違いです。
教えの中心になる文書という意味なら、旧約聖書・新約聖書でしょう。ただ、新約聖書には二十七の別々の文書が集められていますが、これら全部を全教会が「正典」として認めるようになったのは、教会が成立してからずっと後のこと(四世紀のはじめ頃)ですから、コーランがなければイスラム教が成り立たないというような意味での経典は、キリスト教にはなかったといっていいでしょう。
キリスト教では、結婚は、キリスト教的な夫婦や家庭の理想を分かち合う男女が、教会という共同体の中に新しい家庭を営むことです。結婚式は、そのような新家庭へ祝福と恵みを与える儀式ですから、信徒同士の結婚でなければ、教会では結婚式を行いません。(ただし他の教派には異教徒でも結婚式をしてくれるところもあると聞きますが、正教会はそれは間違いだと考えます)。
ただ、違う宗教の人との結婚を教会は祝福しませんが、禁止しているということではありません。
でも同じ信仰、同じ人生についての考え方を持つ者どうしの結婚は、とてもすばらしいものだと思いますが、いかがですか。
結婚の約束のしるしである指輪の交換と、新郎新婦に冠をかかげること、ぶどう酒を三口づつ三回に分けて交互に飲むこと、などが結婚式の主な内容です。正教会の結婚式は、他のどんな宗派にも負けない、とても美しい儀式です。ぜひ、一度、東京のニコライ堂に問い合わせて見学にいってください。
臨終が近づいたら司祭を呼び、臨終のお祈りをします。息を引き取ってから三日目に埋葬式を行いますが、その前夜には前夜祭の祈りが行われます。永眠者(死者のことを正教会ではこのように呼びます)は本来土葬されます。これはハリストスの復活のおかげで、人間の死は「終わり」ではなく、主の再臨の時に実現する全死者の復活までの「眠り」にすぎなくなったことを、表すためです。残念ながら、日本では土葬が許される都道府県が少なく、ほとんどの場合やむなく火葬しています。
成人式に当たる儀式は特別に教会で定めたものはありません。ただ、新成人のために、祝福の祈りや感謝の祈りをいたします。
キリスト教でいう天国を、なにか別世界にある特別な場所と考えてはなりません。天国は「神の国」を言い換えたもので、神さまと人間が直接ふれあい、人々が神さまの愛のもとに集う生き方そのものです。その神の国は、教会という形ですでに始まり、たえず成長していますが、完成するのはイイスス・ハリストスの再臨の時です。その時、世界は全く新しい輝きに満ちたものとして造り替えられ、最後の審判で祝福された人たちは「永遠の生命」のあふれる「神の国」へ入れられます。
地獄も同様です。神さまに背き、人を憎んだり、争ったり、ひとりぼっちの世界に閉じこもったりしている生き方そのものが地獄です。生きている間に、そういう自分勝手な、愛を忘れた生活をしてきた人たちは、最後の審判の時、今度は目に見えるかたちで、神さまが示される「永遠の地獄」に入らなければならなくなります。
人間が死んで次の世では犬や猫に生まれ変わるというのは、仏教の輪廻の考え方です。キリスト教にはそういう考え方はありません。死後、人はしばらく眠りにつきます(永眠)が、やがて、ハリストスがこの世に再びやってくるとき、新しい体を与えられて復活し、生前の生き方に応じて裁かれます。
この世界は、神さまによって「無」から創造されました。その時が「始まり」です。「無」からの創造というのは、なかなか難しい考え方ですが、ギリシャ神話や日本の神話に出てくるように、永遠の昔から「世界の材料」みたいなものが存在して、ある時、神々が、それに形を与えて世界ができたという考え方と正反対のものです。
この始めの時から世界は、終末(終わり)に向かって歴史を刻んでいきます。終末には、ハリストスが天から再び地上に来られ、人間と世界を新しく造り直し(復活)、永遠の「神の国」が始まります。「神の国」がどのようなものかは、私たちにはハッキリ教えられていません。ただ、「光栄から光栄へ」(「コリント人への手紙」にある言葉)、つまり、最高にすばらしいものから、それ以上に最高にすばらしいものへ、人と世界が永遠に変えられていく、そんな時と場所であることは、新約聖書にほのめかされています。
キリスト教では、最初の人間であるアダムとエヴァが神さまに背いてから、人間は弱く罪を犯しやすいものになってしまい、もう自分自身の力だけでは善い人間になれないと考えます。自分の力だけに頼るのなら、どんな修行をしてもむだというわけです。
そこで修行以前にまず信仰が必要になります。
どんなことを信じるのかというと、
まず、神さまが、人間の悲しく惨めなありさまを哀れに思って、「神の子」イイスス・ハリストスを処女マリヤから人として誕生させたこと、
次に、この「人となった神」ハリストスの救いのみわざ(十字架刑による死と三日目の復活が中心)によって、人間に「よみがえり」が与えられたこと、
さらに、洗礼を受けることによって、私たち一人一人はその「よみがえり」を自分自身のものにできること、です。
クリスチャンはこの信仰によっていただいた神さまの「恵み」に育てられて、少しづつ神さまがお喜びになる姿に成長していこうと考えます。
