名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

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24、小さなハリストスになりましょう。

 聖体礼儀は、イイススの十字架に対する私達の尊敬と愛を示すことによって終わります。私達が祈祷の終わりに司祭の処に歩み寄るとき、私達は自分のまわりの神の家族の全て、神の愛を賛美するために集まった正教会の信者達を見ます。聖堂を出る時、私達は小さな神の生命を自分の中に保つ特別の人になります。ですから私達は特別の生き方をしなければならないのです。私達はイイスス・ハリストスが生きられたように生きることを心がけなければなりません。
 それではイイススが生きられたように生きるとはどういうことでしょうか。イイススがどのように生きられたかについて私達は、聖体礼儀で読まれる教えを聴くことによって学ぶことが出来ます。私達は先に、私達も使徒達のように人々にイイススのお話をすべきであることを学びました。しかし、私達は人々にお話をすることによってだけではなく立派な人として生活することによって、人々に語りかけなければなりません。
 イイススは誰をも愛し、全ての人々に善いことをされたと同様に、私達も全ての人々に善い行いをし、困っている人々を助けるように心がけなければなりません。サマリア人と同じように、私達は単に自分の知っている人、或は同じ人種、同じ信仰を持つ人、又は同じ教会に行く人だけを愛せば良いというのではありません。そうではなく、イイススがなされたように全ての人々を愛する心を持ったとき、私達は本当にご聖体を受け、神の国をつぐにふさわしい人になるのです。


神は霊ですから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである。
(イオアン4章24節)

23、復習

 これまで私達は、日曜日にどのように皆が教会に集まってお祈りをするのか、又私達の贈物をどのようにして神に献じるのか、そして神の贈物であるご聖体を私達がどのようにして受けるのかについて、見てきました。そこでもう一度、聖体礼儀の順序を追って復習してみましょう。

 聖体礼儀の最初の部分はプロスコミディア又は準備と呼ばれました。その時司祭は祭服を身につけます。そして、彼はパンとブドー酒を準備しました。つまり、彼は水とブドー酒をポティールに入れ、聖パンを切ってディスコスの上に置きました。私達は堂役として司祭を助ける時以外は、聖体礼儀のこの部分での司祭を見ることは出来ません。

 王門が開かれ、聖歌隊が歌い出すと、聖体礼儀の第二の部分が始まります。この部分は啓蒙者の聖体礼儀、又は言葉の聖体礼儀と呼ばれました。初代の教会にあっては、信徒になるために勉強していた人々は啓蒙者と呼ばれていました。彼等は未だ洗礼を受けていません。これは聖体礼儀の中で教えに関連する部分であり、この間に書札と福音が読まれます。
 真福九端が歌われる時、私達はイイスス・ハリストスの与えられた新しい戒に注意深く聴き入ります。
 私達は小聖入と呼ばれる行進の中で司祭が福音書を運ぶのを見ます。私達は、使徒の書札福音書が読まれるのを聴きます。そして司祭は説教をします。初代の教会で多くの啓蒙者が居った時、祈祷のこの部分は、司祭が彼等に聖堂を出るように伝えることによって終わりました。

 聖体礼儀の第三の部分は信者の聖体礼儀と呼ばれ、全ての正教徒が出席します。私達の贈物は聖歌隊がヘルビムの歌をうたう時、司祭によって宝座に運ばれました。私達は一緒に信経を称え、神の偉大なる行為を記憶します。司祭は祈りを捧げる時、最後の晩さんの時のイイススの言葉を記憶し、私達の贈物であるパンとブドー酒がイイスス・ハリストスの尊体、尊血になるように聖神を呼びます。
 私達は主の祈りを称え領聖します。そして、私達は神に感謝し、十字架に接吻し、聖パンを頂き家族や友人と一緒に家に帰ります。
 今日では初代の教会とちがい、この聖体礼儀の第三の部分にもお客様を招き入れますが、唯、ご聖体を受けられるのは、準備をした正教会の信徒だけなのです。

