名古屋正教会

Nagoya Orthodox Church

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クロンシュタットの聖イオアン

Св. Иоанн Кронштадтский

静思録--我が生命、ハリストスにあって

МОЯ ЖИЗНЬ ВО ХРИСТЕ

「およそ爾の喜ぶところを思い、かつ行いて」(福音書を読む前の祝文から)

長司祭、イオアン・セルギエフ


「注」
この本にはいかなる序文もつけようと思わない。本そのものが語るだろう。書いたことはすべて、深く心に思いを凝らしたとき、深く自分を見つめたとき、とくに祈りの中でそうしたときに遍く照らす聖なる神°(霊)によって私の魂に授けられた恩寵の光である。私の心を訪れた教えや感覚を、暇を見てノートに書き留めてきた。何年ものノートからこの本を編集した。内容が多岐にわたると思われるかもしれない。判断はお任せする。
「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。(1コリント2:15)」


第1部

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイイスス・ハリストスを知ることです(イオアン17:3)。」

1.神よ、あなたは私に、ご自分の真実、真理を豊かに開示された。科学によって私を啓発し、信仰、自然、人間の知性をことごとく見せた。「精神と霊とを切り離すほどに刺し通す(ヘブル4:12)」あなたのことばを知り、人知の法則、哲理を慕うこと、論述の形式と美を研究した。自然の神秘とその法則、世界創造の深淵、世界流転の法則にもほぼ通じ、地球上の人口分布、さまざまな民族、この世界で次々と変わる最近の著名人の言行を知った。自己認識の偉大な科学、あなたに近づく方法についても少々学んだ。

ことばを用いてたくさんたくさん学んだ。「おまえに示されたことは、既に人間の理解を超えたものなのだから(シラ3:23)」これからも、さらに多く学ぶだろう。
様々な内容の本をたくさん読んだ。何度も読み返した。それでも満足できなかった。私の神°(霊)はさらなる知識を渇望し、私の心は飽き足らなかった。飢え乾き、知性を用いて得られる知識を総動員しても、十分しあわせになれなかった。

「わたしは御顔を仰ぎ望み目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう(詩編17:15)。」その時まで飢え乾く。

「この水(この世の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:13-14)」


2.聖人はどのようにして、我々を見、我々の必要を知り、我々の祈りを聞くのだろうか。こんなたとえをしてみよう。

たとえばあなたが太陽の上に移動させられて太陽と合体したとしよう。太陽は地球全体を光線で照らし、地球の小さな部分部分にも光を注ぐ。これらの光線の中で、あなたもまた一つの光線として地球を見ているが、太陽全体から見ればとても小さい。言ってみれば、無数の光線の中の一つにしか過ぎない。太陽と一体になっているが、この光は太陽を通して世界全体を照らしていて、密接な部分をなしている。

だから聖人の魂も、霊(神°)の太陽である神と結ばれて、霊(神°)の太陽のただ中から、宇宙全体、すべての人々を照らし、祈るものの必要を照らし出すのだ。

3.あなたは在らざるところなき「智恵」、生きて働く「ことば」、生命をほどこす「聖神」として神を見、神のまえに自分自身を表すことを学んだか。

聖書は智恵とことばと聖神の領分、至聖三者としての神の領地である。聖書のなかで神はご自身を明らかに顕される。主は言った。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)」。
聖師父の著作もまた至聖三者の神の思惟、ことば、神°(霊)の表れである。そこには人間の霊が多く加わっている。

この世の普通の人間の書物は罪深い執着、習慣、情念を用いて人の堕落した霊を表現する。聖書の中では、ありのままの私たちが神と顔と顔を合わせて向き合う。人は聖書を通じて自分を知り、常に神の臨在の中にあるように歩む。

4.ご存じのとおり、人はそのことばにおいては滅びない。人はそのことばにおいては不死である。本人の死後もことばは語り続ける。私はいずれ死ぬが、死んだ後にも語り続けるだろう。ときには、とうの昔に死んでしまった人の語ったことばが残されて、今も人類全体のことばとして生きている。普通の人のことばでさえ、大きな力を持つ。

神の「ことば」は時代を超えて生き、常に生きて働く。

5.神は創造し、生き、生命を与える智恵である。自分の霊の意思に従って、至聖三者の智恵に背を向け、物質的な朽ちやすいもので自身を満たし、霊自身をも物質的にしてしまう者は罪深い。まして教会の奉事や家庭の祈りの時に、自分の意思を神から離し、聖堂の外のさまざまな場所をさまよわせてしまう者はさらに罪が重い。祈りの時は心を神に固定せねばならないのに、神を侮辱している。

6.ものいみと痛悔によって最終的に何に導かれるか。何の目的で修行を行うのか。斎と痛悔は罪から魂を清め、心の平和、神との一致、神の子であること、神の前に立つ大胆さを与える。斎と心の底から痛悔する理由はここにある。自発的な努力には計り知れない恩恵が与えられる。私たちの多くが「子」としての神への愛を感じているだろうか。私たちの多くが罪を得ずして(何のとがめもなく)、大胆に天の父に向かって「私たちのおとうさん」と呼びかけているだろうか。

逆に私たちの心の中に「子」としての声が聞こえない。この世の無駄ごとやその目的や快楽への愛着によって弱まっている。私たちの心から天の父が遠くなっていないか?私たちは神を離れて遠い国に行ってしまった。想像してみよう。神は復讐の神ではなかったか。そう、私たち誰もが自分の罪によって、神の正義の怒りと罰を受けて当然なのだ。神はどれほど長い間我慢し、耐えてくださったか。神は実のないいちじくのように私たちを打たなかった。さあ、痛悔と涙によって神に憐れみを願おう。自分を顧み、幾多の汚れが神の恩寵への通路を塞いでいる。自分が霊的に死んでいたことを悟ろう。

7.愛の神はここにいるのだ。影といえども悪を自分の心に入れることができようか。自分の中の悪を完全に殺してしまおう。よき香りの善で満たそう。生まれつき悪い私たちを悪へと扇動する邪悪なサタンよ、神の愛がおまえに打ち勝つようにしよう。悪は心にとっても体にとっても一番害がある。悪は燃えさかり、破壊し、歪める。悪に縛られたものはあえて愛の神の玉座に近づいてはならない。

8.祈るときにはしっかりと心を意志に服従させて、神に向けなければならない。冷淡、狡猾、虚偽、二心であってはならない。でないと、私たちの祈りや機密の準備は何になるだろうか。神の怒りの声を聞くがよい。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている(マタイ15:8)」

だから、聖堂では霊的に弱々しくてはならない。一人一人の心は神への仕事に燃えよう。もし私たちが礼拝を習慣的、あるいは冷淡に行うなら、誰もその祈りに価値を見いださない。神は私たちに心を求めておられる。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ(箴言23:26)」。なぜなら心は人とその生命の主要部分だから。心をこめて祈り、神に奉事しないなら何もしないのと同じだ。

なぜなら心のない体だけの祈りは「地」にすぎない。祈りに立つときは、すべての知識を持つ神の前に立っていることを思いなさい。全霊全智を総動員して祈りを行わねばならない。

9.神の聖人は死後も生きる。私は教会で神の母の心を通した素晴らしい歌、天使首から受胎告知されたあと従姉のエリザベタの家で歌った歌を聴く。モイセイ(モーゼ)の歌を聞くこともある。前駆イオアンの父ザカリアの歌、サムエルの母アンナの歌、三人の少年の歌、ミリアムの歌を聴く。今に至るまで新約の聖なる歌い手たちの歌が神の教会の耳を楽しませるのを何度聴いただろうか。

神の奉事そのもの、機密、儀式はどうだろうか。誰の神°(霊)が動き、心にふれるのだろうか。神とその聖人たちの神°だ。人の魂の不死は証される。これらの人々はみな死んだが、死後もわたしたちの生命を治めている。彼らは死んだが、今でも語り、教え、ふれる。

10.体のために呼吸が必要なように、また呼吸しなければ人は生きられないように、魂は神の息なしには本当には生きられない。空気は体のために必要だが、聖神は魂のために必要。空気はちょっと聖神と似ている。風が吹くとき、それを聞くことができる。「風は思いのままに吹く。(イオアン3:8)」

11.罪への誘惑を畏れるとき、自分向かって「罪は不正を憎む神を怒らせる」ことを思い出しなさい。「爾は不法を喜ばざる神なり(詩編5:5)」

 わかりやすくお話ししよう。正義漢で厳格な父親を想像してほしい。彼は家族を愛していて、あらゆる機会に子供たちを道理をわきまえたまっすぐな人間に育てようとしている。子供たちの正しい行いに対して巨万の富を報償として与ようとして、苦労して育てた。しかし子供たちは父親の愛に目もくれず、父を愛さず、父が子供たちのために用意した財産に何の関心も示さず、でたらめに滅亡に向かってなだれ堕ちていくのを見たら、どんなに悲しむだろう。見なさい、「罪が熟して死を生みます(ヤコ1:15)。」罪は魂を殺し、悪魔すなわち人殺しの奴隷にしてしまう。罪にかかわればかかわるほど、戻るのが難しく、廃人になってゆく。だから心をつくして、すべての罪を恐れなさい。

12.あなたの心が狡猾な思いに傾くとき、悪はあなたの心を浸食し始めている。信仰の岩から離れそうになるときは、心ひそかに言おう。「私は自分が神°(霊)において貧しいことを知っている。信仰なしには私には何もない。私は弱いので、ハリストスの名によってのみ生き、平安を得、喜び、心がふくらむ。ハリストスなしには神°(霊)において死んでいる。私は悩み、私の心は憂鬱。主の十字架なしに、最も邪悪な苦しみと絶望の犠牲になるだろう、ハリストスだけが私を生かす。十字架は私の平和と慰めである。

13. 私たちは誰でも考えることができる。まるで無限の大気が存在しているから息をすることができるように、無限の思考が存在しているからだ。だから、あるテーマにおいて素晴らしいアイディアが浮かぶのをインスピレーションという。

使徒は言う。「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(2コリ3:5)」主もまた「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。(マタ10:19)」だから考え、ことばそのもの(インスピレーション)さ外から来ることがわかる。これはもちろん、恩寵の状態と必要に応じて来る。

しかし普通のときでも、よい考えはすべて守護天使、あるいは神の聖神から来る。反対に不潔な暗い考えは私たちの堕ちた本性や、虎視眈々と私たちを待ちかまえている悪魔から来る。

クリスチャンはどのようにふるまうべきだろうか。「行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)」
総じて、この世の中に見える世界の成分の中に思考の王国を見る。特に地において、地の地球の回転や生命において。光、風、水、大地、火(隠された)などの要素の分配において。すべての動物たち、鳥や魚、爬虫類や獣の中に広がる他の自然の配分において。人間、理にかなった構造、才能、性質または習慣において。植物、その構造、栄養補給などにおいて。ことばのなかのどこにでも思考の王国を見る。いや生命のない石や砂の中にも。

