名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

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「なぜ、大斎」

名古屋ハリストス正教会 司祭 ゲオルギイ松島雄一

 大斎。
 「税吏とファリセイの主日」で「大斎準備週間」に入り、「乾酪の主日」に行われる「赦罪の晩課」で、信徒が互いの罪を赦し合い、いよいよ大斎。そして六週間の大斎期と受難週を経て、「パスハ」・主の復活大祭を迎えます。

西方教会での大斎

 大斎といえば、正教会では、魚も含めて肉を断つ、卵製品、乳製品を断つ、お酒は先備聖体礼儀が行われる水・金曜と聖体礼儀の行われる土・日曜以外は断つと、食べ物のことがまず思い浮かびますが、実は、西方教会の場合、食べ物のことはほとんど話題にならないようです。ローマ・カトリック教会でも昔は、正教会と同じように食べ物の制限が厳しく勧められていたようですが、どうやら、現在ではあまり食事のことは強調されず、信徒たちも普通と変わらない食生活をなさっているようです。もっともカーニバルだけはにぎやかに行われるようですが。
 いずれにしても現在では食事制限への関心は小さなものになっています。試みにカトリック中央協議会のホームページを覗いてみましたが、「四旬節特集」と銘打っていても、弱い立場の人たちへの慈善を訴えるメッセージや、カトリックの団体が行っている国際的な援助活動への理解を呼びかける記事ばかりで、私たちがイメージする大斎とはずいぶん隔たったものです。
 かつて、私の友人で熱心なローマ・カトリック信者の方が、「復活祭の朝、四旬節の間我慢していたコーヒーをぐっと飲むと最高です」なんておっしゃるので、「あれあれ」と思ったことがあります。
 プロテスタント教会になりますと、もう四旬節など、カレンダーにちっちゃな字で書いてある「マーク」にすぎません。復活祭だって、牧師さんのお説教のなかで「復活」にふれられるだけで、ふだんの日曜と少しも変わりません。

正教徒も、要注意!

 しかし正教徒もよほど気をつけていないと、私たちの大斎への取り組みも、西方教会の理解や実践とは色の濃さの違いだけで、色合いは同じということになってしまいかねません。西方教会がいつの間にか捨て去り、正教会がかろうじて伝えてきた大斎の本来の意味を見失ってはなりません。
 たとえば、よくこんなことが言われます。
 「いろんな事情で食べ物の斎ができなければ、聖書の通読や「テレビ断ち」にチャレンジしてみてはどうでしょう。また、お年寄りや病気の人への見舞い、慈善や社会奉仕などの善行で、食べ物の制限が充分にできない埋め合わせをしてもいいんですよ」。
 もちろんみんな善いことで、大いにお勧めできることばかりです。病気や哺乳のため栄養をとらねばならない方、激しい肉体労働をされている方、団体生活の中で自分の食事を自分で選択できない方、…そういう方々へは私もそのようにお勧めしてまいりましたし、これからもそうするでしょう。
 しかしその時、もし私たちが、「食べ物の斎」すなわち肉体的な実践が、「精神的な斎」すなわち精神的に価値のある行動や心のあり方で埋め合わせができると考えているとしたら、それは「正教会が伝えてきたこととは少し違う」と言わざるを得ません。
 同じ考え方から、大斎期間、タコやイカ、エビやカニは「魚」から除外され食べてもよいとされていることに対して、次のような発言がされることもあります。 「だからといって、毎日こんな贅沢なものばかり食べているんだったら、イワシなど安いお魚を食べるほうが大斎の精神にかなっているんだ」。
 とても「まっとうな」考え方ですね。しかし、ここにも「食べ物のこと」より「精神的なこと」の方が重要なんだという考えが潜んでいます。その食事が贅沢か質素かという「精神的」なことだけが問題にされ、イワシや鯖など脂っこくて背の青い魚をたくさん食べますと、カニやエビを食べたときにはない、ちょっとやっかいな「元気」がでてしまうという「肉体的」事実が無視されているのです。「タコがよくてイワシは駄目」というは、大斎の伝統を洗練させてきた正教会の修道院生活の長い歴史が、経験的に学び取っていった成果なのです。 