したがって、キリスト教の修行とは、自分の力に頼らず、聖書を通じて教えられる神さまの言葉に素直に聞き従い、神さまのくださる恵みを、心から感謝して受け取れる謙遜さ(へりくだり)を身につけることです。
修道院とは、この忙しい世界を離れて祈りと修行に専念する場所です。この世の楽しみや、財産や、家族をみんな捨てて(あきらめて)、修道院で一生を過ごすことを決意した人たちを修道士といいます。
でも、この世での様々な義務や責任を果たすために修道士になれない人たちもたくさんいますが、そのような普通の信徒も、実は、修道士たちと同じ意味を持つ修行を、「この世」といういっそう厳しい場の中で、行っているのです。
キリスト教の修行は、わざわざ人間の肉体を痛めつける「苦行」ではありませんので、肉体的な「つらさ」というのはそれほどありません。しかし、自分の心が、ほんとうに神さまの助けなしには救われない惨めさな状態にあることへの自覚が必要なので、厳しく自分を見つめることが求められます。自分をけっこう「いい人」だとうぬぼれていた人が、実は自分はとっても罪深い人間だったことに気づかされていくのですから、これはつらいことでしょう。
でも、神さまがそんな自分を赦してくださり、新しい自分によみがえらせてくださる希望があるので、このつらさには耐えられます。
女性をさげすんだり、汚らわしいものと考えることは一切ありません。
ただ、人間が、神さまによって男と女に作られたのは、それぞれの異なった役割を果たすことを求められているためですから、教会の中にも、男の役割、女の役割の区別があります。
まず教会に行って、お祈りや学びの会に参加し、自分の信仰を確かめます。信仰は趣味や「心のおしゃれ」ではなく、自分の一生涯をかけて、神さまに向かって歩んでいくことですから、ほんとうにその決意があるのかをしっかり確かめなければなりません。そのうえで洗礼を受け、教会の正式のメンバーになります。仏教のように、なんとなくいつのまにか信者になるというのではなく、洗礼を受けたときから信者となるのが、キリスト教の特徴ですね。
どうしても信じられないという気持ちになってしまった人を、無理やりに、教会に引っ張ってくるようなことは絶対にいたしません。キリスト教は人間の自由を大切に考えるからです。ただ、洗礼は神さまが人間を造りかえてくださることですから、本人は神を捨てても、神も教会も、その人を捨てません。その人がいつか立ち戻ってくるように祈り続けます。
タブーという言葉で、どんなことを意味しているのか、チョットわからないので、答えにくいですね。
旧約聖書には、汚れた動物のリストがあって、ユダヤ人たちは、それらを決して食べませんでしたが、ハリストスとそのお弟子たちはそのような決まりから人間が自由になるべきだと主張しました。従って、キリスト教には食べてはならないものはありません。ただ、心を神さまに向けさせるのにふさわしくするために、曜日や、期間を定めて、動物性食品を食べない時期があります。これを斎(ものいみ)といいます。水曜・金曜、それから復活祭などの大きなお祭りの前に、一定期間の斎がもうけられています。今では、おそらく正教会だけがこの古代からの習慣を守っているのではないでしょうか。これは、タブーというものではありません。守れなくても、各人が自由な意志で取り組むことですから、それによって、教会から追放されるというようなことはありません。
ほかにも、いくつか「信徒の心得」はありますが、いずれも、タブーという性質のものではありません。
教会で日曜日に信徒が集まって行う「聖体礼儀」というお祈り(礼拝)が中心です。ここでは、神さまを讃え、感謝し、世界中の人々の平安を祈り、パンとぶどう酒をささげ、神さまのお力によって、パンとぶどう酒そのままでありながら「ハリストスの体と血」に変化した「聖体血」を、信徒みんなで分かち合って食べます。
家庭でのお祈りも、朝晩食事の前などに行われます。
修道院では、毎日、晩課、晩堂課、夜半課、早課、一時課、三時課、六時課、聖体礼儀、九時課が繰り返されます。
エンジェルは「天使」「神使」とも翻訳され、神さまのためにはたらく、霊的な(肉体を持たない)存在です。天使の中で神さまに反抗して堕落したのが「悪魔」です。天使は神さまとは全く別のもので、神の象徴といったものではありません。
目に見えない神の働きを、目に見えるかたちや動作で象徴するものは、教会にはたくさんあります。十字架も神の子「ハリストス」の救いの象徴ですし、十字を胸に手で描くのも、ハリストスへの信仰の象徴です。他にも数え切れないほどの象徴が教会にはあります。
何も、特別なことはありません。
信徒は皆それぞれ、この世のいろいろな場所で生活しています。家庭で、職場で、学校で、病院で、電車の中で、街の中で…、神さまがどんなにすばらしい救いを人間に下さったのかを示すのが、信徒の日常です。それは、言葉だけではなく、むしろ、いつも元気にあふれ、みんなに親切で、失敗や間違いがあっても、神さまにごめんなさいと祈って、また元気を取り戻して生きていく、そんな一人一人の信徒の生き方を通じて、神の子・イイスス・ハリストスの救いが、ほんとうに人にイキイキした人生へのよみがえりを与えてくれるものであることを、伝えます。