14. 神の司祭よ。どうやったら、苦しみにあるクリスチャンの悲しみの床を信仰のなぐさめによる喜びに変えられるか学びなさい。苦しむ者は自分は最も不幸だと思っている。最もしあわせな人にしてあげられるか考えなさい。「わずかな試練をうけたのち、豊かな恵みを得る(知恵3:5)」あなたは人類の友、慰めの天使、聖神すなわち慰むる者の道具になるのだ。

15. もし、心の中の信仰の熱をかきたてようとしないなら、そのうち怠慢によって信仰は完全に消えてしまうだろう。キリスト教は機密もろとも死んだようになってしまう。敵は私たちの心にある信仰を消し、忘却の中に埋めてしまおうと努力している。
名前はクリスチャンでも行いは異教徒のような人を見ることがあるのはそういうわけだ。

16. 信仰は私たち牧者に生気を与えないと思うのか。自分は神に偽善的に仕えていると思うのか。違う。私たちは誰よりも先に、誰よりも多く神の憐れみを受けている。私たちは、主の機密において、主が私たちとともにあり、至浄なる[神の]母、聖人たちがともにあることを経験として知っているだろう。

 たとえば生命を施す救世主の血と体の機密を分かち合うとき、自分の中に、私たちを生かす力、聖神における平和と喜びの天の贈り物を体験しないか。[この世の]王様の目にとまって感激する喜びなど、天の主宰の慈愛に満ちたまなざし、主の機密による喜びに比べれば微々たるものだ。主が愛する者に生命を与える機密の栄光を知ろうとしないなら、また、聖体礼儀を行うたびに完遂される主の奇蹟を讃美しないとしたら、私たちは主に対して恩知らずで、心が頑ななのだ。

主の光栄と生命をほどこす十字架の神性な、無敵の、計り知れない力の効果を感じる。その力によってこそ、私たちは自分の心から邪悪な情熱、落胆、無気力、恐れ、他の悪魔の罠を追い出すことができるのだ。十字架は私たちの友、私たちの恩人。
私は、自分のいうことが真実であること、そのことばの力を信じて、心中から申し上げる。

17. あなたは理解できないことを理解しようと願っている。あなたの心を圧倒した内的な悲しみがどのようにしてあなたをとらえたか理解できるのか。主以外に、誰かそれを追い出してくれる人を見つけることができるか。まず、その悲しみから自由になる方法、心の平安を確実にする方法を学びなさい。その上でもし必要ならば、理解できないことを思索しなさい。「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか(ルカ12:26)」とあるから。

18. もっと頻繁に考えよう。あなたの体の構造には誰の知恵が顕れているか、生存と機能という点で、常に誰がその体を支えているかを。思考の法則を命じたのは誰か。だから今に至るまで、その法則には今でもすべての人間が従っている。すべての人の心に良心の法を刻印したのは誰か。だから今に至るまで、善いことには賞い、悪には罰がくだる。全知全能の栄光の神よ。あなたの手は常に我罪人の上にある。あなたの憐れみが私から離れることはない。常に生きた信仰とともにあなたの栄光の手に接吻させてください。

なにゆえ、あなたの憐れみと知恵と全能の力の形跡を探しに遠くまでいく必要があるか。ああ、なんと間近にその形跡が見えることか。私、私自身が神の全、知恵、全能の奇蹟なのだ。私自身が全世界のミニチュアなのだ。私の魂は見えざる世界の顕れ、私の体は見えざる者の顕れ。

19. 兄弟よ、我々のこの世での人生の目的は何だろう?この世の悩みや不運による試練を体験し、諸機密の中で与えられる神の賜物によって助けられながら私たちが少しずつ善において進歩して死んだ後、私たちの魂の安息である神において安らうためである。だから私たちは死者のために「主よ、爾の寝むりし僕の霊を安んぜしめ給え」と歌う。我々は死者が平安の中で憩うことを願う。すべての願いの極みとして神に祈る。だから死者のために悲しみすぎるのは賢くない。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタ11:28)。だから私たちの死者、キリスト教徒として眠りについた者は、神のこの声のところに至って、安らぎを得る。そこでは何を悲しむのか。

20. 聖神に満ちた人生を目指すものは、人生の一刻一刻、思いにおいて、最も技巧を要する難しい戦い、スピリチュアルな戦いを遂行しなければならない。いかなる時にもクリアな目が必要だ。魂の中に誘惑から入りこむ考えを見つけて、撃退する目である。こういう人の心はいつも信仰と謙遜と愛に燃えていなければならない。でなければ悪魔の奸計は易々と近づく道を見つけ、信仰の減退や全くの不信仰に陥り、悪は次々起こり、涙をもってしても拭い難くなる。

あなたの心を冷淡にしてはならない。特に祈りの時には冷淡な放心を避けなさい。よくあることだが、口先だけで祈っていても、心は狡猾、疑心、不信にある人は、口だけは神に近づいたような気になっているが、心は神から離れている。祈りの中で、悪は目に見えないあらん限りの方法で私たちの心を凍らせ、狡猾にしようとする。祈れよ、自らを堅固にせよ、心を固めよ。

クロンシュタットの聖イオアンとレウシンスキー修道院

レウシンスキー修道院ポドヴォリエ
Храм св. Ап. и Ев. Иоанна Богослова
Леушинское Подворие
(ペテルブルグのモスクワ駅近く)

191014,
Санкт Петербург, ул. Некрасова 31
(812)273-96-19
主任司祭:長司祭ゲンナディ神父

イオアン神父はいくつもの教会や修道院の設立に尽力したが、なかでも修道院長マートシュカ・タイシャ(写真)とともに1875年に創設したレウシンスキー女子修道院(ペテルブルグの南東300キロほどのシェクスナ川沿いにあった)は晩年のイオアン神父の霊的な子となり、サーロフの聖セラフィムにおけるディヴィーエヴォ修道院の役割をになった。イオアン神父は霊的師父として修道院を指導し、マートシュカ・タイシャはイオアン神父の活動を助けた。

1894年には同修道院のポドヴォリエ(出張所)をペテルブルグ市内に建てた。ここは神父お気に入りの場所となり、晩年の14年間に150回もの聖体礼儀を行った。神父はこの聖堂のアンボン上でロシア革命を予見し、「恐ろしいときが近づいた。悔い改めなさい」と人々に神への立ち帰りを説いた。

共産党政府によって1920年修道院は閉鎖され、1940年モスクワ・ペテルブルグ運河とダム建設のために水没させられてしまった(写真:水没した修道院の塔)。残ったポドヴォリエの建物も精神病院に転用されていたが、ペレストロイカ後三階部分の使徒福音記者聖イオアン聖堂が返還修復された。ここのクーポールの天蓋の至聖三者の壁画はクロンシュタットの聖イオアンが54年間奉職した聖アンドレイ聖堂のものを模写して描かれたものだが、閉鎖中も奇跡的に残り修復された。

主任司祭ゲンナディ神父(写真中央)は聖イオアンが愛したこの聖堂を誇りにし、積極的な伝道活動を行っている。さまざまな夜間コースも開かれ、誦経者や聖歌者養成のほかに聖堂用フラワーアレンジメントのコースもある。

聖歌はペテルブルグ音楽院でロシア古聖歌を学んだというアナスタシアとナタリアの二人の若いレゲントが指導し、ロシア古来の単旋律聖歌ズナメニイで歌われている。水曜夜の聖歌コースでは女性信徒たちがクリューキ(記号)を見ながら練習していた。息のあったユニゾンが美しい。

クロンシュタットの聖イオアンと日本

マリア 松島純子 (正教時報 2007年6月号/9月号掲載)


19世紀ロシアは多くの聖人を輩出した。クロンシュタットの聖イオアン(セルギエフ)は最も尊敬を集めるひとりで、日本教会とも少なからぬかかわりがあった。イオアン神父は妻帯司祭で五〇余年にわたってクロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂に奉職し、市井の人々の教化と伝道に一生を献げた。今回の旅行中、聖アンドレイ大聖堂は取り壊されてしまって見ることができなかったが、イオアン神父が創設しその棺が安置されている聖イオアン女子修道院と晩年に「霊的な子」として育てたレウシンスキー女子修道院のポドヴォリエを訪れた。しばし聖歌を離れて聖イオアンの足跡を紹介する。

 イオアン神父は一八二九年、極北のアルハンゲリスク近郊のスーラという貧しい村に生まれた。苦学して神学校に進み、二六歳の時ペテルブルグ沖の軍港島クロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂に司祭として赴任した。初めての聖体礼儀でイオアン神父はこう語った。「私が司祭として与えられたこの地における神の使命は、主ハリストスに対する愛、ただこれだけである。愛ほど偉大なものはない。弱いものを強くし、滅びようとするものをおこし、小さなものを大いなる者とするこれが福音の教えようとする純な愛の性質である(『クロウェンシタトのイオアン神父』京都ハリストス正教会)」。彼はこの確信を生涯実践した。当時のクロンシュタットには帝政末期の不穏な空気が漂い、盗みが横行し、物乞いがあふれ、人々の心はすさんでいた。イオアン神父は毎日聖体礼儀を行い、人々の話に耳を傾け、病人をいやし、数々の奇蹟を行った。貧しい人々のためには施すだけでなく自立を促すために職業訓練所、孤児院、無料宿泊所、製パン所などを創設した。

日本正教会の機関誌『正教新報』にはしばしばイオアン神父の活躍が報じられ、明治一七年一一月五日には「祈祷の応験」として病者をいやした奇蹟が紹介され、二七年二月一〇日付けでは「イオアン神父の慈善事業」として、労働の家、裁縫所、身よりのない人たちのための宿泊所、学校などが紹介されている。

イオアン神父寄贈の福音書(京都教会蔵)と成聖式(後ろの方で司祭が掲げているのが福音書と思われる)

 イオアン神父と七歳年下のニコライ大主教とは早くから親交があり、神父は日本への宣教を物心両面から応援した。明治三三年(一九〇〇年)七月八日の日記に「クロンシュタットのイオアン神父から荷物が届く。中身は聖福音経、宝座用十字架三個、聖櫃、灯明皿、司祭用祭服二名分、大気小伏六揃い、聖体礼儀用聖器物一式二揃い、その他。すべては純銀製あるいは絹地で、優雅な新品。イオアン神父の慈愛のため、更なる神の祝福がイオアン神父にありますように。献納された物は信徒に見せるために洗礼室に展示した。信徒は皆、神の僕クロンシュタットのイオアン神父の名を知っている」とある。この中から明治三六年五月に京都生神女福音聖堂の成聖の記念として福音経が京都教会に贈られた。裏表紙にはニコライ大主教の筆跡でイオアン神父から贈られたという由緒書きがあり、アレクセイ総主教聖下も二〇〇〇年の京都訪問の際の祝辞で言及された。