「精神的なことが重要」という落とし穴

 今申し上げました、食べ物の斎は「精神的な斎」に取り替えてさしつかえない、また食べ物のことより「精神的なこと」のほうが重要であるという考え、ここに大変な落とし穴があります。もしここで読者が「精神より食べ物の方が重要なんですか、主イイススだって『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マトフェイ4:4)』とおっしゃってるじゃないですか」と抗議されるなら、その方はもうこの落とし穴に落ちているんです。私はべつに「食べ物のほうが重要だ」と申し上げているのではありません。主も「人はパンで生きるのではない」と言っているのではありません。
 「精神的なこと、霊的なこと」と「食べ物のこと、肉体的・物質的なこと」とは別々のこと、むしろ対立することだという思いこみがそこにあります。「霊的・精神的」なことは善であり「肉体的・物質的」なことは悪、「霊的・精神的」なことは真実で「肉体的・物質的」なことは偽り、「霊的・精神的」なことは永遠で「肉体的・物質的」なことは一時的ではかないものという思いこみです。「霊的な面でしっかりしていれば、食べ物のことはこだわる必要はない、もし食べ物の斎に意義があるとしたら、それは節制によって精神を鍛え・霊的な向上を促すことにあるのであって、もし他の手段でそれが達成されるなら特に食べ物を斎する必要はない」という考えです。じっさい西方教会はこの考えを推し進めて、事実上食べ物の斎がなくなってしまったのです。四旬節のあいだコーヒーを飲まないなんて斎は、幼年時代の盲腸の手術の跡みたいなもんです。

本来のキリスト教の「食物」理解

 正教の理解では、「精神的なこと、霊的なこと」と「食べ物のこと、物質的・肉体的なこと」は別々に切り離され対立しているのではなく、緊密に結びついています。もっと大胆にいえば「同じこと」です。いや、正確に言えば同じこと「だった」のです。しかし実際には、人は、この同じことを別のこととして、切り離され、互いに対立するものとして、生きなければならなくなってしまいました。
 創世記によれば、神は人を造り、人の「食物」として世界を贈って下さいました。この贈られた食物を人は感謝と喜びをもって受け取らねばなりませんでした。皆さんは、大切な人から、また愛する人から何か贈り物をもらったら、その贈り物そのものを、その大切な、愛する人と感じたことはありませんか。私も若かりしころ大好きな女性から手編みのセーターを贈られました。ちょっと寂しくて落ち込んでいたとき、そのほかほかのセーターを取り出して顔を埋めて泣いたことがあります。――大好きな女性と言ったっておふくろですよ――。その時、その毛糸のセーターは母そのものでした。「そのセーターはあなたのお母さんの象徴(シンボル)だったのですね」なんて片づけて欲しくありません。たしかに、このセーターは毛糸で編んだ一つの「もの」にすぎませんが、たしかにそのセーターは母でした。「象徴」とは本来こういうものです。記号ではなく現実です。

 同じことが私たちがそこに生き、そこで触れるさまざまな「もの」の世界にも言えるのです。とりわけ食べ物に。
 私たちの感覚でも知性でも決して捉えることができない神様が「これはあなたがたの食物」として贈って下さったこの世界、この「食物」を、神様そのものとして体験し、あじわい、わかちあい、神様との親しさの中に喜びをもって、感謝をもって生きる、これがそもそも神様が人の使命として、人の喜びとして贈って下さった本来の生き方です。だからこそ「食べ物のことは、精神的なこと、霊的なことと一つ」と言えるのです。食べ物を食べるという、そのこと自体が神様との交わりなのです。

人が失ったもの

 人が神に背いて失ったのはこのような生き方でした。人はこの世界を、すなわち食べ物を、神様からの贈り物としてではなく、また神様との交わりの媒体や場としてではなく、自分自身の生存や快楽のための手段と考えるようになりました。「かけがえのない地球資源」というような言葉が聞かれますが、世界全体を人間が「横領」し、人間がその扱いを自由に決めることができる「資源」にしてしまいました。世界から神様の面影は失せ、食べ物からは神様の味わいがなくなってしまいました。食べることはたんなる肉体維持の手段となり、「精神的・霊的」なことだけが人間の生活にとって価値のあること、また唯一の神様との交わりの手段となってしまいました。皮肉なことにキリスト教自身が、とくにプロテスタント教会では「御言葉」「聖書」(すなわち精神的・霊的なこと)だけが唯一の神様からの啓示、また神との交わりの手段と考えられるようになり、主のお体を分かち合って食べる聖餐式(正教会で聖体礼儀に当たる儀式)など、年に数回たんに主の受難の「記念」として行っている教会が大半であるという有様です。