「神」がいて、人生に目的や意味を示し、その目的を達成するために力を与えてくれるんだと信じて生きる生き方と、「神」などという目に見えないものは存在しないのだから、人生には目的も意味も特別にはなく、人はその人なりに勝手気ままに生きていけばいい、もし何も楽しいこと、気持ちいいことがなくなったら自殺しちゃってもいいんだという、生き方があります。どちらを選びますか?
あなたが、一人のお友達を善い人だと信じてつきあっていると、だんだんと、友達の善いところがたくさんわかってきて、ほんとうにその友達が善い人だということがわかってきます。いやなやつだと思って生きていると反対のことが起きます。それとよく似ていますね。神さまがいると信じて生きることによって、少しづつ神さまが「いる」ことがわかってくるのです。
人間がその感覚で知っていることが全てではないことは、目の見えない人にとって色や光はないに等しいのですが、それでも色や光はちゃんとあるということからも理解できるでしょう。
愛が、友情が、やさしさが目に見えますか。目に見えませんね。でも確かにあるでしょう。それとも、目に見えないから、そんなものは信じませんか。
愛や友情ややさしさというものも、実は、目に見えない神さまからの目に見えない贈り物なのです。
目に見えない神さまへの人間のあこがれは、とても深く、強い力を持っています。ですから、間違った方向に行くととんでもないことになります。その例が「オウム事件」です。何千年もの歴史のなかで、その確かさが確かめられた伝統的宗教がもっと真剣に、若い人たちの、本来人間として自然な宗教への関心を、きちんと吸い上げてあげなければならないと思います。
キリスト教全体の統計は、百科事典などでお調べ下さい。正教会の信者は世界中で二億人以上ですね。日本では一万人ほどです。
現在キリスト教が用いている聖書はおよそ二千年近くかかって書き記された様々な文書を寄せ集めたものです。それは、それぞれの時代の、指導者たち、祭司たち、預言者たち、詩人たち、また新約聖書ではハリストスの使徒たちが、神さまから特別のお力をいただいて書き記しました。神さまが人間に教え伝えたいメッセージを知るための、大変重要な啓示(本来目に見えない神さまが人にご自分を示すこと)です。
旧約聖書は、天地創造の物語からイイススがこの世に生まれる直前までの、人類と、特に神さまが人間の救いの突破口としてお選びになったユダヤ民族の、神さまとの関わりが、歴史物語、律法(守るべき戒め)、礼拝の歌、預言者たちの言葉など、さまざまな種類の文書で描かれています。
新約聖書は、ハリストスの生涯とそのお言葉を伝える四つの「福音書」、使徒たちの働きを記録した「使徒行伝」、聖パウロや他の使徒たちの「手紙」と、この世の終わりのことを不思議な象徴をたくさん使って暗示した「黙示録」によって構成されています。
ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。
ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。
私たち一人一人の心の中も含め、あらゆるところをその働きで見たし、この世界をたえず見守り、よいものを与え続けておられます。それ以上のことは、その「外見」も含め、人間は知る必要はないので、教えられていません。
人はどんなに悪いことをしても、心から悔い改めるなら、神さまはおゆるしになります。
うそについては、愛のためにつくうそと、悪意から出たうそがあります。愛のためにつくうそは、神さまはおほめになるでしょう。何でもかんでも、ほんとうのことばかり言うことが善いことでしょうか。ほんとうのことを正直に告げることが気の毒な人がたくさんいませんか。
信仰していない人が持っても、意味がありません。
信仰は真剣です。その真剣さの象徴であるものを、単なるおしゃれで身につけて何とも思わないというのは、ちょっと、考え直して欲しいな。
でも、少なくとも「かっこいい」と思ってくれていることは、やがて、真剣に、十字架を通じて、イイススのことを考えてくれるきっかけになるかもしれないんだから、「いいじゃない」という意見もあります。
複雑な気持ちですね。
天国にはどうやっていくのか、つまり最後の審判の時に、永遠の生命をいただくためにはどうすればいいのか。簡単です、神さまがお喜びになるような生活をすることです。つまり、それまでの神さまに背いていた生活を悔い改め、ハリストスの救いを信じ、ハリストスの教えた生き方を生きること、つまり「愛」です。仲直りできていない人がいれば赦し、仲直りし、人をいじめたり困らせるのをやめ、反対に、弱い人たちを助け、困っている人たちに親切にし、悲しんでいる人を慰めてあげることです。
キリスト教のことを全く知らないで生涯を送った人でも、同じような愛の生活を送った人は、永遠の生命に入れられるでしょう。