 聖イオアンのイコンの多くはポティールを手にした姿で描かれる。神父は主の機密にあずかることの大切さを説き続けた。
「準備ができていない。ふさわしくない」と領聖しない人にイオアン神父はこう呼びかけた。「謙遜というもっともらしい口実の下に、実は無関心や怠りの心が潜んでいないか。準備を怠ってはならない。己を省みよ。罪のない者はなく、至聖なる主との交わりに『ふさわしい』人などひとりもいない。(中略)あなたは、ふさわしくないと言う。機密にあずかることを許すかどうかは、機密を領ける者ではなく、機密を執行する者の任務であり、決める任務が自分にあるなどと思ってはならない。(中略)主は、聖堂において気前よくその豊かなる食卓を私たちのために用意し、その晩餐に私たちを招いてくださっている。私たちは、その慈しみ深い招きに対し、『参ることができません』(ルカ一四、一八)という恩知らずの答えをすることを恥としなければならない」。むしろ「『招かれていた人はふさわしくない人々だった』(マトフェイ22、8)という恐るべき宣告をおそれなければならない。ゆえに、自分の不当さをおそれながらも、恩寵を信じ、いと甘美なるイイススへの愛を渇望する心で、できるだけ頻繁に主の食卓に就くように、奮闘しなければならない。主の聖体尊血こそ真のパンだからである」。

 七千人収容可能の聖アンドレイ大聖堂ではほとんど毎日聖体礼儀が行われ、ロシアのことわざで「リンゴの落ちる隙間もない」ほど人々であふれた。軍港町のクロンシュタットには短い寄港滞在期間しかない水兵も多く、一人一人の痛悔を聞く時間的余裕がないため「集団痛悔」を行って領聖に備えさせた。首司祭ワシリー・シュスチンは若い頃集団痛悔に参加したときのことを語る。朝四時からの早課に続いて痛悔が始まった。「痛悔前の祝文が唱えられ、痛悔について二言三言ことばがあった。イオアン神父は全教会に聞こえる声で『悔い改めよ』と告げた。信じられない光景が起こった。すすり泣き、叫び、隠された罪の告白。イオアン神父の耳に届くようにできる限り大声で告白する人もいた。その間イオアン神父は宝座にひざまずき、額をつけて熱心に祈った。叫び声が静まり、泣き声になり、一五分ほど続いた。イオアン神父の顔にたらたらと汗が流れていた。立ち上がりアンボンに出てきた。神父はエピタラヒリを持ち上げ、頭を垂れた人々の上にかざし、罪を解く祝文を読んだ」。

 イオアン神父の訓戒に耳を傾けて、多くの人は生き方を改め、心から痛悔をし、博愛の牧者の手から喜びながらご聖体を領け、病の癒しを受けた。

 日露戦争後日本にはたくさんのロシア人捕虜がいた。中でも松山の捕虜収容所には三千人もが収容されていた。担当のセルギイ鈴木九八神父は「痛悔領聖を望む者が多いので、クロンシュタットのイオアン神父の行っているという集団痛悔を許可して頂けないか」とニコライ大主教に手紙を書き送った。「私はためらうことなく許可を与え、集団痛悔を行うための手引き書を送った。(中略)ただし重い罪を告白するもののためには個々の痛悔を行うように言い添えた」と一九〇五年三月五日の日記に記している。おそらく捕虜の中にクロンシュタットでの集団痛悔を知っているものがおり、セルギイ鈴木神父に進言したものと思われるが、ニコライ大主教もイオアン神父の活動に深く共鳴していたことがわかる。(続く)

 イオアン神父の著作は早くから日本語に翻訳紹介されていた。『説教集』は第一巻が明治三一年に、随筆集『静思録』は三三年から相次いで出版された。『説教集』は明治二八年九月、ペテルブルグの神学校に留学中だったイオアン瀬沼格二郎(後の神学校校長)が神父から直接手渡されたもので、序文にはその時の様子が記されている。瀬沼は帰国前に高名なイオアン神父に会いたいと思い、神父の創設した「労働の家」で待っていた。

イオアン神父は黒塗りの箱馬車を降り、輔祭誦経者に伴われて走るように建物に入り、待ち受ける人々に向かって活発に挨拶のことばをかけた。日本から来たと瀬沼が紹介されると、神父はたいへん喜び、近づいて抱きしめ、祝福した。「異教の国である日本のために祈って欲しい」との瀬沼の願いに答えて「私は信徒のためだけではなく、日本の異教人のためにも常に祈りましょう」と言われた。自書六巻(『説教集』三巻、『随感随筆』(静思録)二巻、『奉神礼についての随筆』一巻)を手渡され、「国に帰ったら、至聖三者の道のために尽力しなさい」と励まされた。
 『静思録』はニコライ大主教に贈られたロシア語版を明治三三年に上田将が翻訳した。完訳本出版前にもしばしば『随感随筆』として正教新報に抄訳が紹介されていた。『静思録』第一巻を開くとイオアン神父の肖像写真が掲載されている。写真の下には「およそ爾の喜ぶところを思い、かつ行いて」というメッセージと「長司祭イオアン・セルギエフ」の自筆のサインがある。これは聖体礼儀の福音前の祝文からの引用で、原書にも副題として添えられている。

 『静思録』はイオアン神父の代表作ともいえる著作で、原題を『ハリストスにおける我が人生』、さまざまな折りに聖神に鼓吹されて書き留めたノートから神父自身が選択編集したものである。世界中の正教徒に愛読されインターネット上でもロシア語版、英語版で全文が紹介されている。聖書のことばや聖師父のことばが縦横に散りばめられているが、単なる引用ではなくイオアン神父自身のことばに言い換えられ、現代人の私たちにも身近に感じられる。産業革命や近代化の時代にあって、イオアン神父は科学の進歩や学問の知識を無闇に否定するのではなく、神の真理、神の智恵の光に照らして、より高い次元から捉えなおす。科学や常識に縛られて閉塞した心に聖神の自由な風が吹き、新しい視野が開ける。


神よ、あなたは私に、ご自分の真実、真理を豊かに開示された。科学によって私を啓発し、信仰、自然、人間の知性をことごとく見せた。「精神と霊とを切り離すほどに刺し通す(エウレイ四、一二)」あなたのことばを知り、人知の法則、哲理を慕うこと、論述の形式と美を研究した。自然の神秘とその法則、世界創造の深淵、世界流転の法則にもほぼ通じ、地球上の人口分布、さまざまな民族、この世界で次々と変わる最近の著名人の言行を知った。自己認識の偉大な科学、あなたに近づく方法についても少々学んだ。(中略)
様々な内容の本をたくさん読んだ。何度も読み返した。それでも満足できなかった。私のしん神(霊)はさらなる知識を渇望し、私の心は飽き足らなかった。飢え乾き、知性を用いて得られる知識を総動員しても、十分しあわせになれなかった。(中略)

「この水(この世の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(イオアン四、一三ー一四)」

もっと頻繁に考えようではないか。あなたの体の構造には誰の知恵が顕れているか、生存と機能という点で、誰がその体を常に支えているかを。思考の法則を命じたのは誰か。だから今に至るまで、その法則にすべての人間が従っている。すべての人の心に良心の法を刻印したのは誰か。だから今に至るまで、善にはむく賞い、悪には罰がくだる。全知全能の栄光の神よ。あなたの手は常に我罪人の上にある。あなたの憐れみが私から離れることはない。常に生きた信仰をもって、あなたの栄光の手に接吻させてください。(『静思録』)


さて、イオアン神父はいくつもの教会や修道院の設立に尽力したが、なかでも修道院長マートシュカ・タイシャとともに建てたレウシンスキー女子修道院(ペテルブルグの南東三〇〇キロほどにあった)は晩年のイオアン神父の霊的な子となり、サーロフの聖セラフィムにおけるディヴィーエヴォ修道院の役割をになった。イオアン神父は霊的師父として修道院を指導し、マートシュカ・タイシャはイオアン神父の活動を助けた。一八九四年には同修道院のポドヴォリエ(出張所)をペテルブルグ市内に建てた。ここは神父お気に入りの場所となり、晩年の一四年間に一五〇回もの聖体礼儀を行った。神父はこの聖堂のアンボン上でロシア革命を予見し、「恐ろしいときが近づいた。悔い改めなさい」と神への立ち帰りを訴えた。


 イオアン神父は一九〇八年一二月二〇日に永眠し、遺体は神父の創設したペテルブルグの聖イオアン修道院に安置された。人々は永眠後も神父を慕って墓所に詣で、取りなしの祈りを願った。革命後修道院は閉鎖され墓参りは禁止されたが、人々は棺のある窓に十字架の印をつけ窓辺で祈り続けた。当局は何度も消したが、そのたびに誰かがまた新しい十字架を描き、イオアン神父に祈り続けた。今は総主教庁直属の修道院として美しく修復され、何度も十字架が描かれ真っ黒になった壁には新しい十字架が彫り込まれて、ロウソクが献げられている。
一九二〇年レウシンスキー修道院も閉鎖され、共産党政府によるモスクワ・ペテルブルグ運河とダム建設のために水没させられてしまった。残ったポドヴォリエの建物も精神病院に転用されていたが、三階部分の聖堂が返還修復された。聖アンドレイ聖堂のクーポールの壁画を模写して描かれた至聖三者のイコンは奇跡的に残っていた。
 現在の主任司祭ゲンナディ神父は聖イオアンが愛したこの聖堂を誇りにし積極的な伝道活動を行っている。イコノスタスは、まだベニヤ板を張っただけの簡単なもので天使門の扉もなかったが、持ち寄られた赤い花の列が美しく、百人ほどが熱心な祈りを捧げ領聖者も多かった。朝八時から痛悔機密が始まったが希望者が多く聖体礼儀の開始時刻になってしまった。神父は第三アンティフォンまで聖所にとどまり痛悔を聴いていた。

 さまざまな夜間コースも開かれていて誦経者や聖歌者養成のほかに聖堂用フラワーアレンジメントのコースもある。水曜夜は聖歌のコースでロシア古来のズナメニイ聖歌を取り入れ、女性信徒たちがペテルブルグ音楽院でロシア古聖歌を学んだナタリアさんについて、クリューキという記号を見ながら、スティヒラ五調(パスハのスティヒラと同じ)のメロディのパターンを何度も何度も繰り返していた。口から耳への昔ながらの伝授である。