ハリストスが成し遂げたこと

 ハリストスが成し遂げた救いとは、まさに、人が失ってしまったこの生き方の回復でした。神様は肉体をとり人となり、十字架によって罪を赦し、罪の力から解き放ち、三日目の復活によって私たちを、ご自身が本来人に与えた生き方へと引き起こしました。私たちに回復され、私たちが再びそこへ差し向けられているのは、食べ物を食べるということ、すなわちこの世界に生きるということが、それ自体で神様との交わりであるという、喜びと感謝のあふれた生活です。生活そのものが讃美であり礼拝である生活です。そのために主は私たちの食べ物として、教会というご自身の体のなかで、「これは私のからだである。これはわたしの血である」と、ご自身をさし出し続けていおられます。パンとぶどう酒という食べ物は神ご自身のお体と血です。ハリストスによって、世界は、――そこで食べるいっさいは、そこで触れるいっさいは、ふたたびハリストスご自身の、神様ご自身のお体となりました。
 人間の本来のあり方に回復された生活、すなわち私たちクリスチャンの生活とは、本来このようなものであるはずなのです。

 しかし、私たちはハリストスが成し遂げた人間の救いのほんとうの意味を忘れて、あたかも何ごともなかったかのように、ある時は食い散らかし飲んだくれて食べ物に襲いかかり、ある時は美容のためと食べ物から逃げ回り、けっきょく食べ物と、すなわち世界と、けんか腰で生きるようになってしまいます。食べ物、すなわち世界とも仲良くできず、その食べ物が支配するこの肉体とも仲良くできず、そして精神との調和を失った肉体の、暴れ回る欲望から起きる自己中心的な情念で、人々とも仲良くできなくなってしまいます。もちろん、この「食べ物」を贈って下さった神様と仲良くできません。 
 大斎で食物を制限するのは、まさにこの私たちクリスチャンの逆戻りを、よみがえりの喜びへと引き戻すためです。贈り物としての食べ物を取り戻すためです。食べることが神との交わりである生活へと立ち帰らせるためです。ハリストスの十字架と復活によって回復された、食べること、生きることが神さまとの交わりであるという救いの現実へ、ハリストスによってもう一度連れ戻していただくためです。だからこそ、食べ物の斎には、大斎から受難週に至る奉神礼の体験が不可欠なのです。それは、人間の堕落、人間の流浪、人間の罪の深まりを回顧する「アンドレイの大カノン」という祈りに始まり、ハリストスの受難と死を日を追って体験する聖受難週の祈りに至り、パスハ・復活大祭の輝かしい祝祭へと開かれていきます。

でも、なぜ食物の制限

 しかし食物の制限はどのようにして「食物の回復」につながっていくのでしょう。むしろ何でもたくさん食べて、そこにある神さまの贈り物の味わいを堪能すべきではないでしょうか。もっともです。しかし残念なことに、私たちの舌は荒れ、腹はただれ、食べ物のほんとうの良き味わいを味わえません。飽食は私たちに「食べることのほんとうの意味」を忘れさせます。
 大斎の食事制限をまじめにやりますと、猛烈におなかが空きます。おなかが空くと、満腹の時に気づかなかった自分の弱さが、露わになります。怒りっぽくなります。涙もろくなります。無気力になります。食べ物という神の贈り物が、どれほどふだんの私たちを支えてきたかが、露骨に示されます。町を歩いていてふと気づくと、レストランのショーケースのトンカツをじっと見つめていたりします。そして「まあいいか、心がしっかりしていれば外面的・形式的なことは、ケースバイケースで」なんて自分に言い訳して食べてしまう。自分で決心して始めたことなのに、それを「外面的・形式的なこと」などと言ってしまうのです。しかし、この「しくじり」が大切です。その時、自分は神様に助けていただけなければ、一刻たりともまともに生きられない、いかに小さな弱い存在であるかを、肉体で思い知るからです。肉体と霊がいかに密接に関わり合ってるかを思い知り、この関わい合いに知らんふりして、肉体によって、すなわち食べ物によって支えられていることを忘れて思い上がっている「私」という霊が、いかに肉体をそして食べ物を、いじめてきたかを思い知るからです。