21、神の贈り物――領聖

 聖体礼儀の中で私達は全世界を神に捧げ、神にお返ししました。聖体礼儀の中で私達は、全てのものは神のものであることを告げ、そして、神は全てのものを私達が用いたり、楽しんだりするために与えて下さるのです。
 私達は今、聖体礼儀の中で神からの贈物を受け取る時に来ています。
 この領聖の時、神は私達が、神に捧げた全てのものを私たちに返して下さるのです。領聖により、神は非常に特別の方法で私達の生活の中に入って来られるのです。これは聖体礼儀の行われる度毎に起こることです。
 私達が神の贈物を頂くために近づく時、聖歌隊は次の様に歌います。
 「ハリストスの聖体をうけ、不死の泉をのめよ」。私達はご聖体の入っているポティールを持つ司祭に近づく時、そこには神が居られることを思って静かに、心からの尊敬をもって歩いて近づかなければなりません。
 私達は、ご聖体、ご聖血が先に私達が神に捧げ、大聖入の時司祭によって運ばれたパンとブドー酒であったことを思い出さなければなりません。つまり、私達からの神への贈物が、今神から私達への贈物となったのです。

「イイススと共にする食事」

 イイススが十字架に死なれた後、門徒達は非常に悲しんでおりました。何人かの女の人達がイイススの葬られたお墓をたずねましたが、お墓の中は空っぽになっていました。門徒達は大変不思議に思い、どのように考えたらよいのか分からずにいました。
 ある日、二人のお弟子がイエルサリムから11キロ程離れたエムマウスと云う村に向かって歩いていました。彼らは歩きながら話合い論じあっていました。その時突然、イイススは彼等に近づき一緒に歩かれました。しかし、お弟子達はそれがイイススであることに気付きませんでした。
 「何故あなた方はそのように悲しんでいるのですか」とイイススは尋ねました。
 二人のお弟子のうち、クレオパという名の人が答えました。「あなたはイエルサリムの人ではないから、そこで起こったことを知らないのです」。「どんなことですか」とイイススはたずねました。「私達の役人達がイイススを捕え、裁判にかけ、十字架につけました。私達はイイススが偉大な予言者で、イズライリを救って下さる方だと思っていました。しかし、今朝早く、女の人達が彼のお墓に行ってみたら、そこにイイススの死体をみつけることが出来ませんでした。そして、彼をみた人は誰もいないのです。
 イイススは言いました。「ハリストスは光栄を受ける前にその様な全ての苦しみを受けるはずではなかったのですか」。そして彼は、ハリストスの来ることについて預言者達が言っていた全てのことについて二人に説明しました。
 彼等が村に近づいた時、もう夜が近づいていたので、お弟子達はイイススに一緒に宿るようにお願いしました。
 夕食の席につかれた時、イイススはパンを取り、祝福してそれをさき、お弟子達に与えました。その時、二人のお弟子の眼は開き、彼等はその人がイイススであることに気付きましたが、イイススの姿は消えてしまいました。
 その後二人は言いました。「彼が私達に語られた時、お互の心が内に燃えたではないか」。

22、平安と感謝 ――聖体礼儀の祈り

 聖体礼儀は終わりに近づき、私たちは聖堂を離れる準備をします。私達は、神が与えて下さったご聖体について感謝し、聖歌隊は次の様に歌います。

「すでに真の光を見、天の聖神を受け、正しき教えを得て、分かれざる聖三者を拝む、彼、われらを救ひ給えばなり」。

 私達は、イイススが聖なる人であるように、自分達も聖なる人として毎日を送ることができるように祈ります。
 司祭は至聖所を離れ、聖堂の真中に来て、そこで私達と一緒にこの大きな式典を行い得たこと、そしてご聖体を受けるのを許されたことのために神に感謝します。
 私達は神に神の平安を与えて下さるようにお願いすることをもって、聖体礼儀を始めました。そして今聖堂を離れる前に司祭は「平安にして出ずべし」と称えます。こうして私達の旅行は終わります。私達は神のご聖体を受け、神の国は今や私達のうちに宿っています。
 司祭は王門を通って来て人々を十字架で祝福します。聖体礼儀の終わりに、ある教会では、人々が王門の処に歩いて行って司祭の持つ十字架に接吻し、聖パンの一片を受け取ることによって終わりになります。又教会によっては、人々は司祭から聖パンの一片を受け取るだけで十字架には接吻しません。
 私達は家族や友人達と教会を離れる時、聖なる生活を送るとはどんなことか、又私達のうちに小さな神の国を保つとはどんなことかを自問し、考えてみなければなりません。それは、私達が教会や聖書で学ぶ神のご意志に従って生き、そして、神のお仕事をするということです。神のお仕事をするとはどういうことかといいますと、それは聖使徒の生活を見ると明らかです。

「イイスス・ハリストスのお仕事を続ける聖使徒たち」

 イイススが天に帰られる時、彼は使徒達に大きな役割を与えられました。

「あなた方は行って全ての国民を弟子として、父と子と聖神の名によって彼等に洗礼を施し、あなた方の命じておいた一切のことを守るように教えなさい。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいるのである」。