 最近窓枠を新しいものに取り替えたが古い窓枠の廃材で十字架を作るという。「この窓枠はイオアン神父の声を聴いていたんですからね」とゲンナディ神父はほほえんだ。確かな伝統の上に正教を復活していこうという意気込みが感じられた。

 日曜日、聖体礼儀が終わり、私は日本のマートシュカとして紹介された。人々は「日本の教会のみなさんのために」と一枚二枚とイコンカードを買い求め、私の手にはあふれるほどのカードが積み重ねられた。かつてイオアン神父が『異教の地』にある日本教会と日本の人々のために祈ったように、聖イオアンゆかりの聖堂に集う人々が日本の教会のために祈ってくれる。時を越え、海を越えてイオアン神父の祈りは続いている。


ハリストスの教会に生きるということは神の「近さ」を感じることだ。同時に、天の教会を近くに感じることだ。「近さ」とは歴史的な記憶や教会の伝統保持だけではなく、天の教会に生きる使徒達、致命者、聖人、師父、すべての義人と密着して祈ることだ。教会の中に生きるとは霊的な世界とコンタクトを保ち、神の恵みが入って来られるようにあなたの心を開くことだ。ハリストスの体と血を分かちあうこと、教会の機密、交わりの祈りは私たちを地上から天上へと持ち上げるために神が与えた方法なのだ。(『静思録』)

この原稿の執筆にあたっては仙台のセラフィム主教座下、京都のイオアン小野神父、レウシンスキー・ポドヴォリエのゲンナディ神父、中村喜和教授、A・ポタポフ兄、G・ベストレミヤナヤ姉ほか内外の多くの友人の協力を頂きました。)


クロンシュタットの聖イオアンの生涯

翻訳: アレクセイ ポタポフ


聖アンドレイ大聖堂(革命前、現在は取り壊されて跡地は小公園になっている 聖イオアンのアパート。群衆がつめかけている。

クロンシュタットの奇蹟者聖イオアンは、ロシアの名高い聖人の1人である。イオアンは、1829年10月19日、アルハンゲリスク州スーラ村の貧乏な堂役イリヤ・セルギエフとその妻フェオドラの子として生まれ、同日に記憶されるブルガリアの聖人、リーラの克肖者聖イオアンにちなんで命名された。メトリカ(当時、教会に保管された戸籍簿)には、将来の聖人イオアン神父の出生についてこう記述されている。「病弱の為、自宅にて司祭セルギエフより洗礼機密を受けた。代父:イワン・クンニコフ、代母:司祭セルギエフの娘ダリヤ」。

イオアンの父イリヤ・セルギエフは教育をほとんど受けていなかったが、村の聖堂の堂役を務めていた。聖堂は貧しく、聖器物も安い錫製のものばかりだった。イオアンの祖父は司祭であり、約350年前にさかのぼる父方の先祖の大半も司祭であったことが分かっている。後年のイオアン神父は、女子修道院長タイシヤ宛の手紙で、父についてこう書いている。

 「父は1802年に生まれた。1824年に地方神学校を卒業し、1828年には結婚した。そして1829年、神の慈しみによって、私がこの世に生を享けた。両親は貧乏だった。それに父は病気がちで、重労働のせいでいつも腹痛で苦しんだ。ヘルニアだったか癌だったか、1851年、48歳の若さで亡くなった」。

父と違って母のフェオドラは長寿を全うし、息子の名がロシア全国に知れ渡る日を見ることができた。フェオドラは素朴で信心深い人だった。子供時代のイオアンは病弱な体質であり、天然痘にかかって死に瀕したことがあった。母親はイコンの前で涙を流してわが子の平癒を祈った。そのような母の姿を見て育ったイオアンは、心底から捧げる深い祈りの心を早くから学んだ。

イオアンの母は純朴で厳格な人であったが、温かい、愛情溢れる人でもあった。息子は母親に影響されて祈りの心だけでなく、神を愛し人を愛する心、ハリストスの教会に尽くす心、教会の聖規則に無条件に従う心を学んだ。
司祭に叙聖され、道徳の教師となった後も、イオアン神父は、重要な決断を下す時はいつも無学の母に相談した。子供の頃から、イオアンは親孝行の模範だった。敬虔な両親が蒔いた種はイオアンの心に育ち、子供の時代から既に実を結び始めていた。イオアンは、人の不幸を自らの不幸のように悲しみ、災難に遭った人のために熱心に神に祈った。村の人はそれを特別な恩寵と認め、自分のためにぜひ祈ってくれ、とイオアンに依頼する人が多かった。

少年時代のイオアンは、何回か神妙な異象を見ることを神から賜わった。修道院長タイシヤは、イオアン神父の話をこう伝えている。「ある夜、不思議な光がワーニャ(イオアンの愛称)の部屋を満たした。見ると、光の中には天の光栄に包まれた天使が立っていた。小さいワーニャはどうすればよいかわからなかったが、天使はワーニャの守護天使と名乗り、子供を安心させた」。

1839年、父は苦労してわずかな資金を集め、イオアンをアルハンゲリスク市の教会小学校に入学させた。しかし、最初の頃、勉強はうまくいかず、いくら頑張っても良い成績が取れなかった。イオアンは故郷のこと、窮乏生活を余儀なくされている両親のことが頭を離れなかった。このような体験を通して、イオアンは人の痛みを身に沁みて感じることを覚えていった。

イオアン神父の手記には、ラードネジの聖セルギイの生涯を髣髴とさせる次のエピソードが記述されている。
「私は夜中に起きて神に祈ることが好きだった。皆が寝ているし、周りはしんと静まり返っている。安心して祈ることができた。両親が私のことを心配しないよう、神が何よりもまず知識の光を与えてくださるように祈った。その夜のことは今のようにはっきりと覚えている。皆がもう寝ていたが、私だけはなかなか寝付かない。相変わらず授業の内容が理解できないし、文字を読むのも下手で、教えてもらうことがなかなか覚えられないことが、心配の種だったのである。底知れぬ空しさに駆られ、ひざまずいて熱心に祈った。どれだけ祈り続けたかわからないが、突然、私の全存在が一種の衝撃を受けた。目から鱗が落ちたように頭がひらめき、その日の先生の姿と授業の内容がはっきりと思い浮かんだ。先生が何を話したかも思い出されて、心から嬉しくなった。その夜、いつになく安らかに眠れた。夜明けに起きて教科書を開いてみると、なんと前に比べて文字がすらすら読め、内容も全部把握し、暗記もできるではないか。教室にいる時もすっかり様子が変わった。授業の内容が全部わかり、記憶できるようになった。先生が算数の問題を出すと、解くことができ、先生に褒められたほどである。そして、短期間で成績がめきめき上がり、びりの生徒ではなくなった。その後もさらに勉強ができるようになり、卒業後、優等生として神学校に進学することもできた」。

アルハンゲリスク神学校に入学した後も、イオアンの熱心な信仰は衰えなかった。イオアン神父は、タイシヤ修道院長にこう話した。「私が子供の頃から神に心を向け、神への愛に燃え始めたきっかけは、聖なる福音書だった。父には、教会スラブ語とロシア語の福音書があった。学校が休みになると、家に帰ってはこの素晴らしい書物に読み耽った。その言葉使いと物語は、私の子供心にも理解できた。福音書を読むことは最大の喜びであり、かけがえのない慰めだった。その時の福音書は、神学校に入ってからも手放すことはなかった。小さい頃から親しんだ福音書は、私の少年時代の伴侶であり、導きであり、慰めだったといえる」

神学校での最後の数年間、イオアンは熱心に神学を勉強した。その知識をいつどこで応用することになるかまだ決まってはいなかったが、とにかくできるだけ知識を身につけようとしたのである。特に人類の贖罪や救いの営みの奥義について思い巡らすことが多かった。青年イオアンは意識的な、深い信仰を心に育てていったのである。
1851年、イオアンは最優秀の成績で神学校の課程を修了し、官費学生としてペテルブルグ神学アカデミーに推薦入学した。当時、それは大成功といえることだった。

都会生活はイオアンを少しも変えなかった。前と同じように信心深く、精神生活に集中した青年であった。
1851年にイオアンの父が亡くなった。イオアンは、勉学を犠牲にして神学アカデミーで事務員のアルバイトを始めた。月給は9ルーブル(当時の日本円約9円相当)だったが、一家の稼ぎ手を失った母と姉妹に全額を送金していた。このアルバイトは、給料がもらえる他、ひとりになれるという利点があった。一般の神学生と違って事務員は専用の事務室を与えられ、その事務室がイオアンの祈りや修業の場となったのである。
ある人の学位論文を清書した報酬としてお金をもらうと、聖金口イオアン著マトフェイ福音注解の本を購入し、それを「宝物の中の宝物」と言って喜んだエピソードもあった。

神学アカデミーの同級生だった後の長司祭Lは、当時のイオアンについてこう回想している。
「セルギエフ(イオアンの姓)と話すとき、よく出る話題は謙遜だった。『謙遜には何が対抗できようか。どんな悪でも、どんな力でも、謙遜には勝てない。小さなことでも、障害にぶつかると、どうすればよいか、力ずくで障害を取り除くか、謙虚な愛の心で克服するかと迷うとき、ぜひ謙虚な愛を選ぶべきだ。そうすれば、必ず勝てるだろう』と、彼は言ったものだ」

イオアン・セルギエフは、どんなことがあっても人を赦し、謙遜し、あらゆる困難を乗り越える愛についてよく思い巡らした結果、神への道は謙遜に満ちた愛の道しかなく、そのような愛こそハリストス教の力であり、最も重要な教えであると確信したのである。

イオアンは、大好きなアルハンゲリスク地方の北の森を思わせる神学アカデミーの公園の並木道を散歩しつつ、ゴルゴファで自身を犠牲として捧げた救世主について思い巡らすことを好んだ。ハリストスのことを知らない人々を泣くほど不憫に思い、そのような人にハリストスの光を伝えたいと熱く思った。修道士となり、宣教師として、中国、あるいは北シベリアの奥地、あるいはアメリカに行きたいと思った。しかし、ロシアの首都や市町村でも、ハリストスの牧群のためを思う、真の牧者たる司祭が必要であることも知っていた。自分の選ぶべき道を迷って答えを神に祈ると、それまで行ったこともないクロンシュタットの大聖堂で奉神礼を執行する自分の姿を、夢の中で見た。そして、この夢は神の指示であり、司祭になるべきであると判断した。

2、3週間後、卒業が迫っていた。そのとき、イオアンはクロンシュタットの長司祭ネスヴィツキー師の娘エリザヴェタと知り合い、求婚した。そして、卒業式の後、婚配式を挙げた。