 カリストス・ウェア主教は次のように言っています。
 「斎の第一の目的は我々に『神への依存を自覚』させることである。…すなわち『私から離れてはあなたかたは何一つできない』(イオアン15:5)と言ったハリストスの言葉の力を完全に理解させることである。もしいつも腹いっぱいに食べたり飲んだりしているなら、我々は間違った意味の自主性と自己満足を得て、自分自身の力をやすやすとうぬぼれるようになってゆく。肉体的斎の実践はこの罪深い自己満足を根底から覆す。大斎的禁欲はファリサイ人――実際に斎したけれども正しい精神ではなかった――のもっともらしい自信から人を引き離して、救いに導く「税吏の自己不満足」をもたらす(ルカ18:10-13)。すなわち空腹と疲労の目的は我々を「心の貧しき者」にし、人間の無力と神の助けへの依存に気づかせることである」(「大斎の意味」水口優明神父訳、西日本主教区発行のカリストス主教論集1「私たちはどのように救われるのか」所載)。

 やがて斎が進んできますと、この空腹感が霊的な空腹感と一つになっていき、やがてハリストスへの渇き・神への渇きへと焦点を結びます。大斎平日の祈祷は是非参加していただきたい奉神礼ですが、その誦経が主体の長い単調な祈りのなかで、祈りの言葉への感受性がちょっと驚くほど鋭敏になってゆきます。ふだんは、何とも思っていなかった五十聖詠(51詩編)のことば、「我が不法は我の前にあり」などというフレーズが、実にリアリティをもって迫ってきます。

復活大祭の味わい

 最後にようやく食事制限が解かれ復活祭でいただくごちそうに私たちが何を体験するか、そのことをお話しして、結びたいと思います。
 また、カリストス主教の言葉を引用させていただきます。

 「斎は食物を汚れと見なさせるどころか、まさに全くその逆の働きを持っている。斎を通して、自分の食欲をコントロールすることを学んだ者だけが、神が我々に与えたものの完全な光栄と美を理解することができる。二十四時間何も食べない人にとって、一粒のオリーブは滋養分のかたまりと感じられる。斎の七週間の後、復活大祭の朝には、一枚のスライスチーズやゆで卵一個に、初めて知ったようなおいしさを味わえる」(「大斎の意味」)。

 復活祭の朝のゆで卵一個のたとえようのないおいしさに、ハリストスが成し遂げて下さった「食べることそのものが、神様との交わり」である生き方の回復、また、その生き方へと育てられていく実感、そしてついに、森羅万象が再臨したハリストスによって改め造りかえられ、ご自身のごちそうあふれる食卓に私たちをお招き下さるお約束への確信を新たにします。
 つまるところ大斎から復活祭への体験は、平日の準備が主日の聖体礼儀の領聖で成就するという、毎週、毎日の信仰生活の意味を、もういちどありありと確認させてくれるのだともいえましょう。聖体礼儀で聖神(せいしん、聖霊)の恵みによって主・神ハリストスのお体と血に変えられたパンとぶどう酒をいただくこと、またその領聖体験の繰り返しが、「食べることそのものが、神様との交わり」である生活への、また食べることすなわち「生きることそのものが神様の交わり」である生活への入り口なのであり、深まりであり、希望なのです。
 
参考文献:カリストス・ウェア主教論集1「私たちはどのように救われるのか」(2003年、西日本主教区発行)所載「大斎の意味」ダヴィド水口優明神父訳 

香炉・炉儀

奉神礼(礼拝)で香炉というものが振られるそうですが何ですか?

 正教の奉神礼(礼拝)では「炉儀」がしばしば行われます。「炉儀」は乳香を焚いた振り香炉を、輔祭や司祭が宝座(祭壇)やイコン(聖像)に向かって振ることです。最後には至聖所と聖所を隔てるイコノスタスという仕切の中央にある「王門」といわれる扉の前から、堂内の会衆へも、大きく炉儀されます。なぜでしょう?
 私たちの祈りが、かぐわしい香りとして神にとどくように?そうですね。
 私たちの心に隠れ潜む悪霊たちを、煙でいぶり出すため?もちろんそういう意味もあります。