 その10日後、使徒達がイエルサリムのあき家に集まっていた時、彼等はイイススが約束されていた聖神の力を受けました。それは、激しい風が吹くようにして来て、家一杯に満ち、炎の舌のような形で彼等一人一人の頭上にとどまりました。
 その日以来、使徒達はイイススのお仕事を行うことで恐れたりすることは決してありませんでした。彼等は全世界に旅立ち、教え、説き、教会を建て、困っている人々に善い行いをしました。彼等はそのためにしばしば獄につながれ、むちで打たれ、多くの人々が殺されましたが、決して仕事を止めませんでした。
 彼等は時には多勢の群衆に話し、又時にはイイススのことを学びたいと望んでいるたった一人のために多くの時間と愛を注ぎました。彼等は神の大きな愛について、貧しい人々、富める人々、全ての国民に教えました。彼等は、自分たちが出会う全ての人々に、そして自分たちに起こるどの様な出来事も、神が自分たちに行うように望まれたことを行う良い機会であることを知っていたのです。
 ここに使徒行実の中に書かれている一つの物語があります。
 神の使いがフィリップに言いました。「起きてイエルサリムからガザに行く道を南に行きなさい」。フィリップは出かけました。この道は砂漠でしたが、突然、フィリップはエチオピアの女王の家来である一人のアフリカ人に出会いました。彼は乗物の中で聖書を読んでいました。フィリップは心の中で「行ってあの人に語りかけなさい」という言葉を聞いたように思いました。それでフィリップはその人のところにかけつけて、彼が聖書を読んでいるのをみると「あなたは読んでいることが分かりますか」と言いました。エチオピア人は「誰かが私に教えてくれなければとても分かりません」と言いました。そして、彼はフィリップに、自分と一緒に腰掛けるように招きました。彼が読んでいたのは聖書のイサイアの預言書で、イイススがどの様に苦しみ、死ぬかについて書いてありました。エチオピア人は「この予言者は誰のことについて言っているのか教えて下さい」と頼みました。
 フィリップはイイススについて彼に教え始め、そしてイイススのなさったこと、教えられたことの全てと、彼がいかに死に、復活したかを教えました。
 彼等が道を行くと水のある処に来ました。エチオピア人は言いました。「ごらんなさい水があります。私は洗礼を受けることができますか」。そこで車をとめ、フィリップとエチオピア人は水に入り、フィリップは彼に洗礼を施しました。

20、「天に在す」のお祈り

 パンとブドー酒がご聖体、ご聖血になった後、私達は聖堂内の全ての人々、及び全ての聖人達と一緒に「天に在す」のお祈りに加わります。
 このお祈りはイイススご自身が教えられたものです。パンとブドー酒が聖体血になった後、私達はおそれることなく神の前に立ち、勇気を持って神を「私達の父」と呼びます。
 このお祈りの言葉をよく考えてみましょう。

「天に在す我等の父よ」
 イイススは私達に神を私達の父と呼ぶように教えられました。私達は教会にあって一つの家族であり、神を父として頂く兄弟姉妹です。神は天に居られて私達の肉眼ではみることができませんが、この見える世界と同じように、神は実際に居られる方です。

「願わくは汝の名は聖とせられ」
 「聖」には尊いという意味があります。この句を称えて私達は神の名は善であり、偉大であり、尊いものであることをあらわします。

「汝の国は来たり」
 私達は、神が私たちの生活を支配することを願います。そして、私達はいつか神の王国がこの地上に完成されることを望んでいるのです。

「汝の旨は天に行わるるが如く地にも行われん」
 天国においては全ての聖人や天使が神に従っている様に、私達も神に従い、神が望まれる様に行動したいと願います。

「我が日用の糧を今日我等に与え給え」
 「日用の糧」とは私達の生活に必要な全てのものを意味します。

「我等においめあるものを我等ゆるすが如く我等の債をゆるし給え」
 おいめ、とは私達が行ったり考えたりする悪いことを指します。私達は自分のこのような悪いことを神に赦してくださるように願い、そして私達も又他の人々に対して行ったり思ったりする悪いことを赦すことを神に約束するのです。

「我等をいざないにみちびかず、なお我等を凶悪より救いたまえ」
 私達は正しい、善い行いをする力を与えて下さるように神に願います。

 私達はこのイイススが直接教えて下さったこの尊いお祈りの言葉を覚え、内容をよく考えて日々の生活に生かしましょう。