イオアン・セルギエフが神学アカデミーを卒業したのは、1855年のことである。後年、イオアン神父は、アカデミーで様々な知識を得たことを感謝し、こう話している。

「私は、病弱な体質の持ち主だったが、初等教育、中等教育、高等教育を受けることができた。高等教育に当たる神学アカデミーは、特によい影響を与えた。神学、哲学、歴史などの学問が深く且つ広範囲に教授され、私の世界観が広がった。また、神の恩寵によって、神学の深い奥義にも触れ始めた。聖書、福音書、聖金口イオアン、モスクワの成聖者フィラレート等の聖師父の著作を読み、司祭になりたいと強く希望した。そして、霊智の羊を牧する司祭職の恩寵を賜わるよう、主に祈り始めた」

「主よ、爾は豊かに爾の真実と爾の義を私に教え給うた。学問を会得することを通して、爾は信仰と自然と人知の宝庫を私のために啓き給うた。私は爾の言葉、私たちの神゜と魂とを切り離すまでに刺しとおす愛の言葉を知った(エウレイ書4:12参照)。私は人間の知恵の法則とその哲学を会得し、言語の構造とその美しさを学んだ。ある程度、自然の神秘を覗き、宇宙の法則を学んだ。地球の人口を知り、世界の民族のこと、有名な人物と歴史を通じてのその偉業のことを知った。己を知り、爾に近づくためにどうすればよいかという大いなる学問をある程度知った。端的に言えば、『人の知恵の最たるもの我に顕せられたり』といえるよう、私は多くのことを学ぶことができた。主よ、光栄は爾に帰す。だが、私はもっと多くを知りたく、私の神霊は知識を渇望している。私の心はまだ満足できず、飽きることを知らない。私は、いま学び、今後も末永く学びつづけるであろう。」

このような気持ちでイオアン・セルギエフは、司祭に叙聖され神父として公に勤めるために準備をした。彼は「己と教うる事とを慎め、恒に之に居れ、蓋し斯く行いて、爾は己及び爾に聴く者を救わん」(ティモフェイ前書4:16)という聖使徒の命を常に心に秘めていたのである。

1885年12月10日、イオアン・セルギエフはサンクト・ペテルブルグの聖使徒ペトル・パヴェル大聖堂でレーヴェリの主教ハリストフォルによって輔祭に叙聖、同月12日には司祭に叙聖された。

若いイオアン神父は、クロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂付司祭に任命され、亡くなったばかりの舅、長司祭コンスタンチン・ネスヴィツキーの地位を継いで大聖堂の聖器物保管係となった。この時点からイオアン神父の忙しい牧会活動の毎日が始まった。

新任神父の志を如実に物語っているのは、「私はできうる限り誠実な態度で職に臨み、常に厳しく己を律し、自分の心を省みることを主義とした」というイオアン神父のことばである。

イオアン神父は、まず信徒に愛されるにふさわしい牧者となることを目指した。自分の牧群に心から愛されることこそ、様々な困難を伴う聖職を勤めるにあたって何よりもの支えであり、慰めだからである。自分が霊的生活において努力しなければならないこととして、イオアン神父は次の規則を打ち立てた。清らかな良心を保ち、主教の按手によって与えられた聖神゜の賜を守ること。毎日奉神礼を行ない、無血祭(※聖体礼儀の別名。「血を流さない祭、生け贄」の意)を捧げ、信徒のために祈ること。地上の旅を終えた後、神の恐るべき審判の前に立ち、自分の行いのみならず、救いに導くために主から任せられた牧群の行いにも責任をとること。

初めての聖体礼儀のとき、イオアン神父は信徒にこのようなことばを向けた。
「自分の職の高さと責任の重さを自覚しております。自分の弱さと至らなさを感じていますが、弱っているところを助け、欠けているところを補ってくださる神の恵みと慈しみを頼りとしております。多少なりともこの職にふさわしい者となり、この勤めをなすことができる者となるため、何が必要かを心得ております。それはつまりハリストスを愛し、兄弟姉妹の皆様を愛することであります。願わくは、万人に豊かな愛を与え給う主が私の心にもその愛の種をまき、聖神゜によってそれを育て給わんことを。」

信仰生活の中心が祈りであるとイオアン神父は確信していた。救世主の誡めにしたがって、彼は聖堂を祈りの家として認識し、奇蹟をも起こし得る祈りの力を信じ、深く、真心を込めて祈るように人々に呼びかけた。(祈るとき)「あなたが思うこと、言うことが何でも間違いなく実現できることを常に堅く信じ、心に留めておくがよい」とイオアン神父は書いている。人を助け且つ癒す祈りの賜は彼に与えられており、多くの者がそれによって癒しと救いを得ることができた。

1894年に出版された『ハリストスにあって生きる』(※イオアン神父の日記を収録した書物。『静思録』と題して明治期に日本語に翻訳されている)に、イオアン神父は祈りの力についてこう語っている。

「赤ん坊のパヴェルとオリガは、主の限りない慈しみと不当なる私の祈りによって、患っていた病気から癒された。恃みをもつ者は恥を得ず、叩く者には開かれ、粘り強く祈ることに報いてでも主が願いを叶えてくださることを頼みに、勇みと恃みとをもって9回祈りに行ってきた。執拗に頼む女性の願いを悪しき判事が聞き入れたなら、ましてや無垢の子供のために祈る罪深い私の願いを至義なる審判者が聞き届けてくださるに違いない、私の努力、私の行き来、私の祈りのことばとひざまずきを主は必ず顧みてくださるに違いないと思って。そして、主はこの罪人の私をはずかしめず、私の願いを叶えてくださった。10回目に戻ってみると、赤ん坊は2人とも元気になっているではないか。」

この偉大なる神父の祈りは、それほどの力を持っていたのである。イオアン神父は祈りと神の言葉にたいし深い尊敬を抱き、他の人にもそうするように勧め諭した。

「祈りのとき、また神の言葉を読むとき、神の神゜、真実の神゜にたいするように、一字一句、考えのひとつひとつにたいし畏敬の心を抱かなければならない」と、彼は書いている。

聖職者が人々のために捧げる祈りについて、イオアン神父が言っていることばもすばらしい。
「神の貴重な嗣業(財産)である人々のために祈ることは、何という高貴な勤め、栄誉、幸せであろうか。どれほどの喜び、元気、熱意、愛をもって、人々の父である神に、その子の血によって贖われた人々のために祈らなければならないことだろうか。」

イオアン神父は、ほとんど毎日聖アンドレイ大聖堂で聖体礼儀を執行した。「聖体礼儀がすべてであるという人がいる」と彼は言い、できるだけ頻繁に聖体礼儀を行なうよう努めた。また、生涯の最後の35年間にわたって、旅行の移動中の朝と、病気で倒れた日を除けば、毎日聖体礼儀を欠かさなかった。イオアン神父は次のようにそれを説明した。

「主の聖体尊血がなければ、世界は最も重要な福、真の生命の福を持たず(「己の衷に生命を有たざらん」(イオアン6:53))、生命のまぼろししか持たなかったであろう」。故に、「ハリストス救世主が聖体機密を制定したのは、その神性の火によって我々を清め、罪を根絶し、その聖性と義とを我々にもたらし、我々を天国の住み処と言い難き喜びにふさわしい者にしてくださるためである。何という限りない慈しみと叡智、陥罪した人間である信者にたいする何という憐れみと寛容、至聖なる神と罪人との何という和解であろうか。不浄の者が至潔の神の血によって清められるとは、何という奇蹟であろうか。」

自分を正当化するように「私は準備ができていない。私はふさわしくない。」と言ってまれにしか聖体機密を受けない人に、イオアン神父はこう呼びかけた。

「このような考え方は実際にその人の真の謙遜をあらわすことがある。そうした心をもつ人は、もちろんこの考えがハリストスとの合一を少しも妨げることはない。「主よ、我を離れよ、我罪人なればなり」(ルカ5:8)とハリストスに言ったペトルの謙虚な意思表示がそれを妨げなかったと同じである。だが、謙遜というもっともらしい口実の下に、実は信仰に無関心であったり、生き方を改めることを怠る心が潜んでいないかと、己を省みなければならない。準備ができていないというなら、準備することを怠けるなかれ。ふさわしくないというなら、人はひとりも罪のない者がなく、至聖なる主との交わりにふさわしい人はひとりもいない。しかし、すべての人と同様、あなたも信じ、痛悔し、己を改め、赦しを得、罪人を救い給う主の慈しみをたのみとすることができる。あなたは、ふさわしくないと言っている。機密にあずかることを許すかどうかは、機密を領ける者ではなく、機密を執行する者の任務であり、決める任務が自分にあるなどと思ってはならない。あなたがふさわしくないとしよう。だが、あなたはふさわしくない者でありつづけたいのか。注意するがよい。現世にあってこともなげにハリストスとの交わりにふさわしくない者でありつづけるなら、来世の命にあってもやはりその交わりにふさわしくない者となる危険が極めて大きい。自分がふさわしくないことをおそれ(これはしかるべきことである)、またこの状態から解放されたいと思う者は、己をハリストスから、その恩寵から、その生命から離すことで、はたしてふさわしくない状態から脱出することができようか。それより、できる限り自分の不当さを改めながら、聖体機密のうちにハリストスに走りつくほうが確実なのではないだろうか。そうした者はもっと完全に行いを改め、神に適った生き方に成長するために主から力を賜わるからである。

ハリスティアニンよ、毎日イイスス・ハリストスを領けるにふさわしい生き方をせよ。なぜなら、毎日主を領けるにふさわしくない者は年に1度でも主を領けるにふさわしくないからである。主は、聖堂において気前よくその豊かなる食卓を私たちのために用意し、その晩餐に私たちを招いてくださっている。私たちは、その慈しみ深い招きにたいし、「我が辞するを允(ゆる)せ」(ルカ14:18)という恩知らずの答えをすることを恥としなければならない。

私たちは、「召されし者は堪えず」(マトフェイ22:8)という恐るべき宣告をおそれなければならない。ゆえに、自分の不当さをおそれながらも、恩寵を信じ、いと甘美なるイイススへの愛を渇望する心で、できるだけ頻繁に主の食卓に就くように、奮闘しなければならない。主の聖体尊血こそ真のパンだからである。」

生命を施す聖体機密の力について、イオアン神父はこう証言する。
「主の聖体尊血がどれほど偉大で、生命を施す力を秘めているか、驚きにたえない。吐血していて、弱りきってしまい、何も食べられなくなった状態の老婦人にご聖体を授けると、病気はその日からめきめき回復しはじめた。瀕死の娘は、領聖後よくなって、食べ、飲み、話すことができるようになった。それまでは、ほとんど人事不省に陥り、熱にうなされてひどくあがき、食べることも飲むこともまったくできなかったのと対照的である。主よ、光栄は畏るべくして生命を施す爾の聖機密に帰す。」