 しかし、神さまが人間をどのようなものとしてお造りになったかにかかわる、大変重要なもう一つの意味があるのです。
 香は、まずハリストスのイコン(像・イメージ)に振られ、生神女から天使や諸聖人のイコンへと深い尊敬を込めて炉儀されていきます。皆、ハリストスによって示された人間の本来のあり方、像(イメージ)を分かちあっているのですから尊敬されるのは当然。そして会衆が炉儀されます。私たちがどんなに弱く罪深くとも、私たちの内に、尊敬されるべき同じ像が宿っているからです。私たちの罪深さにではなく、私たちにひそむ「神の像(イコン)」が炉儀されているのです。
 すこし、この機会に正教会の人間の創造についての理解の一端をご紹介します。
 
神の像と肖
 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(創世記1:26-27)。

 創世記は、神の人間の創造をこう伝えます。正教では「われわれのかたちに」を「像・Image」、「われわれにかたどって」を「肖・Likeness」という言葉で表し、神は人間をご自身の像と肖に創造されたと教えます。正教会のほとんどの聖師父は像と肖を全く同じこととは考えません。ダマスクのイオアンは「正教信仰注解」で「『われわれのかたち(像)に』という表現は筋道を立てて物事を考えてゆく力(論理性)と人格的自由をさし、『われわれにかたどって(肖)』という表現は、私たちの霊的努力(徳)によって神に似る者となってゆくことを指す」と言っています。肖は可能性として宿された神の似姿といえるでしょう。

「人がひとりでいるのは良くない」
 また「われわれのかたちに創造し、男と女に創造された」とあることは大変重要です。人間は個人としては完全な者ではなく、男と女で、言いかえれば、人格の交わりのなかで初めて完全となる者として造られました。創世記の第二章は、女の創造をもう少し詳しく語りますが、それによると、その発端は神が「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう(創世記2:7)」とお考えになったことでした。人はひとりでは人ではないのです。

 ここで、神がご自身を「われわれ」と呼んでいることに気づいて下さい。この「われわれ」は至聖三者(三位一体)の神のあり方を暗示しています。三位一体の神のあり方、愛による交わりの姿こそ、本来私たち人間がそのように成長してゆかねばならない「神の肖(似姿)」の本質なのです。

肉体と霊の結合
 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった(創世記2:7)。

 人間は、様々な物質が複雑に結合し、その化学反応の連鎖がずば抜けた精神的能力を実現した奇跡的な偶然の産物でも、逆に本来純粋な霊的存在が肉体という「牢獄」に虜になってしまったものでもありません。肉体と霊が結合してはじめて「生きるもの」・人となったのです。人は肉体と霊が健康な調和を保ってはじめて健康と言えます。

神の像と肖・交わりとしての人間・霊と肉体の全体性としての人間、これらは正教会の人間観や救済観の根本にある人間理解です。

日本正教会で使っている聖書

教会ではどんな聖書を用いていますか?

 正教会は「旧教」だから旧約聖書だけですか?また、別の聖典をお持ちなんですか?なんて質問をよく受け、どっと疲れてしまうことがありますが、正教会は「キリスト教中のキリスト教」です、新約・旧約とも、もちろん用います。ただ旧約については、紀元前3世紀アレキサンドリヤでヘブライ語原典から72人の学者によって翻訳された「70人訳ギリシャ語聖書(Septuagint)」を用いるのが基本で、他教派と異なります。使徒たちや聖師父たちが親しんだもので、新約聖書の中の旧約聖句の引用はたいていこの聖書からです。使徒たちからの伝統を守るため、正教会は今日に至るまで少なくとも奉神礼(礼拝)においては、70人訳を用い続けています。いわゆる外典については、正典に準じるものとして敬意を払われ、奉神礼でも読まれてきました。ただ、カトリック教会のように「第二正典」という「正典」扱いはしません。

 日本正教会では明治時代に語学に大変な才能のあった亜使徒聖ニコライ自らを中心に聖書・祈祷書が翻訳されました。新約についてはその当時の漢文脈の文語体で翻訳された「新約」が出版され、今日でも奉神礼で用いられるばかりではなく、信徒の日々の聖書としても親しまれています。奉神礼で読み上げられ、耳で聞かれることを前提とした、格調高くリズミカルな文体です。旧約は、残念ながら、ひとまとめになったものは、詩編を独立した巻としてまとめた「聖詠経」以外は、出版されていません。ただ、古代から伝えられ今日も生きた伝統として用いられている膨大な祈祷書群の随所に、主要な箇所は翻訳されており、聖歌として歌われたり、誦読されたりしています。

 奉神礼以外の、学びの会や日常の読みについては、最近は、文語体には抵抗のある若い人たちを配慮して、聖書協会訳を中心に現代の口語諸訳が用いられることが多くなっています。

 日本正教会訳の聖書の入手をご希望の方は、最寄りの正教会にお問い合わせ下さい。 

生神女マリヤへの理解

正教会ではマリヤさまを拝みますか?