*このたび、高橋神父よりご了解を得て
1974年以来正教の初学者の方たちに親しまれ版を重ねてきた
「正教信仰図解」を「来て見てごらん」で公開する運びとなりました。
著作権は高橋神父に帰属します。
各自や各教会での学びに大いにご利用下さることを望んでやみませんが
無断での引用や転載を固くお断りいたしますので、ご注意下さい。
正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシヤへ広がりました。20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。
日本へは江戸時代末期、函館のロシヤ領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。
イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを、特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。
正教会は中世西ヨーロッパの頭でっかちなスコラ神学や近代の宗教改革も経験しませんでした。東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会」)で確認された教えや大切な教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な教会の伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。それは、キリスト教が問題に直面したときいつも立ち帰るべき「土台」と言ってもよいものです。
神学的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(師父)たちの精神性を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」・「マリヤの無原罪懐胎」・「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教理」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。現代ではかたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っているのです。
教会組織も、ローマ・カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんとまとめ上げられた一枚岩のものではなく、各地の独立した教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと言って、意見の違いや聖書解釈の違いで幾つもの教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿をすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。
ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと精神性がしっかり保たれています。
中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス・ハリストスの復活を「記憶」(キリスト教独自の意味があり「現実に今ここに在るものとして想い起こす」と言えば近いでしょうか)する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。
「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリント前書11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、主のお体と血としてのパンとぶどう酒(聖体・聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス・神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられます。
この神との交わりの体験の積み重ねこそ信徒の成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんなまじめな人間的な努力も実を結びません。
でも、いくら言葉でご説明しようとしても、正教はうまく伝えることはできません。正教は人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめないし、体験を通じてしか伝えられないのです。
友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ福音1:46)とお呼びかけするほかありません。
中学生の質問にお答えも見てください。