イオアン神父の訓戒に耳を傾けて、多くの人は生き方を改め、心から痛悔をし、博愛の牧者の手から喜びながらご聖体を領け、病の癒しを受けた。

イオアン神父に心引かれ、最初は何十人、それから何百人もの人が彼のもとを訪ねた。最盛時には、クロンシュタットのアンドレイ大聖堂に5・6千人もの参祷者がつめかけた。毎年、2万人を超える巡礼者がクロンシュタットを訪れ、晩年にはその数は8万人に上り、大斎の第一週間だけでも1万人近い信徒が駆けつけた。

困ってイオアン神父のもとに来る人たちのために彼は心を込めて純朴に祈りを捧げ、その信仰に満ちた祈りと痛悔と領聖とは、奇蹟を起こすことが常であった。イオアン神父自身は厳格な苦行生活を送り、彼に与えられた恩寵によって、渇いた人に豊かな泉から気前よく生命の水を分け与えた。何千人もの人の魂を罪の泥沼から引き上げ、多くの人を絶望から救い、慰め、社会に復帰させた。

イオアン神父は心からその牧群を愛した。彼は誰ひとりよそもの扱いせず、助けを求めて神父のもとにくる一人一人が彼にとって近親者となっていった。イオアン神父には私生活というものがなかった。もっとも、他者のために己を捨て、他者のためにすべての愛を捧げることこそ、牧者の本分の真髄ではないだろうか。

痛悔者があまりに殺到するため、ひとりひとりの痛悔を聴くのが体力的にも無理で、イオアン神父は合同痛悔を導入したが、それは驚異的な効果をみせた。痛悔の前に彼は説教をした。「イオアン神父が語ることばは形としては単純であったが、その中に秘められた精神としてはとてつもない力があった。それを耳にする参祷者たちは心の奥底まで揺り動かされ、自分の罪を忌み嫌い、声に出してそれを告白したほどである」(府主教ヴェニアミン・フェドチェンコフ著『長司祭イオアン・イリイチ・セルギエフ』)。

「私は弱く、貧しい。神が、私の力である。なお「神は愛なり」(イオアン第一公書4:8)。これを確信することは、私を福たらしめる私の至高の知恵である」と神父は言っている。

聖アンドレイ大聖堂は5千人から7千人までの収容能力があったが、ほとんどいつも立錘の余地もなかった。イオアン神父のもとを訪ねる人々に対する彼の助けがどれほどすばらしかったかが分かるには、大聖堂を後にする人々の喜びに満ちた顔を見るだけで十分であった。イオアン神父自身はそれについて次のように語っている。「教会は、およその誠実なハリスティアニンの最大の天の友である。司祭は、教会の博愛精神の担い手と代弁者でなければならない。」神父の考えでは、教会が「われわれのこの上ない霊的な慈母である」なら、「司祭は教会の信徒への母性愛精神の担い手と代弁者でなければならない。司祭が神父と呼ばれ、信徒が諸子と呼ばれるゆえんである。」

その時代、クロンシュタットは殺人者や泥棒などの犯罪者の流刑の地であった。流刑囚の生活はひどかった。「暗く、汚い、罪そのものという生活であった。ここでは、7歳の子供さえ淫乱や強盗を働くようになるほどであった」(掌院メフォディイと『長司祭イオアン・イリイチ・セルギエフ』)、その時代の人が振り返る。「だが、神の像である人を、その内にある悪と混同してはならない。なぜなら、そういった人の内にもやはり神の像は存在しつづけるからである」とイオアン神父は教えた。

普通の働き人にとって不毛な砂漠となったであろうこの環境は、イオアン神父にとって豊作をもたらす葡萄園となった。穴小屋や地下室に住む彼等に来て、司祭の義務をはやく済ませて帰るのではなく、全世界より貴重なひとりひとりの生きた魂をもつ兄弟姉妹として彼等に接し、何時間も残っては話したり、戒めたり、慰めたり、彼等と一緒に泣いたり喜んだりした。

最初の頃から、イオアン神父は貧しい人々の生活の物質面にも心を配った。たとえば、自ら店まで食糧を買いに行ったり、薬局に薬を求めに行ったり、医者を呼んだりした。一言でいえば、自分も金持ちだったわけではないのに、最後の一銭まで分け与えるほど、彼等のことを心配したのである。

そういった訪問の後、イオアン神父は神の慈しみへの強い信仰と静かな喜びを心に秘めて家路についたものである。彼は「貧者に与うる者は乏しからざらん」(箴言28:27)という聖書のことばを思い起こし、主が今後の慈善のための資金を与えてくださると信じた。

周囲の人の貧困、悪徳、無知蒙昧、苦痛、絶望との闘いは、神父の活躍の一面にすぎなかった。
「司祭および牧者として叙聖された後、私は誰に戦いを挑んだかを肌で体験した。強い、狡猾な、休むことなく悪意と滅びと地獄の炎の息を吐きかける「この世の君」「天空に在る凶悪の諸神゜」(エフェス書6:12)(悪魔)がその敵であった。誘い、敵の汚い行為、つまづきが始まった。敵は、悪漢のように、私の霊的な歩みと私の神への献身の途上で私につきまとうようになった。それは、善き牧者である主が私を試練期間と体験的な霊的教育に導き入れたことを意味した。ハリストスの司祭職の重荷を背負った私がどのような敵と戦い、霊智なる牧群を誰から守らなければならないかが解るためである。主は、霊的な「我が手に戦闘を教え、我が指に攻撃を誨え」(聖詠143:1)てくださった。この目に見えない凄まじい戦いの中で、私は心から信じること、恃むこと、忍ぶこと、祈ること、精神の正しさ、心の清さ、地獄に打ち勝った見るべからざる全能の主宰および牧者長イイスス・ハリストスの名を絶えず呼び続けることを学んだ。そして、主の名と力によって、獅子や狼のごとく私にむかって咆哮した敵と自分の醜い諸慾にたいし勝利を収めるようになった。目に見えない、強く狡猾な敵との戦いは、私がどれほど弱く、弱点や罪なる諸慾が多いか、この世の君が私にたいしてどれほど力があるか、私がどれほど自分と自分の罪なる性癖や習慣と戦わなければならないかを明らかに示してくれた。聖詠歌者・預言者ダウィド王のように、私は常に目を挙げて山を望み、彼処より速やかにして全能なる助けが来て(聖詠120:1)、私の強敵は逃げ、私は自由と心の平安を得たものである。」

イオアン神父は、何か善いことをする機会がくるのを手をこまねいて待つことはなかった。「善いことをするとき、勇敢で決然たれ。特に、相手がやさしいことば、思いやり、助けを必要としているとき、勇むがよい。いかなる善いことにあたっても、落胆や絶望はあってはならないことと思うがよい。『「我を堅むるイイスス・ハリストスに由りて、我能くせざる所なし」(フィリッピ書4:13)。私は罪人の中で第一であるが、「信ずる者には能くせざることなし」(マルコ9:23)』と言うがよい」とイオアン神父は教えている。

この善き牧者は、実に人助けの権化ともいうべき人物であった。クロンシュタットの人々は、神父が裸足で、しかもリヤサなしで帰宅することを目にすることがよくあった。信徒たちはマトシカを訪ね、「神父さんはまた靴を人にあげてしまって、裸足で帰るから」といって、新しい靴を持ってきたりした。

最後の一銭まで人に分け与えることが常であったイオアン神父は、自分も妻も貧困生活を余儀なくされていた。
イオアン神父と親しかった人の証言によると、彼は妻の賛同を得て生涯童貞を貫いたという。マトシカ・エリザヴェタは、福なる夫の祈祷や慈善に参加しつつ、夫のことを「イオアン兄」と呼んだ。イオアン神父は、「私は司祭だから、自分のことを忘れ、人に尽くすべきだ。リザ(※エリザヴェタの愛称)、幸せな家族は他にたくさんいるじゃないか。この私たちは神に身を捧げよう」と、妻に言った。

だからといって、イオアン神父は、妻に決して無関心だったわけではない。神父は妻をやさしく愛していた。人を愛せずにはいられなかった神父の心には当然なことだった。生涯童貞を貫くことは稀にみる難行であるが、イオアン神父の妻は苦労しつつも、神の助けを得て、夫と共にこの難行を修めることができた。マトシカは、イオアン神父にとって誰よりもの相談役であり、喜びも悲しみも分かち合うパートナーだった。

夫が司祭として奉職する間、マトシカはできる限り、その十字架を負う手助けをした。イオアン神父を深く尊敬し、司祭としての祈りの力を心から信じ、博愛の夫にあった神の恩寵に畏敬の念を抱いた。

ある日、イオアン神父は、ひどい肺炎になった。ほぼ意識不明の状態で病床についている間、妻はベッドの側に座ってさめざめと泣いた。すると、神父は目を開け、妻に言った。「リザ、泣くな。神の御心なら、私は治る。治らなくても、神様も善い人もお前を見捨てはしないだろう。私は一度も人を見捨てたことがないから、お前もきっと見捨てられない」

1857年、イオアン神父はクロンシュタット市立学校で正教要理の担当教師として教鞭を執ることとなった。イオアン神父は、こうした機会に恵まれたことを神の賜と考えた。教養ある、熱心な牧者にとって、若年層を教えるという畑で働き、青少年の心に神の言葉の種をまく仕事は大きな喜びだったのである。

1862年、クロンシュタットでは古典中学校(帝政ロシア時代、ギリシャ語やラテン語等の教育が施された8年制学校)が開校した。イオアン神父がその学校で「神の法」(※帝政ロシアで、学校生徒が正教要理を習った科目名、ザコン・ボージ)の教授を担当することを依頼されたとき、その喜びようは更なるものであった。

イオアン神父は、司祭が主からどれほどの賜を与えられているかを強調している。その賜を一人占めにせず、他の人に分け与えなければならない。模範は自然界である。太陽はその光を一人占めしないで、地球や月にもそれを注いでいる。特に、牧者たちはその光、もっと正確にいえば神の光を一人占めせず、その知恵や知識の光を豊かに人の心に注ぎ与えなければならない。それが子供や若者の心であれば、なおさらである。
イオアン神父は自分の経験を踏まえて、子供に信仰を教授する教師に向かってこう言っている。