拝みませんが、讃えます
 正教会ではイイススの母マリヤを決して神格化して「拝み」ませんが、生神女(しょうしんじょ)というタイトルを献じ、尊敬し日々の祈りの中、また教会の奉神礼(礼拝)のなかで讃えます。生神女はテオトコス・神を産んだ女という意味のギリシャ語で、古代教会では全教会が用いていた大切なタイトルです。このタイトルに反対する人たち(ネストリウス派・後に中国に渡り「景教」と呼ばれます)が5世紀に現れ、エフェスで開かれた第3回全地公会議で破門されました。神の籍身(受肉)という神が人となられたというキリスト教の根幹にある教義と密接にかかわる大切なタイトルですから、正教会は「聖母」というあいまいなタイトルは好まず、今も生神女と呼び続けます。

ローマ・カトリックの「無原罪の宿り」という考え
 さて、正教会がなぜマリヤを讃えるかということですが、決して神格化して讃えているわけではありません。むしろ、ローマ・カトリック教会が近代になって教理として宣言した「マリヤの無原罪の宿り」という考えには強く反対しています。この考えは、マリヤは私たちと異なりその両親から原罪を引き継がずに生まれたというものです。原罪は、正教会的な理解によれば、人類の元祖アダムとエヴァが犯した罪によって人間に生じた、人間性の病・ゆがみですから、このハンデキャップなしにお生まれになったマリヤが、清らかなご生涯を送られたのは当然と言うことになります。(ちなみに原罪という言葉も正教会は西方教会的な法律的理解による原罪観と混同されないよう、なるべく避ける傾向があります。陥罪という表現がよく用いられます)。

普通の人・マリヤ
 しかし、それではマリヤは私たち・教会を体現するお方、クリスチャンの生き方の模範ではなくなってしまう、と正教会はこの教理に反対します。正教会の理解では、マリヤは私たちと全く代わらない普通の人として、もちろん原罪というハンディキャップも負ってお生まれになりました。しかし、神の母となる者として、神から特別の恵みを受け、あのような従順と清らかな生涯が可能となりました。これは、私たち自身にも、もし、神の恵みの中で、マリヤのように神のご意志に同意してゆくなら、マリヤの実現した生き方が可能だということです。そして、いまや、クリスチャンは神の恵みの中に生きています。私たちは「神の性質に与る者(ペテロ後書1:4)」になる希望の内にいます。マリヤを「無原罪」とし、普通の人間より優れたお生まれの方とすることは、私たちからこの希望を奪い去ってしまいます。「どだい、生まれが違うんだから俺たちには無理」となるのです。

 神が確かに人となられたこと、そしてクリスチャンの「光栄から光栄へ(コリント後書3:18)」の成長の希望のしるしとして、私たちは生神女マリヤを讃え続けます。

結婚式について

正教会では信徒以外の結婚式をしてくれますか?

 日本のキリスト教界には、カップルの内どちらかが信徒であれば、さらに二人とも信徒でなくても、結婚式をしてくれる教派・教会がたくさんあります。自分の教会より立派な、お菓子の国の宮殿みたいな「チャペル」へ、のこのこ出かけていって、「キリスト教式がステキ!」というカップルに文字通り「サービス」している牧師先生もお見受けするようです。

 正教会では、二人とも正教会信徒でなければ結婚式は行いません。結婚式は婚配機密と呼ばれ、「聖体機密」(捉え方は違いますがプロテスタントでの「聖餐」)と同じように洗礼を受けた者だけが受けられる機密(ミステリオン、サクラメント)の一つです。 
 正教会では結婚は決して個人的な出来事ではなく、信仰によってハリストスに結ばれた新しい家庭が、教会という「神の民」の集いに祝福とよろこびとともに迎えられるという、共同体的な出来事です。よく、西欧の映画や最近の日本のテレビドラマで見受けられる、二人だけがひっそりと司祭や牧師の祝福を受けて結婚し「自分たちだけの」幸せをもとめて二人は旅立つといった結婚を正教会は祝福しません。結婚式には家族や友人はもちろんですが、信徒が大勢集い、美しい聖歌を声をそろえて歌い、ビザンティン時代から少しも変わらない壮麗な儀式を、教会共同体全体が参加する形で行います。断じて結婚するカップルだけの喜びではないのです。
 自分たちの結婚と家庭を、ハリストスが十字架と復活という救いのわざによって、この世界にもたらした新しい「いのち」の現実化の場としてささげよう、という二人の自由な決意に、神の祝福と恵みが与えられるのです。そうであれば、互いの信仰の一致が前提であるのは当然でしょう。

 福音宣教の手段として、キリスト教に少しでも触れてもらうために、結婚式を未信徒にも開放しようというのは、はっきり言って本末転倒です。
 クリスチャンの結婚は宣教の実りであり、手段ではありません。

ある結婚式での説教 正教会の結婚観を知っていただくために

父と子と聖神(聖霊)の名によりて

 先ほど、ヨハネによる福音書から、イイススが水をぶどう酒に変えた出来事が読まれました。こんなお話です。

 ある日、イイススは、お母さまのマリヤさまとお弟子さんたちといっしょに、カナという町で行われたある人の結婚式にでかけました。大勢の人たちがぶどう酒を飲んだり、ごちそうを食べてお祝いをしていましたが、とうとうぶどう酒がなくなってしまいました。マリヤさまに何とかしてあげて下さいと頼まれたイイススは、その家の僕たちに、そこにあった六つの大きな水がめに水を一杯に入れて、料理を取り仕切っている係の人の所に持っていかせました。料理長がそれをなめてみると、その水は、なんと、おいしい上等のぶどう酒に変わっていました。

 教会では、イイススのお弟子さんたちの時代から、結婚式には、このイイススのなさった奇跡が読まれ続けてきました。なぜでしょうか?考えてみて下さい。
 答えは、イイススが結婚式でただの水をぶどう酒に変えたということにあります。イイススが祝福する結婚、まさにたった今、お二人がお受けになった恵み。このイイスス・ハリストス、神であるお方の祝福と恵みによって、かつて水がぶどう酒に変わったように、今、お二人の結びつきが新らしいものに変えられたということなんです。

 人は誰に教えられなくても、男は女に、女は男に惹かれます。可愛い人だな、ステキな人だな、優しい人だな、頼もしい人だなと胸がときめいて、いっしょになりたいと望むようになります。でも、それだけなら犬や猫だって同じなんです。とてもあやふやなものです。そこで、人類社会は結婚という制度を打ち立てて、このあやふやさを少しでも落ち着いた、社会を安定させるものに変えようとしました。これが結婚です。でも、ただの結婚です。人間のあやふやさを外から押さえつけて何とか、秩序を保とうとしているにすぎません。

 このような「ただの結婚」を「ただの男女の結びつき」を、イイススは結婚を祝福することによって、神さまがそもそも人を男と女にお造りになったときに、このようであれとお望みになった姿に、回復されたのです。ただの水が、香しく、美しく、そしておいしいぶどう酒に、飲めば喜びがあふれ、身体を温め、生きる力がみなぎるぶどう酒に変えてくださったように、イイススはただの男と女の結びつきを、いのちを香しく美しくするもの、いのちに喜びと力と栄養を与えるものに変えてくださったのです。

 これが、主を信じ、洗礼によって改め造り変えられ、主の結婚の祝福にあずかったお二人に、今、起きたことです。でも、キリスト教は魔法ではありません。神の大きな恵みには人間の努力で応えなければなりません。お二人は、これからの夫婦一体の愛の生活を通じ、今日起きたことを、目に見えるものにしてゆかなければなりません。ぶどう酒も飲まなければただの液体にすぎないのと同じように、今日いただいた恵みを生かす努力を惜しんでは、教会の結婚であっても何もよきものを生み出しません。

 最後に、教会は、結婚を個人的な出来事とは考えません。お二人は結婚によって神と教会と隣人にある重大な責任を負う者となりました。
 お二人の結婚は、いやすべてのクリスチャンの結婚は、人間を絶望から救うものでなければなりません。人間とはよいものであること、愛というものは幻ではないこと、私たちがどんなに弱く、ねじくれたものであっても、神さまが、イイスス・ハリストスがその私たちをもう一度愛することのできる者たちにしてくれたことを、傷ついた社会に、傷ついた人々に、そして何より傷ついたちいさな弱い人々に、証ししなければならないのです。
アミン。