「あなたは子供たちに神の法を教えている。何よりも、福音書を教科書として扱うことを恐れなければならない。それは罪だからである。それは、子供の心の中で、一生の宝物と指南とならなければならない書物の価値を失わせることを意味している。いのちの言葉をいのちなき断片に切って、それについて子供たちを悩ます問題を出すことは、良心にとって恐るべきことではないか。福音のことばを子供たちに伝え、それについて答えさせるためには、子供の心の機微に敏感な心が必要である。カリキュラムにある問題どおりに機械的に答えさせられ(下手に作成された問題や子供にとって解りにくい問題もあったりする)、答案に点をつけられる状況に置かれた子供は心を乱され、泣くことさえあるが、そうしたことをさせる試験官は罪を免れない。彼らは子供の心に対し何をしているのかわからずにいる、と言っても過言ではない。」

子供たちが神法に耳を傾けないことがあるなら、その原因はそれが他の教科と同じように、つまりちょっと退屈そうに、あるいはまじめにであるが機械的に教えられることに他ならない。このような教授は福音を殺し、福音書のことばをただ暗記の対象として生徒たちに認識させるが、こうなるともうどうすることもできない、というのである。イオアン神父自身は、ハリストスのことばを、教師でありながら神である方が遺したことばとして子供に伝えた。彼の声、顔、すべては、これらのことばが人生のためにいかに貴重であり、神聖であり、必要であるかを物語っていた。そして、子供たちは耳を傾け、「此等の言を悉くその心に蔵めたり」(ルカ2:51)。

「教育を授受する際、心を無視して理性と頭脳のみを育成することは非常によくない。最重要視しなければならないのは心のほうである。心が命だからである。だが、それは罪によって損なわれた命であるので、その命の泉を清め、心の灯明に清らかな命の火をともさなければならない。その火が消えずに燃えつづけ、人の思い、望み、志のすべて、人生のすべてを方向づけるものとなるためである。ハリストス教的な教育の欠乏こそが、社会の堕落と荒廃の原因である」と、イオアン神父はその日記に綴る。彼自身は徹底して子供たちの人格形成に多くの力と忍耐力を注いだ。「強制された、形式的な勉強は何の役にも立たない。子供が自発的に勉強し、教えられることについて考察することができるようになる努力をしなければならない」とイオアン神父は主張する。

イオアン神父のクラスには、「無能な生徒」はいなかった。というのは、イオアン神父の授業は、できる生徒にとっても、できない生徒にとっても、いつまでも心に残って忘れられないものだったからである。イオアン神父は、子供たちが頭で内容を覚えることよりも、ハリストスの教えに魅了されて進んでその誡めに従おうという心を起こすことに注目した。つまり、自分の心に満ち溢れていた聖なる思いの数々を子供たちの心に伝えようとしたのである。

霊体ともに人の力になる機会に恵まれるとき、この博愛の牧者は大いに喜びと慰めを感じた。子供たちに主の教えを伝える教師としての活動もその例外ではなかったのである。

『ハリスティアニンの哲学』と題する著書では、イオアン神父はこう書いている。
「真心を込めて主に仕えることは、何と甘美なることだろうか。心から祈ったり、神の言葉を読んだり、善行をしたりするとき、心は何という平安、甘美さ、軽やかさ、ゆとりを覚えるだろうか。善き、聖なる、叡智なる、不朽の、永遠の、福なる神の旨を行うことに、どれほどの霊的な、不朽の甘美さ、安らぎ、至福があるだろうか。それがどれほど大きいかは、この至福のため、愛智なるハリスティアニンたちは喜んで肉体の苦行や不眠不休の祈祷をしたり、あらゆる受難、嘲笑、侮辱、屈辱、人々と悪魔からの迫害、その他の艱難辛苦に耐えたりしたことでも分かる。そして、その希望は裏切られず、彼等は永遠の福楽を手に入れた。」

「神父様は疲労も人並みじゃないでしょう。いっときの安息も許さないんですから」というペテルブルグの或る長司祭のことばに、イオアン神父は答えた。「安息なんて要りませんよ。私たちの安息はあそこにあるのです(彼は天を指差した)。ここでそれをかち得られたらの話ですが。しかも、牧者というものは安息なんて言ってられませんよ。まだその声を聴いていない羊や、聴こうとしない羊がいますから。それから、うめき声をあげて助けを求めている羊も。人々が滅びに脅かされているとき、牧者が休むなんてとんでもないですよ」と。

イオアン神父にとって、司祭職の意義は極めて大きかった。「司祭とは、何と高貴な者であろうか。司祭は常に主とことばを交わし、そのことばに対し主は常に答えてくださる。どの礼儀も、どの祈祷も、司祭はいつも主に話しかけ、そして必ず主の応答が返ってくる。心が諸慾に襲われるとき、司祭は諸慾が下劣で不潔なものであり、特に神品職の自分の心にそれらを入れてはならないことを忘れてはならない。司祭の心を余すところなく満たすのは唯一イイスス・ハリストスでなければならないからである。司祭は人間ではなく天使であり、この世の物事から遠く心を離さなければならない」というのである。

「司祭は神と人々の間の仲介役であり、人の罪を解いたり、人のために生命をほどこす恐るべき聖体尊血の機密を行ったり、それによって神化し、他の人を神化させる権利を持っている」と、イオアン神父は司祭職について大胆に述べている。

司祭に与えられた大いなる権利は、重大な責任をも意味する。中でも、神聖なる聖体礼儀と聖体機密の執行者としての責任が特に重大である。「司祭は何よりもまず神の恩寵によって福音的な愛を獲得しなければならない。それは常に、どの瞬間にも司祭にとって必要不可欠なものだからである。だが、司祭が特に愛を求められるのは、聖体礼儀を執行するときである。聖体礼儀は、人類に対する限りない神の愛の機密だからである。聖体礼儀のとき、司祭は神を愛し、ハリストスの血によって贖われた隣人を愛する心に燃えなければならない」と、イオアン神父は書いている。

己を捨て、心を清めようとする努力を続けてはじめて、このような愛を手に入れることができるようになる。「神聖なる愛、全人類への聖なる愛に燃える心の持ち主となって、全世界のために神に無血祭を捧げるために、司祭はどれほど世事への執着心から自由な、清らかな心を持っていなければならないだろうか」

イオアン神父は、何度も司祭職に対する道徳上の要求を思い起こさせようとする。「司祭よ、あなたは信仰と教会の代表者、主ハリストスご自身の代表者である。あなたは温柔、清純、勇気、志操堅固、忍耐、高潔な心の模範でなければならない。あなたは神の仕事をしているから、どの場合にも落胆したり、誰にも報復したり、こびへつらったりしてはならない。あなたは自分の仕事を人のどの仕事よりも高貴なものと認識しなければならない」

まれにあった休息のとき、イオアン神父は筆をとって、その心を満たし、生きがいとなっている事柄を紙に記した。彼はその日記に『ハリストスにあって生きる』(『静思録』という題名で明治期に日本語に翻訳されている)という題名をつけ、「ここに書かれていることはすべて、自分を注意深く省みるとき、特に祈りのとき、私の心が万有を照らす神の聖神゜から賜わった恩寵的な閃きに他ならない。何年にもわたってできるだけこういった恩寵的な思いや心境を記しつづけた記述がたまって、本書となったわけである」と書いた。

イオアン神父は奥の深い思想家、偉大な霊的指導者と教会の教師であり、その著作は約4千500頁という量にのぼる。

イオアン神父の信仰はまさに生きた信であり、行動を伴ったものであった。そうした信仰心は貧困の人を思いやる心を起こさせ、神父は祈りや教訓のことばを通じてだけではなく、物質的にその人たちを支えることでも思いやりの心を表した。イオアン神父は神と隣人への愛に燃え、司祭としての奉職の当初から慈善活動に携わってきた。最初のうちはそれはごく限られたものであり、特定の組織がなかったので、彼は単に自分が持っているすべてのものを困っている人に恵んだりした。その際、この人がなぜ落ちぶれ、貧しくなったかに構わず、人が困っているからこそ助けようとしたのである。

イオアン神父は持っているお金などを貧者に分け与えていくうち、困っているすべての人を満足させるにはそのような慈善が不十分であり、蔓延している貧困と闘うにはほとんど効果がないことにはや気づかされた。そこで、神父は1874年に聖アンドレイ教会の付属という形で「聖初召使徒アンドレイ慈善会」を設けた。

1872年、「クロンシュタット時報」にクロンシュタット市民への呼びかけが載った。その中で、イオアン神父は無宿
の貧乏人を援助することを次のように呼びかけたのである。

「彼等に精神的にも物質的にも手を貸しましょう。同じ人間として、われわれの兄弟としての彼等との連帯を拒否せず、われわれはまだ人を愛する心を持ち、完全なエゴイストになりさがっていないことを証明しましょう。これらの事情があるため、「勤労の家」を作ればどんなに結構なことでしょうか。そうすれば、多くの貧者がこの家に仕事をもらいに来て、その報酬で生計を立てることができるようになるでしょう。そうなると、われわれの貧乏人は労働をし、平和に暮らし、神とその恩人に感謝しながら生活ができるようになります」

市民はその牧者の呼びかけに応えて、喜んで行動を起こした。このようにイオアン神父は組織的な慈善活動の端緒を開くこととなった。困っている者が無為徒食の生活を離れ、労働を始めるための助力を得ることができる「勤労の家」という施設が始まりであった。それができてからも、永眠するまでイオアン神父は個人的に恵んでもらおうとする貧乏人ひとりひとりに何の惜しみもなく施しをしつづけた。イオアン神父はすべての人を愛し、どんな人であっても精神的に、かつ物質的に支えようとする広い心の持ち主だったのである。

イオアン神父の力強いことばに感化されて、神父を慕う人々は神父のもとにお金を持ってきたり、献金を送金したり、慈善施設を作ったりした。また、イオアン神父に倣って、貧者を援助したり、教育施設や慈善施設にいる人を対象とした奨学金を設けたり、聖堂、学校、養護施設を建てたりした。

1882年に「勤労の家」は完成した。それは立派な設備が整った4階建ての施設であり、聖アレキサンドル・ネフスキー教会が建物内に設けられていた。「勤労の家」には、1年間で2万5千人にものぼる人が働いた作業場、女子工房、手仕事の夜間講座、300人の子供が勉強できる学校、幼稚園、サマーキャンプ、孤児院、女性を対象とした無料の救貧院、大衆食堂(値段が安く、祭日には無料の食事が提供された)、「家」に住み、働く者に食事を提供するための畑、図書館、無料の医院、日曜学校等などがあった。

イオアン神父の努力によって、1888年にホームレスのための宿泊所、1891年には慈善養老院ができた。社会的地位と宗教に関係なく、困っている人ならだれでも援助を受けることができた。クロンシュタットの「勤労の家」は、ロシアの首都や地方で同じような施設を設ける呼び水となり、模範となった。

こういった活動と共に、イオアン神父はロシアの各地で幾つかの修道院や聖堂を創設した。中でもリーラの聖イオアン修道院が好きであり、1902年12月18日に「主の恵みによってロシアの首都ペテルブルグでカルポフカ川の聖イオアン女子修道院を作り、成聖させていただいたにという喜びを主に感謝します」と記している。他に、プスコフ主教区のヴォロンツォフスキー生神女福音女子修道院、ペテルブルグ在のポドヴォリエを持ったチェレポヴェツキー郡のレウシンスキー女子修道院、ヤロスラウリ州のワウロフスキー・スキート(小修道院)などがあった。

クロンシュタットを訪れる人々は、イオアン神父の慈善活動のことを知っており、たくさん献金をした。何か善いことをしようと、心の広い神父が着手した事業の完成を目指して努める人が多くあった。現金書留で献金を送る人も、たくさんいた。イオアン神父のもとに集まる献金は、必要に応じて、貧しい人や困っている人に割り当てられた。

イオアン神父は、毎日、とてつもない数の手紙を受け取った。郵便局の調べによると、一日でイオアン神父宛に来る手紙や現金書留は1、000通以上あったという。このように来る献金は、困っている人宛てに送り返されていったわけである。

イオアン神父の慈善活動は、1年間で何百万ルーブルという、膨大な金額に上った。
人々は、イオアン神父を愛する気持ちの表現として、神父に様々な贈り物をした。その多くは、また、貧しい人の生活を援助するために当てられた。クロンシュタットの「勤労の家」には、値段1,000ルーブルにも上る祭服約40着、イコン、ミトラ等がたくさん保管されていた。さらに、家屋、汽船などの不動産も贈られたりした。
「私には、自分のお金はありません。人は私に献金し、私も献金する。献金がどこから、誰から来たかが分からない時だってよくあります。だから、私も、そのお金が役に立つであろう、困っている人のところに献金をします」と、イオアン神父は語った。

イオアン神父は、毎夜、一銭のお金もないまま、床に就いたと言われている。次の日は、様々な慈善施設の運営だけでも1、000ルーブル以上も必要だったにもかかわらずである。しかし、その次の日が神父の希望を裏切ることは一度もなかった。イオアン神父は53年間にわたって同じアパートに暮らし、よりよい環境を求めようとしなかった。

神の助けを信じてイオアン神父のもとを訪ね、神父と一緒に祈った後、癒しを受ける人がたくさんあった。
祈っているイオアン神父を目にする者は、神父が自分の前に神を見、勇ましく神と話をしているように見えたという。神父は、ハリストスの服をつかんで祈りが聞き届けられるまでは絶対に手放さないような祈りようで、神に頼み込み、見方によっては神に対してその願いを押し通そうとした。「ああ、婦よ、爾の信は大いなり、爾が望む如く爾に成るべし」(マトフェイ15:28)とハリストスが言った、かのハナアンの女のように、神父は神に叫ぶのであった。
イオアン神父の祈りによって奇蹟が起こるようになり、その噂はクロンシュタットとペテルブルグに広まった。1879年あたりになると、その奇蹟は報道され、紙面で論議されるようになった。「サンクト・ペテルブルグ報知」、「ペテルブルグ新聞」、「クロンシュタット報知」等の新聞、「旅人」、「魂のための読み物」等の雑誌には、イオアン神父の牧会活動中に起きた奇蹟が何千件も記載された。

1883年12月20日付の「新時代」新聞には、有名な「感謝声明」が載った。その「声明」は、クロンシュタットの神父の名が全ロシアに知れ渡ったきっかけとなったといえる。何十人もの人が署名した「感謝声明」には、次のように述べられた。

「我々、下に署名した者は、クロンシュタット市アンドレイ大聖堂の長司祭イオアン・イリイッチ・セルギエフ師が、我々が罹っていた様々な病気・難病を癒してくださったことを心から感謝する気持ちを、ここに表明することを道義上の義務と存じます。我々の中には、長期間にわたって入院し、医者にかかった者も少なくありません。弱い人の努力は徒労に終わりましたが、あらゆる病苦を癒してくださる神の全能を心から信ずることが我々のために救いをもたらすこととなりました。神の前に立派な方、敬虔な長司祭イオアン師を通して、神は我々罪人に助けと癒しを与えてくださったわけであります。万物の造成主からありとあらゆる恩恵を賜わることに値する行者、イオアン神父の聖にして有益なる祈祷によって、我々を苦しめていた身体の病気が全癒したばかりでなく、道徳上の病から奇蹟的に癒された者もおります。悪徳と滅びの道を歩み、もう少しのところでとり返しがつかなくなっていたはずの者です。その者は、神がそれほど明らかにその憐れみを垂れてくださったことに元気づけられて、今まで罪に生きてきたことを改め、堅気になり、神を畏れる行いに努めようという力が湧いてきました。

罪深い人類のために常に慮ってくださっている至善なる神の摂理がこれほど明らかに表われた奇蹟を、信仰心の薄い現代の多くの人をさとすため、広く知らしめることを有意義と考えております。それに伴い、大いに助けてくださった克肖なる長司祭イオアン師に深甚の感謝の意を表することを切なる義務と存じ上げますと共に、今後とも師の祈りの時に我々罪人のことをお忘れにならぬようくれぐれも宜しくお願い申し上げます。また、多大な尊敬に値する治癒者イオアン師に助言を求めましたところ、神の義にそって生き、できるだけ頻繁にご聖体を領けるようにと、何よりの癒しと救いをもたらす助言が唯一返ってきましたが、それを自分も忘れないようにし、皆様にもお伝え申し上げたいと存じます」

博愛の牧者だったイオアン神父は、ロシア国民の各階級に強い影響を与え、ロシア全土に名声を博したが、自らこう語った。

「名誉は、ほしいと思ったことも求めたこともありません。ほしくなくても、ひとりでに来るのです。『我を栄する者を、我栄せん』(サムエル記上2:30)と言われた方に、光栄を帰します」

イオアン神父が何よりも心を砕いたのは、自分に任せられた人々の魂の救いのことである。
「ひとりひとりの人は、救いのために予定されている、不死の魂を持っています。どんな人であっても、その不死の魂を愛し、その人が救われるよう祈らなければならない。救いを得なければ、この世でどんな幸福を享受しても何の意味もないからです」と、神父は教えた。

イオアン神父の祈りの力を知っていたのは、ロシア人だけではない。心に響く手紙や電報は、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、アメリカ、インド、イギリス、オーストリア、スウェーデン、ポルトガル、ギリシャ等の各国から、何千通も、イオアン神父宛に届いた。
あるスウェーデン人少年は、「神父様が祈りで病気を癒してくださると聞きました。僕の母は精神病で、いま入院しています。母がいなくて、僕はさみしいです。母が治るようにお祈りください」と、手紙に書いた。
また、アメリカの新婚夫婦は「これから幸せに過ごせるよう」祈ってほしいと依頼した。聖水、聖油を送ってほしいと依頼するドイツ人もいた。


試訳


トロパリ、第1調

正教信仰の保護者、ロシアの地の為に執り成す者、牧者の範及び信者の鑑、悔改及びハリストスに在りて生くることを説きし者、慎みて神聖なる機密を行い、且つ勇みて人々の為に祈りし者、義なる神父イオアン、治癒者及び霊妙なる奇蹟者、クロンシュタット邑の誉れ及び我が教会の飾りよ、世界を平安ならしめ、我等の霊を救わんことを最仁慈なる神に祈り給え。

他のトロパリ、第4調

神智なる神父イオアンよ、爾は司祭として奉職して、ハリストスに在りて生くることを己のものとし、ロシアの地の善き牧者と顕れ給えり。爾は病を追い払い、小心の者を慰め、至浄なる聖体血の機密にて信者をしてハリストスと体合せしむるの豊かなる恩寵を主宰ハリストスより受けたり。故に我等は我が霊の為に祈る者として爾を讃め歌う。

コンダク、第3調

今日クロンシュタットの牧者は神の宝座の前に立ちて、「我、我の教会を建てん、而して地獄の門は之に勝たざらん」と約せし牧者長ハリストスに信者の為に熱切に祈り給う。

クロンシュタットの聖イオアン

現代の聖人

Св. Иоанн  Кронштадтский

St. John of Kronstadt

編集:マリアまつしま


クロンシュタットの聖イオアン(イオアン・イリイッチ・セルギエフ神父)1829-1908
 アルハンゲリスク近郊のスーラという寒村に生まれた。苦学して神学校、神学大学で学び、卒業後妻帯司祭として26歳の時ペテルブルグ沖の軍港町クロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂に奉職し50余年の生涯を市井の人々の教化と伝道に捧げた。
 帝政末期の不穏な空気が漂い、盗みが横行し、物乞いがあふれ、人々の心はすさんでいた。イオアン神父は毎日聖体礼儀を行い、人々の話に耳を傾け、病人をいやし、数々の奇蹟を行った。貧しい人々のためには施すだけでなく自立を促すために職業訓練所、孤児院、無料宿泊所、製パン所などを創設した。
 最初の聖体礼儀で語ったことば「私が司祭として与えられたこの地における神の使命は、主ハリストスに対する愛、ただこれだけである。愛ほど偉大なものはない。弱いものを強くし、滅びようとするものをおこし、小さなものを大いなる者とするこれが福音の教えようとする純な愛の性質である
を生涯実践した。
 機密に預かること(ご聖体を頂くこと)の大切さを説き続け、「集団痛悔」を行ったことでも知られる。晩年には聖なるロシアは滅び、カタストロフが来ると革命を予見し、悔い改め神に立ち返るように呼びかけた。
 7歳年下の日本の亜使徒聖ニコライとも親交があり、物心両面からニコライの宣教を応援していた。明治時代に『説教集』と随筆集『静思録』(キリストにおける我が人生)が出版されている。

 

クロンシュタットの聖イオアンと日本



クロンシュタットの聖イオアンの生涯 (アレクセイ・ポタポフ訳)

クロンシュタットの聖イオアンとレウシンスキー修道院 

「静思録」 (随筆集--キリストにおける我が人生)抄訳 
(現在1-20のみ)
  
下記の英語版、ロシア語版、明治33年の日本語版 「静思録」も参考にした試訳。


クロンシュタットの聖イオアンの関連リンク集

 ・伝記『クロウェンシタトの聖イオアン』ニコラウスキー (日本語)工事中
     
・『静思録』(英語版)
   http://www.ccel.org/ccel/kronstadt/christlife/Page_Index.html

 
アレキサンドル主教(ミレアント)による聖イオアンのページ(英語)
   http://www.orthodoxphotos.com/readings/SJK2/


現代の聖人の紹介ページへのリンク

聖イグナチイ・ブリャンチャニーノフによる説教集 (アレクセイ・ポタポフ訳)
    http://home.att.ne.jp/green/lmn/brianchaninov/